今日もいい天気だななんて思っていると、すぐ近くからまだ声変わりのしていない子供らしいテノールが耳に届く。そちらを振り向けば、真っ直ぐにこちらを見上げる翡翠と目が合う。


「どうかしましたか」

「高尾、これは今も見えるのか?」


 これ、と言いながら開かれたのは星座について書かれている本だった。最近は天体に興味を持ったらしい坊ちゃんは、こうして天体関係の本をよく読んでいる。難しいことも書かれているのだが、頭の良い彼はそれらをきちんと理解しているのだろう。この年でそれだけ分かるというのは英才教育のお蔭、とでもいえば良いのだろうか。
 その英才教育が良いのかどうかは別にして、いずれはこの家の跡継ぎである彼には必要なものだったのだろう。勉強を教えていたのは彼の執事である高尾自身だ。飲み込みの早さに毎回驚かされながら、国語や算数といった学校で教わるようなことから教わらないようなことまで様々なことを教えている。


「この星座なら今の時期に見えると思いますよ。今夜見に行ってみますか?」

「良いのか?」

「少しくらいなら大丈夫でしょう。オレも一緒に行きますから」


 言えばまだ幼い主は嬉しそうに頷く。可愛いなと思う反面で、彼がこの先に歩いて行かなければならない道を思うと複雑な心境だ。色々なことを教えているのは高尾だが、まだこんなに小さいのにと思うことがないわけじゃない。それでもこの子を任されているのだから教えるけれど。
 もっと違う世界に生まれていたら、なんて考えるだけ無駄だ。仮に違う世界に生まれていたとしたら、今度は二人が巡り合うこともなかったかもしれない。それでも彼が幸せに生きられるのなら、と思うくらいには高尾は主のことを大切に思っている。


「どうかしたのか」


 透き通るような瞳でじっと見つめられて「何でもないですよ」と優しく答える。子供はこちらの気持ちに敏感というか、彼が鋭いというべきか。答えの分からないものを探すつもりはないけれど、彼の前ではありのままで居られる気がする。大人になるっていうのも良いことばかりとは限らないな、なんて心の中で呟いた。


「真太郎様は早く大人になりたいと思いますか?」


 他愛のない話として尋ねる。ただなんとなく聞いてみたくなった。
 質問された本人はきょとんとして、それからうーんと答えを考え始める。てっきり早くなりたいと返ってくるとばかり思っていたから少々意外だ。いずれは父の座を継ぐのだと幼心に理解し、毎日の勉強も頑張っている。
 冷静に考えてみればそれがイコールで早く大人になりたいことに繋がるわけではないかと一人で納得する。けれど、それなら彼はどんな答えを出すのか。


「高尾は、大人になりたくなかったのか?」


 それは質問の答えではなく、また別の質問。どうしてそんなことをと思わず聞き返すと、そう言いたそうにしていたと返ってきた。
 そこまでは思っていなかったけれど、やはり彼は鋭い。これに対して何と答えるべきか。大人になったらそれで良いこともある、というのが正解だろうか。何も悪いことばかりではない。良いことばかりでもないけれど、人生なんてそんなものだと言ってしまえばそれで終わり。だが。


「大人になって良かったこともありますよ。真太郎様に出会えましたから」


 嘘を言ったところで意味がない。そもそも嘘を吐く理由がない。大人になって良いことも悪いことも沢山経験してきたけれど、この幼い主に出会えたことはかけがえのないことだろう。
 正直にいえば、高尾はこれまで決められた道をただ歩いているだけだった。そういう家柄なのだと多くのことを諦めてただ生きていた。自分の主人となる者がどんな人なのかも知らないまま、知ったところでただその人に仕えるだけだとしか考えていなかった。

 その考えが変わったのは、高尾が緑間に出会って暫くしてからのことだ。まず出会った時にもこんなに小さい子供の世話をするのかと驚かされたが、それ以上に彼の真っ直ぐな姿勢に少しずつ心を動かされた。
 彼は高尾にないものを持っていた。決められた運命の中でもはっきりと自分の意思を持っていた。いつしか義務的に守るのではなく高尾自身が彼を守りたいと思うようになった。それは小さな変化かもしれないけれど、高尾にとっては大きな変化だった。


「だが、オレが居なければ高尾もこんなところには居なかっただろう」

「もしそうだったとしても別の誰かに仕えただけです。オレも自分の役目には納得してますから」


 本当かと聞かれて本当だと答える。好きでも嫌いでもなくそういうものだと昔から納得はしている。そのお蔭で彼に出会えたのなら、こういう家柄に生まれたのも悪いことばかりではなかったのかもしれない。


「それに、真太郎様も納得しているのでしょう?」


 自分の生まれた場所、決められた未来の場所。小さい頃から英才教育を受けていずれは家の跡取りとなるこの運命に。
 もし納得していなかったとしてもこれは決められているのだから変えようもない。けれど、緑間もそれくらいのことは納得して生きている。それも隣に彼が居るからこそなのだが、おそらく本人は気付いていないだろう。


「高尾」

「何ですか?」

「お前は…………」


 いつまでオレの傍に居てくれるのか、なんて聞くべきではないのだろう。高尾はいつまでだって傍に居る。それが彼の役目だ。この先もずっと、高尾自身がどう思おうがそれは変わらない。だから聞いてはいけないという方が正しいかもしれない。

 途中で止まった緑間の言葉に、続くはずであった言葉を高尾は考える。といっても、流石にこれだけでは当て嵌まりそうな語句が多すぎて正しい答えなんて見つけられない。
 しかし、彼の表情を見ればなんとなくは分かる。何か不安があるのだろう。それが何かは分からないけれど、話の流れから自分絡みであることくらいは分かる。


「オレはいつだって真太郎様と一緒ですよ」


 離れることはない。一度忠誠を誓っているのだからそれが破られることもない。もしも別の誰かに仕えろと言われたとしても、高尾には緑間が居るのだから断る。それで対立することになったとしても、高尾に緑間から離れる意思がないのだ。
 ぎゅっとその小さな体を抱きしめてやれば、その小さな手が背中に回される。この小さな体で沢山のことを背負っていくのかと思うと、ほんの僅かでも代わってやれたらと思う。勿論そんなことは無理だから、せめて支えてやりたい。それが高尾の気持ちだ。


「高尾」

「はい」


 名前を呼ばれれば返事をする。そんな当たり前のやり取りに何の意味があるかといえば何の意味もない。いや、少なくとも緑間にとっては意味のある行動だ。高尾にとっても。


「お前はずっとオレの傍に居るのだよ」


 誰よりも一番近くに居る相手。両親よりも多くの時間を共有している相手。大切な人。
 彼を取り巻く環境が彼を困難な道に誘うことは分かっている。それを近くで支えながら、大切な主人を守ることこそが高尾の役目。違う、役目として務めなければいけないことでもあるがそれは高尾自身が好きでやること。


「仰せのまま」







そっと体を離すと同時にその手を取ると、彼は手の甲へと唇を寄せた