兄が居て、母が居て。それから父と四人で一緒に暮らしていた。外に出れば近くに住む小母さん声を掛けられ、これ持っていきなよとお裾分けをもらったこともあった。そんななんてことのない日常が当たり前ではないと気が付いたのは七歳の時。
 それから色々なことがあって、全ての真相を知ったのは十六の時だ。そこから先も様々な出来事があった訳だが、今となっては遠い昔の話である。誰も覚えていない、遠い日の記憶は心の奥底に閉じ込めてあったはずだった。


「夢、か……」


 小さい頃は何でも兄の真似をしていた気がする。けれど優秀な兄は忙しくて、小突かれると分かっていても呼ばれれば近付いて謝られた。そんな些細なやり取りも特別だった。
 強くて、優しくて、大切な兄が一族を裏切った時は本当に信じられなかった。何で、どうしてと疑問ばかりが湧いて、今まで見てきた兄は全部演じられた偽物だなんて思えなかった。思いたくなかった、と言えるのかもしれない。でも、目の前で両親が倒れているのを見たら、これが現実でないとはいえなかった。


(結局、その言葉が嘘だった訳だけどな)


 一族を滅ぼした兄を倒す為、復讐する為に強くなった。けれどそれすら兄の思惑通りで、全ては兄が自分の為にしたことだったと気が付いた時は何もかも遅かった。
 けれど、これらは全部過去の記憶だ。いつだったか、ある時突然思い出した前世の自分の記憶……という表現が正しいのかは定かではないが。この世界で今日まで生まれ育った記憶とは別のもう一つの記憶で、誰に話すでもなく胸の内に秘めてあった記憶。それをまさか夢に見るとは思わなかった。


(アイツは……兄貴は、やっぱり優しい兄、か)


 あの頃とは全く別の世界だというのに、自分と兄の関係は変わらないらしい。変わらないどころか、その兄は昔の優しかった頃の兄そのものだ。もっとも、それが本来のうちはイタチであった訳だが。


(今頃はどっかで仕事してんだろうな)


 今や社会人であるイタチは、出張で海外に行っている。海外に出張が決まったということと数ヶ月ほど家を空けるという話しか聞いていないから具体的なことは分からない。まあ、仕事のことだからそう話せることでもないんだろうとサスケも追求しなかった。
 だから今も海外のどこかで仕事をしているのだとは思うが、あの兄のことだから上手くやっているだろうとしかいえない。あの兄に限って、失敗など有り得ないだろうから心配はしていないけれど。


「……さっさと行くか」


 いくら考えたところで兄の近況など分かるものでもない。それよりも早いところ支度を済ませて学校に行こうと頭を切り替える。
 兄が居なくなってから早三ヶ月。一人分の料理にも慣れたものだななんて思いながら朝食を食べ、それからすぐに鞄を持って家を出た。行ってきます、と言って一人で家を出るのも普通になりつつあった。



□ □ □



「ただいま」


 そう挨拶したところで当然だが返事はない。といっても、これはいつも通りのことで特に寂しいとかそういった感情を抱いたことはない。流石にそこまで子供ではないし、正直一人なことに慣れているというのもある。
 サスケは今、この家に兄と二人で暮らしている。その兄も今は出張で居ないが、両親は小さい頃に事故で亡くなった。だから一人で居ることも昔から割とあり、ついでに遠い昔も一人で生きてきた時間はそれなりにあった。むしろこれが普通だと言っても過言ではないかもしれない。


(いや、兄貴はいつもオレのことを気にしてたか)


 二人は五歳差の兄弟だ。小学生と中学生、中学生と高校生。学校が違えばそれなりに生活習慣も変わってくる。けれど、その中で兄は何かと弟を気に掛けて早めに家に帰るようにしたりしていた。子供じゃないんだから大丈夫だといっても、兄は困ったように笑って「オレがそうしたいだけだ」と言った。


(生まれ変わっても変わらないもんだな)


 遠い昔の兄と今の兄が重なる。同じ人物なのだから勿論のことなのかもしれないが、絶対と言い切れるものでもないだろう。今までにも生まれ変わったことがある訳でもないから知らないけれど。
 それにしても、普段はそんな昔のことなんて考えないのに今朝の夢のせいだろうか。奥底にしまってあったものが出てきてから、それをもう一度片付けるところまでいけていないらしい。


(二人でも広いけど、一人だともっと広いな)


 リビングに戻ってからこんなことまで思ってしまうくらいには、出たものがそのままになっているようだ。


「……くだらねぇ」


 ぽつり、呟いてそのままキッチンに立つ。昔は昔、今は今。一緒に考えるようなことでもなければ、今更一人で居ることに何かを感じたりもしない。
 そう、過去の記憶はとっくに終わったことだ。だからもう気にすることではない。この世界で共に生きてきた兄だけを見れば良い。兄は、イタチは――。


「…………」


 はあ、と溜め息が零れる。今日はやることを終わらせたら早いうちに寝た方が良いかもしれない。寝て起きればこのくだらない思考にも終わりが見えるだろう。

 そんなことを考えながら夕食の支度をしている時だった。ガラッと玄関を開ける音と「ただいま」と短い挨拶が聞こえてきたのは。
 突然耳に届いたそれに一瞬驚いたが、この家に帰ってくる人物などサスケを除けば一人しかいない。数ヶ月ほど出張で家を空けると言っていたその人は、大きめの荷物を持ってリビングに入ってきた。


「久し振りだな、サスケ」


 数ヶ月振りに帰ってきた兄はサスケの姿を見付けるなりそう言ってするりとネクタイを外す。そのまま鞄の中身を片付け始める様子は、出張帰りでは良く見られる光景だ。


「兄貴、帰ってくるなら連絡の一つくらい入れろっていつも言ってるだろ」

「ああ、すまない。予定より早く仕事が片付いてな」


 そもそもどれくらいの期間で出張が終わるかさえ聞いた覚えはないのだが、そこまで突っ込んでいたら話が進まない。
 別にいつ帰って来ても良いのだが、急に帰って来られても食事の支度をしていないから困るのだ。勿論、帰ってきた兄の分もこれから作るけれども。事前に分かっていれば最初から二人分用意出来るのに、とサスケが言いたいのはそういうことだ。


「……とりあえず風呂にしてくれ。夕飯はもう暫くかかる」


 溜め息を吐きながら言えば「分かった」と返事をして兄は荷物を持って出て行った。マイペースだなと思いながら、サスケは一人分しか出していなかった材料を二人分に増やす。明日は学校帰りにスーパーに寄る必要がありそうだなと思いながら、ガスコンロの火をつけた。



□ □ □



「サスケ」


 言われた通り、風呂を済ませてきたらしいイタチは長い髪を下ろしてサスケの居るキッチンまでやってきた。サスケはといえば、二人分の夕食を作っている真っ最中だ。


「あと少しで出来るから向こうで待っててくれ」


 まだイタチは何も言っていないのだが、キッチンに来たのだからそれを聞きたかったのだろうと予想してサスケはそう答えた。
 その言葉に「ああ」と頷きながら、しかしイタチはその場から動こうとしない。不思議に思ったサスケが手を止めると、イタチはもう一度弟の名を口にした。


「サスケ」

「何だよ」


 どうやら他にも何かあるらしい。そう悟ったサスケは真っ直ぐに黒の双眸を見つめた。
 すると、何を思ったのか。イタチは突然サスケを抱き締めた。あまりにも唐突な行動にサスケは驚くが、何も言わずに抱きしめる兄を不思議に思って「兄さん?」とだけ尋ねた。その呼び方に深い意図はなく、ただ自然にそう零れた。


「……温かいな」

「それは兄貴の方だろ」


 風呂から出たばかりなんだから、と言えば「いや」と否定される。だがその先に続く言葉はなかったようで、そのまま二人の間に沈黙が流れた。


「こうしてお前に触れるのは三ヶ月振りか」


 その沈黙を破ったのはイタチだった。出張に行ったのがおおよそ三ヶ月前。当然サスケに触れることも会うことも三ヶ月振りだ。


「お前の傍は落ち着くな」

「……どうしたんだよ、突然」

「久し振りだからな」


 答えになっているよな、なっていないような。これだけでは兄の意図が掴めない。だが、もしかするとこの行為に深い理由など始めからないという可能性も高い。昔から時々こういったことがあるのだ。もっとも、イタチには何らかの理由があるのかもしれないけれど、少なくともサスケには分からない。
 ――といっても、それで特に不便を感じたことはない。イタチの唐突な行動は主にスキンシップで、こちらが分からなくてもイタチはそれで満足するらしい。加えてイタチ自身が何も話さないからサスケも聞かない。


(聞いたとしても、はぐらかされるのは目に見えてるしな)


 サスケもこのことに関して、兄に直接聞いたことがない訳ではない。いつだったかは忘れたが、兄がこういうことをしてきた時にどうしたのかと疑問をぶつけた。けれどそれとなくかわされて終わり。
 まあ、兄が弟にするただのスキンシップといえばスキンシップだ。普段はそれほど多くないから疑問に思うだけで特に理由がないと言われても納得する。真相は分からないが、こういう時は兄の好きにさせておこうというのがサスケの結論である。


「…………サスケ」


 どれくらいの時間が経っただろうか。五分くらいは経っているかもしれない。わざわざ時間など計っていないから正確なことは分からないが、すぐ傍で名前を呼ばれて視線をそちらに向ける。


「オレは、お前さえ居てくれればそれで良い」

「兄貴……?」


 一言、そう呟いたイタチはそっと自分の体を離した。こちらを見た黒の瞳は優しく微笑んで、それから何事もなかったかのようにリビングに戻る。
 やはり、これもいつもの唐突なスキンシップだったらしい。この数分で兄は満足したのだろう。満足したから終わっただけ。たったそれだけの、いつものことだと頭では分かっているのに。


「サスケ?」


 くるりと背を向けて離れて行くイタチの腕を気が付いたら掴んでいた。僅かに目を開いたイタチに、自分を見上げる真っ直ぐな瞳が映った。


「……アンタは、いつもそうやって自分一人で完結させる」


 兄だから。年上だから。兄弟だから。家族だから。
 どんなに時が流れようと、イタチとサスケの間にある年齢差は絶対に埋まらない。五歳年上の兄であるイタチが、弟のサスケを気に掛けて守ろうとするのはおかしなことではない。弟の面倒を見て、世話を焼いて。どこの兄弟でもある話だろう。
 どうやったって対等にはなれない。何年経とうが自分達は兄弟だ。そんなことは分かってる。でも。


「オレはもう、アンタに守られるばかりの子供じゃない」


 法的にはまだ子供に分類されるかもしれない。それでも高校生にもなれば社会の一員としての責任や自覚を持っている。アルバイトとして社会で働けるようになる年齢でもある。
 確かに昔はどんなに子供じゃないと言っても子供だっただろう。けれど今は違うのだ。この年齢差はどうあっても埋まらないけれど、ただ守ってもらうだけの立場ではない。

 ずっと、兄と弟として接してきた。二人が兄弟である限り、それはこの先も変わることはない。
 しかし、小さかった弟は成長していつの間にか同じ目線で話せるようになっていた。兄だから弟を守る……そう思っていたのは事実だが。


「知らないうちに大きくなったものだな」


 兄だから、というよりは弟が大切だから。ずっとそう思ってきたけれど、何を感じたのか――否、何かを感じていたのだろう。それでも何も言わずにいてくれた弟の優しさに今まで甘えていた。
 それを本人は別の形で捉えたようだが、ちゃんと話してこなかったのだからそれも仕方がない。サスケはもっと自分を頼れと言っているのだろう。本当に頼りになる弟だと思いながら、イタチは口元に笑みを浮かべる。


「それなら、これからは今まで以上に頼らせてもらうか」

「兄貴がオレを頼ったことなんてないだろ」

「オレは結構お前に助けられているぞ?」


 信じられないとでもいうような視線を向けられるが、イタチはサスケの存在に何度も救われてきた。実際にサスケに助けられていることも多い。サスケ自身がそう思っていないだけで。


「まあ、オレが勝手に甘えていたからそう思われていなくても仕方がないが」

「アンタがオレに甘えるなんて、さっきみたいなスキンシップぐらいしか思いつかねぇんだけど」

「それが一番重要だ」


 はっきりと言い切ったイタチにサスケは頭の上で疑問符を浮かべる。どういう意味かと問われてそのままだと答えてやれば、更にクエッションマークが増えてしまった気がするがこのことはもう良いだろう。
 サスケからしてみればそこを言って欲しいところだが、いつかの時と同じではぐらかされて終わりらしい。その意味は気になるが、それが兄にとって重要なことであり、甘えているというのであれば良いかと思うことにした。兄の口からそれを聞けただけで今は十分だ。


「……なら、これからは普通にしろよ」


 何がとは言わなかったが、それでもイタチには伝わったらしい。「良いのか?」なんて聞いてくるから、良くなかったら言っていないと思ったままに返しておいた。
 いつも唐突だけれど、その中に遠慮があることくらいとっくに気付いている。時々、視線だけを感じることがあるのだから。気付かない訳がないだろう、とは心の中だけで呟いた。


「ありがとう、サスケ」

「別に、礼を言われることでもないだろ」


 ふいと顔を逸らしたのを見て、イタチはふっと笑った。これがただの照れ隠しであることくらい、イタチには分かりきっているのだ。


「そういえば夕食の支度をしている途中だったな。何か手伝うことはあるか?」


 思い出したようにさり気なく尋ねれば、サスケは途中になっていた料理を見てもう終わるから大丈夫だと言おうとしたけれどやめた。代わりに「それなら食器を出してくれ」と頼むと、イタチは嬉しそうに「分かった」と言って食器棚を開けた。


「たまには一緒に買い物に行って、二人で食事の支度をするのも悪くないかもしれないな」


 皿を並べながらそう話すイタチに、サスケも「そうだな」と微笑んだ。なんてことのない些細なことだけれど、その些細なことを大切にしたいと思ったのだ。三ヶ月振りに会ったから。
 ――いや、特別な人だから。
 二人で暮らすこの時間を大切にしたいと思うのだ。昔は叶えられなかったことだからこそ。一人で居ることを今更どうこう思わないけれど、二人で一緒に居たいと。そう思っているのも紛れもない事実なのだ。










fin