自分のスタイル
「兄ちゃん」
数回のノックをした後、聞きなれた声がドアの向こうから聞こえてくる。
幼い頃は兄弟同じ部屋だったが、いつからか親がそろそろ一人一人の部屋にしようと言い出した。確か、兄が高校に入る頃だっただろうか。一人の方が勉強にも集中出来るだろうし、このくらいの年なら自分の部屋が欲しくなるだろうと考慮してくれた結果だ。
本当は兄が中学に上がる時にという話だったのだが、弟の和成が兄と一緒の部屋のままが良いと譲らなかった。困った親に真太郎も別に構わないからということで解決した。流石に高校生になれば中学とは勉強量も比ではないからと再び親が提案し、今の形になった。
「どうかしたのか」
「今、忙しい?」
現在進行形で課題を片付けている最中ではあったが、まだ時間もあるから急ぐほどのことではない。同じ家に居るのにいつまでも壁越しで話しているのもおかしなことだ。とりあえず部屋に入れと声を掛けてやれば、遠慮がちにゆっくりとドアが開かれた。
部屋に入るなり兄が教科書を広げているのを見付けると、ばつの悪そうな表情を見せたかと思えば「やっぱいいや」と言って出て行こうとする。部屋を出る寸前で腕を掴み「大丈夫だ」と言っても「でも」と言い出す始末だ。昔はこちらの都合など関係なしに遠慮もなかったというのに、弟も成長するにつれて色々と状況に合わせて行動が出来るようになったらしい。逆に遠慮をしすぎるというのが新たな問題だが。
「オレが良いと言っているのだよ。それで、何の用だ」
このままでは埒が明かないと用件を尋ねることにする。ここまで言えば少なくとも用件は話すだろう。 色素の薄い瞳が揺れる。言って良いのか悪いのか、誤魔化そうとしているのは見て取れる。だが、ここで誤魔化しても意味がないということくらいは十分知っている筈だ。もう何年も兄弟として一緒に暮らしてきているのだから。
時間にしたらどれくらい経ったのだろうか。一分くらいは無言のまま時が流れただろう。翠色の瞳にじっと見つめられるのに耐えられなくなった和成は、漸く口を開いた。
「時間があったら、ちょっと見て貰いたかっただけ。でも、兄ちゃんは勉強忙しいみたいだからまた今度見てよ」
弟が見て貰いたいものといえば連想されるのは二つ。まず挙げられるのは勉強だ。成績は良い方だが、時々問題に詰まることもあるらしい。人間なのだからそんなこともあるだろう。そういう時は成績優秀な兄に勉強を教えて貰っている。だが、今回はそれではないだろう。勉強を見て貰いたいのであれば、此処に来る時に一緒に持ってくるのだ。
そうなると残るのは一つ。兄が始めたスポーツに弟も興味を持った。中学に入ってから真太郎はバスケ部に入り、そこでみるみるうちに才能を開花させていった。そんな兄の姿を見ながら、和成もバスケを始め少しでも兄のようになりたいと努力を重ねている。
前者でないとするのなら、今回見て欲しいといったのはこちらだろう。
「今から外に行くぞ」
「え、いや、今度で良いって。兄ちゃん忙しいだろうし、オレは見て貰えるならいつでも良いから」
「だから今から行くと言っているのだよ」
そう言って部屋に置いてあったバスケットボールを手にすると、掴んだままの腕を引っ張って部屋を出る。後ろから何やら色々と言われているがそんなのは全部無視だ。暫くすれば和成も諦めたのか黙って兄の後について行く。小さい頃は手を繋いで遊びに出掛けたものだが、この年ではもうやらなくなった。真太郎も和成が諦めたと分かった時点で掴んでいた腕を放している。
近所にあるバスケットコートまで辿り着くと、真太郎は持っていたボールを和成に投げ渡す。それを受け取ると、3Pラインから一本シュートを放った。
「大分軸が安定してきたな」
「これでも練習はちゃんとやってるから」
3Pは難しいという話を和成がした時、真太郎は弟にいつでも入るように練習を重ねれば良いと言った。とりあえず一日百本くらいから始めてみたらどうだと、第三者からしてみれば驚きの内容を口にした。それを聞いた時は和成も目を大きく開いていたが、すぐに分かったと答えたのだ。兄が今の実力を手に入れる為にはそれ以上の努力をしていることを知っている。それくらいやらなければ兄のようなプレイヤーになんて到底なることは出来ない。
それからというもの、毎日のように百本のシュートを打った。初めはキツかったけれど、徐々にその本数にも慣れてきて、少しずつ量も増やしていった。天才プレイヤーと呼ばれる兄に少しでも近付きたいという一心で練習を重ねた。
「でも、オレは兄ちゃんみたいなシューターにはなれないな」
「人事を尽くせばなれないこともないのだよ」
「そうかな? だけど、オレにはこっちの方が向いてるかも」
言葉を言い終わるのと同時に、和成はボールを兄に向って投げた。それは最初に真太郎がしたような渡す為に軽く投げたとかではなく、一つのパスとしてボールを投げた。
手の内に収まったボールに真太郎は視線を落とし、続いて遠くのゴールを見据える。先程和成が打った場所よりもゴールより遠い場所、そこからシュートを放った。ボールは綺麗なループを描きながら、リングに触れることなく地面に落ちる。決して外れることのないキセキの世代NO.1シューターによるシュート。和成にとっては見慣れているものとはいえ、見る度に凄いなと感動する。
「相変わらず兄ちゃんのシュートは外れないね」
「当然なのだよ。オレは人事を尽くしている」
誰でも見惚れてしまうような綺麗なシュートを放つ兄。こんな風にシュートを打つことが出来たら気持ちが良いだろうなと和成は思う。兄は人事を尽くせば自分にも出来るようになるといったが、和成はそうは思わない。確かに、練習を続けて行けば3Pの成功率もシュート範囲も広がるだろう。
けれど、これは兄の武器だ。どんなに努力をしたところで、兄のようなシュート範囲を手に入れることは難しい。勿論、だからといって今の練習を止めるのではない。3Pの成功率やシュート範囲が少しでも広がるのなら、バスケプレイヤーとしては一つの武器になる。あくまでも一つであるが。
「カズ、お前にはお前の良さがある。自分に合う努力をすれば良い。お前にはその目もあるのだしな」
弟の持つ能力、鷹の目。視点を変えて空間を把握することが出来る特殊な能力だ。その目が活かせるプレイや、先程本人が言っていたようにパス回しを主体とするプレイだろう。頭のキレも良いのだから、ゲームメイクをするポジションが合っている。
「お前は自分の長所を伸ばせば良いのだよ。オレの真似ばかりする必要はない」
「あれ、兄ちゃん気付いてたの?」
「昔からカズは分かり易いからな」
そんなことはないと本人は否定するが、真太郎からしてみれば今も昔も分かり易いままだ。今は昔ほど顔に出さなくなったが、それでも些細な変化はある。それを真太郎は見逃さない。だからいつだって和成は兄に何事も見破られてしまうのだ。
バスケを始めたのは兄の影響。その兄に憧れて、兄のようになりたいと努力をしてきた。その背中をひたすら追い掛けてきた。しかし、物事はそう簡単にはいかない。加えて和成には兄とは別の能力があった。そっちの方が自分に合っていると気付きながら、それでも兄みたいになりたいという感情を抱きながら今日まで続けてきた。
「いくらシュートが決まっても、ボールがなければシュートは打てん。お前の能力はチームにとっての武器になる」
ただ追い掛けているだけでは、弟の成長はそこで止まってしまう。弟にはもっと別のプレイスタイルがあるのだ。それだけの才能があるのだから、ここでその選択肢を消してしまうのは勿体ない。自分に合うプレイを磨いていけば良いのだと道を正してやる。それは、兄である真太郎にしか出来ないことだ。
予想外の言葉を聞かされて和成はぽかんと口を開けて固まってしまった。まさか兄にそんなことを言われるとは思っていなかった。否、兄だからこそそう言ったのだと分かる。ただ後ろについて歩く自分に、いつだって正しい道を示してくれるのは兄なのだ。
「兄ちゃん、ありがと。オレは兄ちゃんみたいな選手を活かせるプレイヤーになる」
口角を持ち上げ、すっきりとした表情で和成はそう言った。それを聞いた真太郎は「そうか」とだけ述べて優しく微笑んだ。
五つも年が離れている二人が、学校生活の中で同じチームとしてプレイすることなど不可能だ。けれど、兄のようなシューターにはパスを繋げる選手が必要不可欠だ。そんな選手に出会えるかはまだ分からないけれど、いつかそんな人物と会ったならそのプレイを活かしてあげたい。兄のように点を取る選手には、それをサポートする選手が必要なのだから。
「いつかオレが兄ちゃんと並べるくらいの選手になったら、一度で良いから兄ちゃんと一緒にプレイしたいな」
「その時が楽しみだな」
「オレ頑張るから、期待しててね」
まだまだ兄には及ばないけれど、いつの日か。同じコートで一緒のチームになってプレイをしたい。兄弟である二人の相性はバッチリなのだ。それぞれが選ぶバスケのスタイルも相性は抜群だろう。その時には、これから磨いていく己のプレイスタイルで兄のシュートを活かせたら良い。
そう遠くない未来を夢に見て、二人はコートの中を走る。いつだって兄と過ごす時間は楽しくてあっという間なのだ。
fin