「先輩!」
追いかけるように走ってくるのは同じ部活の二年生。
部活が終わり、いざ帰ろうとしたところで呼ばれて立ち止まる。エナメルを肩に掛けながら向かってくる彼は、部活が終わったばかりだというのに元気よく声を上げては大きく手を振っていた。
憧れの投手
去年の春。新入生としてこの学校に入学してきた彼――うずまきナルトは、持ち前の明るさですぐに周りとも打ち解けて自分の位置を確立していた。周りの友達がども部活動に入ろうか悩む中、そのうちの何人かと一緒にナルトも部活の見学をして回っていた。
見学をしていた、とはいったものの実のところはどの部活にするかの目星はつけていた。それでも入部前に見学をしてみようと友達と見て回ったのだ。目的の部活以外にも幾つかの部活動を見たけれど、結局は最初から目星をつけていた部に入部することを決め、あれから早いことにもう一年の時が経った。
「何の用だ」
「オレも一緒に帰るってばよ」
隣に並んだナルトはニカッと笑顔を見せる。人懐っこいそれで入部した当初も上手くやっていたんだったか。そんなことを思いながらも特に断る理由もなく、サスケはそのまま足を進めた。
サスケはナルトより一つ上の三年生でこの部活――野球部のエースだ。一年生の頃からピッチャーとしてマウンドに登ったこともある。最初の頃は先輩も居た為に登板回数はあまりなかったけれど、二年生になってからは三年にピッチャーが居なかったこともありチームのエースとして登板し続けていた。それは勿論、三年生になった今でも同じである。
その中で変わったことといえば、一試合の中で途中交代をすることが増えたということだろうか。それも今一緒に帰っている二年生ピッチャーが試合に出るようになったからだ。
「なあ、先輩っていつから野球やってんの?」
唐突なその質問にサスケは少し考える。答えたくない訳ではなく、いつからだっただろうかと思い返していた。数秒ほど時間を掛けてから「中学に入った頃だったと思う」と答えてやれば、ナルトは「へえ」と相槌を打つ。付け加えるように小学生の頃もチームには入っていなかったがやっていたと続ける。
小学生の時からボールに触っていたとはいえ、ちゃんとやり始めたのは中学の部活で野球部に入ってからだった。野球部に入った理由は単純で、五つ年上の兄がやっていたからという好奇心。必ずどこかの部に所属しなければならなかったから、その時に昔兄とやったことのある野球を選んだのだ。
「オレは遊びでやるばっかりだったってばよ。中学の部活で途中から野球部に入ったけど、それまでは帰宅部」
人に聞くだけで自分は答えないのもと思ったのか、ナルトは自分が野球を始めた時のことを話した。部活動が義務だったサスケの学校とは違い、ナルトの学校は帰宅部も認められていた為に本格的にやり始めたのは中学二年生の頃。
「お前は何で野球部に入ったんだ?」
聞きながら疑問に思ったことをそのまま問う。どこの部活にも入らずに帰宅部を選んでいたような人間がいきなり運動部に、それも練習や上下関係が厳しくいかにも運動部らしい部活を選んだのか。好きだからというのならそれで構わないのだが、帰宅部から野球部という思い切った行動がなんとなく気になった。
「えっと……正直、最初は興味なかったんだってばよ。だけど中学の時、友達に誘われて一回だけ試合を見に行ったことがあって」
あれはナルトが野球部に入部する少し前。同じクラスの友人に野球部の知り合いがいて、今度の試合は応援をしに行くんだと話していた。それでもしよければ一緒に行かないかと誘われたのが始まり。
当時は別段野球に興味があった訳でもなかったが、友達と遊ぶ時に今日は野球をしようと話が出るくらいには身近なものでもあった。きっと他に用事があったのなら断ったのだろうがその日は特に予定もなく、どうせ暇だしなと了承の返事をした。野球が嫌いな訳でもないし、それなら友達に付き合って試合を見に行くのも悪くないかと思ったのだ。なんだかんだで遊びでやっていた野球を中学の部活とはいえ、しっかりとした試合という形で見るのはその時が初めてだった。
「そしたらさ、思ってた以上に凄くて。なんつーか、野球ってこんなに面白いものだったんだって気付いた」
初めて見た野球の試合は友達と遊んだ時にやるようなものとは違っていた。当然といえば当然だ。やっているのはプロでもなく自分と同じ中学生、けれど本気で野球をやっているという点ではどちらも同じ。打って守って点を取って、真剣な空気がグラウンド全体を占めていた。
遊びでしか野球をやったことのないナルトは、野球でこんな空気を感じたことがなかった。野球が手に汗を握るような凄い試合をするものだったなんて思っていなかった。ニュースや新聞で目にしても試合をほとんど見たことがなかったからこそ、余計に新鮮だったのかもしれない。それが野球というスポーツがこんなにも面白いものだと気付いた瞬間だった。
「だから野球部に入ったのか」
「そんなとこだってばよ。でも、野球が面白いって気付いたからっつーだけで野球を始めたわけじゃねぇんだ」
確かにそれも理由の一つではあるのだが、ナルトが野球を始めるきっかけになったのはそれだけが理由ではない。
その言葉を聞いたサスケは再び後輩の話に耳を傾ける。蒼い瞳は空へと向けられ、まるで当時のことを思い出しているようだった。
「あの時、相手のピッチャーが凄かったんだってばよ。速い球投げたり微妙なコントロールしたり。綺麗なそのフォームに見惚れて、だからオレもピッチャーになったんだってばよ」
友達と一緒に試合を見に来ていたナルトが応援していたのは自分達の学校だ。けれど、相手チームのピッチャーの凄さにナルトは見惚れてしまった。
どうしてこんなにも綺麗なピッチングが出来るのか、こんな風に速い球を投げられるのか。どうすればここまで細かなコントロールをものに出来るのか。
疑問は次々と浮かび、気が付けばそのピッチャーから目が離せなくなっていた。そういえば、途中からは相手のピッチャーばかり見ていた気がする。
その日、友達と別れて家に帰ってからもそのピッチャーのことばかり思い出していた。同時に野球というものに興味を持ったナルトはそのまま野球部に入部した。
帰宅部から野球部。生活の違いに最初は体がついていかなかった。慣れない練習に戸惑ったりもしたけれど、数をこなすうちに段々と出来るようになっていった。ポジションはピッチャーを志願し、憧れの投手の姿を思い出しながら自分もピッチャーとして野球を始めた。
「つまり、お前はその投手に憧れたんだな」
「それもあるってばよ。オレはそのピッチャーに憧れて、あんな風になりたいと思ってた。まあ、オレがその人と試合することはなかったんだけどさ」
野球を始めるきっかけになった憧れの投手。その人のようになりたいと思いながら練習を続け、いつかその人と試合が出来たらと思っていた。けれど現実はそう甘くない。練習試合でなくとも大会があるとはいえ、大会で当たる可能性は限りなく低い。試合が出来なくとも仕方のない話だ。
と、そう思ったのだがどうやら違うらしい。一応その選手の居る学校とは大会で当たったのだとナルトは続けた。
「大会ではその学校と当ったんだけど、その人がもう卒業しちまってて。オレは二年生の途中から野球部に入って、試合に出るようになったのは三年になってからだったから」
そういえばこれまでの話で相手が何年かは出ていなかった。学年が一つ違うのであればそういうこともある。いくらマウンドで戦いたくともこればかりはどうしようもない。
だが、その気持ちはサスケにも分かる。同じ投手というポジション。試合によっては投手戦になるような場合もある。ナルトはきっと、一度でも良いから憧れのその人と戦ってみたかったんだろうと思う。
「卒業してたならどうしようもないな。お前の気持ちが分からないわけじゃねぇけど」
「でも! オレってばそのピッチャーに会えたんだってばよ」
嬉しそうに話すナルトに視線を向ければ、本当に嬉しそうな表情をしていた。試合が出来なかったとしてもまた会えたことが嬉しかったのだろう。名前も知らない相手なら尚更だ。
たかが友達の付き添いのような形で見た試合の投手のことだ。学年も知らなかったのだから名前だって覚えていなかったのだろう。そんな相手に偶然でも会えたというのならこれだけ喜ぶのも納得だ。それだけナルトがその人に憧れていたということだろう。良かったなと言ってやれば笑顔で頷かれた。
「実はさ、最初は分からなかったんだってばよ。名前も知らなかったから。だけど、その人のフォーム見たらすぐに気付いたんだ」
どの投手にも癖はある。癖、というほどのものではないかもしれないが、どんなピッチングだったのか。どのようなフォームで投げていたのか。そういったものをしっかりと記憶していれば見分けがつかないこともないだろう。一概には言い切れないだろうが少なくともナルトはそうだったらしい。
よくそこまで覚えているものだと感心する。だが、それも憧れている相手だったからこそか。ナルトにとってその投手がいかに大きいかが分かるようだ。
「信じられなかったけど、やっぱり記憶にあるのと同じで。やっと会えたんだって実感した」
話を聞きながら、サスケはその時のナルトの気持ちを考える。
初めは本当にあの人なのかと疑ってしまったのではないだろうか。戦ってみたいと思っても叶わなかった相手。憧れ続けていた相手。その人が目の前に居るという現実が信じられなかったのだろう。
しかし、その人のフォームは記憶にあったものとぴったり重なった。それこそが同一人物だという証。やっと会えたと実感した時、嬉しいだけではなく沢山の気持ちが生まれたのではないだろうか。
「そうか。それで、お前はどうしたんだ?」
どうしたというのは勿論その後のことだ。やっと会えてまでは良かっただろう。その後、ナルトはどうしたのか。憧れ続けていた相手に会えて、話したいことややりたいことなど色々あっただろう。
そう思って尋ねたのだが、ナルトはきょとんとしながら「どうしたって言われても……」と答えに困っているようだった。何かあったのかと聞かれたなら別に何もないとしか答えられない。漸くその人に会えたというのにお前はそれで良いのか。言えばナルトは慌てて否定する。
「いや、だってさ! そのピッチャーは凄く近くに居るんだぜ? だからどうするもなにもないってばよ」
一瞬、何を言われたのか理解が追い付かなかった。近くに居るからどうするも何もない、ということはその人はナルトの身近に居るというのか。考えられるのは同じ野球部の投手ということになるのだろうが。
もっと分かるように説明しろと告げれば、ナルトは僅かに視線を逸らしながら「あー」だの「うー」だの呻く。ますます意味が分からないと視線だけを向けていれば、諦めたようにゆっくりと口が開かれた。
「あーその……実はそのピッチャー、先輩なんだってばよ」
予想外の言葉に思わず「は?」と間抜けな声が漏れた。身近に居ると考えれば野球部内の誰かという可能性も考えられたが、それがまさか自分であるとは思いもしなかったのだ。
「それはつまり、お前が野球を始めたのはオレに憧れたからだって言うのか……?」
確認するように問えばしっかり頷かれた。
となると、先程までの話は全部自分のことであって。そう考えるとなんだか複雑なようななんというべきか。ナルトが憧れだと言ってああ話していた投手が自分だったなんて。
「…………お前の話を真剣に聞いてたオレが馬鹿らしくなってきた」
「どういう意味だってばよ!? オレってば本当にそう思ってるんだからな!!」
サスケの言葉を嘘だと受け取ったのか、ナルトはそう言い返した。嘘だと思っている訳でもなければ信じていない訳でもない。だが、さっきまでは同じ投手としてナルトの気持ちになって考えていただけに自分のことだったと知って、なんともいえない複雑な気持ちなのだ。
「誰も疑ってなんていないだろ」
「本当に? 先輩のその言葉、信じても良いのかってばよ……?」
「それこそどういう意味だ」
突っ込まれて深い意味はないとだけ返す。それなら何のつもりで言ったんだと聞かれたが適当に笑って誤魔化した。誤魔化したというより、それ以上追及することが面倒になったサスケが溜め息一つで終わらせただけでもあるけれども。
そうこう話しているといつの間にか分かれ道までやってきた。ナルトはここを右に、サスケは左に進む。
どちらともなくそこで一度足を止めてお互いの顔を見る。普段なら「じゃあな」と一言で別れてしまう場所。けれど、なんとなく今日はそれで別れることが出来なかった。何を言おうか迷うように視線を彷徨わせながら、先に言葉を発したのはサスケだった。
「オレは誰かに憧れられるような人間じゃねぇ。けど、お前が見て欲しいならピッチングも見てやるよ」
今更だけどな、とサスケは小さく笑みを浮かべた。それを聞いたナルトは、ぱあと笑顔になり「本当に!?」と聞き返す。本当に、本当に先輩が自分のピッチングを見てくれるのかと。
同じ学校の同じ部活、更には同じポジションということもあり今でもサスケはナルトのことを見ている。けれど、こんな風に言われるのは初めてなのだ。こう言ってくれたということは、これからもピッチングについてのアドバイスをしてくれるのだろう。いや、今以上に時間を作って見てくれるかもしれない。とにかく、見て欲しいならいつでも見てやると言ってもらえたようで、ナルトは嬉しくて仕方がなかった。
「見て欲しいならな。練習中でも終わった後でも、頼まれたらいつでも見てやるよ」
「ありがとうだってばよ、先輩!!」
しっかりと言い切られたそれにお礼を言いながら、嬉しさのあまりナルトは飛びついた。突然のナルトの行動にサスケは驚きながらも、なんとか倒れることなくその体を受け止めた。
たかがこれだけのことでここまで喜ばれるとは正直思っていなかった。けれど、こうも喜ばれるとこちらも嬉しくなってくる。おそらく話したいこともあるのだろう。もっと早くに言えば良いものをと思ったものの、そういう機会もなかったかと片付ける。
いい加減に離れろとナルトを引き剥がすと、今度はいつものように「じゃあな」と短い挨拶だけを残して足を進める。
左の道に進んでいく先輩の背に「お疲れ様でした」と頭を下げ、それからナルトも右の道へと進んだ。毎日歩いている道なのにどこか違うように感じてしまうのは、やはりこの気持ちのせいだろうか。
憧れ続けてきた相手。それが同じ部活の先輩だった。
その先輩がいつでも見てくれると言ってくれた。たったそれだけのことがこんなにも嬉しい。これまでも部活で見てもらっていたけれど、それとはまた違う。嬉しくて堪らない。
高校に入学してやっと憧れの人に会えた時も嬉しかった。あの時と同じくらい、胸の内は幸せで満ち溢れている。
さて、明日からはどんな部活になるだろうか。
fin