「兄さん、今日はオレの修行を見てくれるんだろ」


 まだ幼い弟が頬を膨らませる。その様子に困ったような笑みを浮かべながらイタチは「悪いな」と謝罪する。それから急に任務が入ったのだと。
 兄はもう立派な忍だ。休暇を与えられていても急な任務が入ってしまうことがあるのは仕方がない。サスケとて木ノ葉の名門であるこのうちはに生まれ、己自身も忍を目指しているのだから理解はしている。しているのだが。


「…………兄さんの嘘つき」


 それでもサスケはまだ七歳。頭では分かっていても態度に出てしまうのは年相応といったところだ。これが兄との約束だったからというのも大きいだろう。
 イタチは木ノ葉の忍で毎日さまざまな任務に就いている。昔のように一緒に過ごせる時間が減ってしまうのは当然で、それは寂しくもあるが忍だからと理解している。
 だからこそ、久し振りに修業を見てくれると約束してもらえたことが本当に嬉しかった。それなのに急な任務でなしになってしまった、となればサスケが拗ねてしまうのも仕方がない。イタチにとっても久し振りに弟と過ごせる今日が楽しみであった。だから。


「だがあまり遅くはならないだろうから、帰ったら修行を見てやろう」

「本当!」


 言えば途端にサスケの表情が明るくなった。ああと答えながらイタチも小さく笑う。
 行ってくると挨拶をして出て行く兄の背に行ってらっしゃいと声を掛ける。そんな何気ないやり取りで一日は始まった。家で待っている弟の為にも早く任務を終わらせようと心の中で決意しながらイタチは地面を蹴った。








「兄さん、いつ帰ってくるんだろう……」


 早く帰ってこないかなと思ってしまうのは、今日が久々に兄と一緒に過ごせるはずの日だったから。兄はあまり遅くはならないだろうと言っていたが、それでも急に呼び出されるほどの任務が午前中だけで終わるとは思っていない。早くても帰ってくるのは昼過ぎ、普通に考えれば夕方だろうか。


「イタチは早くても夕方くらいになるんじゃない?」


 考えていたままの言葉が後ろから聞こえてきて振り返ると、そこには母がニコニコしながら立っていた。いつものエプロン姿でサスケと同じ漆黒の瞳がこちらを見る。


「アナタはいつもイタチのことばかりね」

「だってオレ、兄さんが好きだから」


 真っ直ぐに伝えられる感情。子供らしいそれに母は嬉しそうに笑う。兄弟仲が良いのは決して悪いことではない。むしろその逆だろう。
 あっと小さく零したかと思えば、続けて母さんのことも好きだと伝えられる。純粋な好意を「ありがとう」と受け取りながら、きっと兄もそれを聞いたら喜ぶと話せばサスケは「そうかな?」と嬉しいような照れるような表情を見せる。それに「ええ」と頷けば、やっぱり嬉しいようで笑顔が浮かんだ。


(あの子もいつもサスケを気に掛けているもの)


 弟は兄を、兄は弟を。息子達の様子をすぐ傍で見ているとそれがよく分かる。サスケの話にはいつだって兄の名前が出てくる。そしてイタチの話には弟の名前が。それだけ弟のことが大切なのだろう。だからその弟に「好き」と伝えられたなら、イタチはきっと喜ぶに違いない。


「イタチを待つのも良いけど、ちゃんと片付けもするのよ」


 仲が良いのはよろしい。大好きな兄に早く帰って来て欲しいと思う気持ちも分からなくはない。けれど、部屋をこのままの状態にしておくのは如何なものか。
 ミコトが視線を向けた先には、巻物や忍術書が幾つも床に散らばっている。どれもサスケが出したものだ。読みたい本を探しているうちに部屋はこのような惨状になってしまっていた。


「あ、忘れてた……」

「後でやっておくのよ」

「うん」


 きちんと返事がきたことで母は一つ笑みを見せると部屋を後にした。まだこれからやらなければいけないことが沢山あるのだろう。任務はないようだが、それでも母親には母親のやるべき仕事があるのだ。掃除や洗濯、いつだって母は忙しそうだ。サスケも時々手伝っているがそれを一人でこなすのは流石母親といったところだろうか。


「母さんも言ってたように、きっと夕方くらいになるんだろうな」


 それより早く帰って来てくれたら当然嬉しいけれど、やはりそれくらいの時間だと考えるのが妥当だろう。まだ時間はたっぷりありそうだ。その間にやっと見つけた目的の書物を読むことにしよう。
 そうと決まればまずは広げたままになっている巻物等を片付けよう。一つ一つ順番に全てをしまい終えるとサスケは手元の書物を読み始めた。



□ □ □



 空高く昇っていた太陽が西の空に沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。東の空には月が顔を覗かせている。時刻は午後七時を回った頃。


「ただいま……」

「お帰りなさい」


 任務を終えて帰ってきた息子を母は迎え入れる。そんな母に二言目で「サスケは?」と尋ねるくらい、イタチはサスケのことを気に掛けている。今日は約束をしていたから尚更なのだろう。


「部屋にいるんじゃないかしら。でも、怒ってるかもしれないわよ」


 困ったような表情で弟の居場所を教えてくれた母に「分かった」とだけ答えてイタチは弟の部屋へ向かう。あんなに楽しみにしていたのだから怒っていても無理はない。それでも任務だから仕様がないと分かってはいるのだろうが、出掛ける前にもう一度約束をしているだけに文句の一つくらいは覚悟しておいた方が良いだろう。
 部屋の前で立ち止まり、声を掛ける。しかし、返ってくるのは静寂のみ。それでもここにいるのだろう。返事がないのは怒っているからだと考えて部屋に入れば、そこには探していた弟の姿があった。


「こんな時間になって悪かったな」


 まずは謝罪。だが相変わらず返答はない。
 イタチも早く帰るつもりではいたのだが、思っていた以上に任務が長引いてしまったのだ。任務だから、という言葉で忍と忍の卵である二人には片付けられることかもしれない。
 けれど、それだけで簡単に片付けられる心も持っていなければ、それだけで片付けたくないという心を持ち合わせている。それだけお互いが大切な、特別な存在で。


「サスケ、今から出掛けるぞ」

「え?」


 唐突な提案に漸く反応が返ってくる。振り向いた弟は「こんな時間に?」と言いたげな視線を送ってくるが、この時間でなければいけないのだ。


「修業は見てやれないが、お前に見せたいものがある」


 修業はまた別の機会に見ることを約束しながら、今はその約束を破ってしまった償いがしたい。今なら、今しか見れないものを弟に見せたい。だから一緒に出掛けようと誘う。
 一体兄は自分に何を見せたいのか。外は暗くなっており、見えるものといえば家の明かりや空に浮かぶ月や星といったところだろう。それ以外の何かを見せたいのか、だとしてもそれが何なのかはサスケにはさっぱり分からなかった。

 それでも、兄が自分に見せたいと言ったのだ。それを断る理由などサスケにない。短く「うん」と頷いた弟を連れて夜の里へと赴く。



□ □ □



 何を見せるためにどこへ向かうのか。サスケはイタチに手を引かれるままに歩いていく。けれど、進んでいく方向は随分と馴染みのある場所だった。
 何度も二人で訪れたことのあるそこは家を出て数分ほどで辿り着いた。そして、目の前に広がっていたその光景に思わず感嘆の声が零れた。


「わあ……凄い……!」


 二人も数えきれないくらい来たことのあるここ、南賀ノ川。昼間は透き通った川を見ることが出来るこの場所も夜ははっきりとその形を見ることが出来ない――なんてことはなかった。
 目の前には小さな光が幾つも飛び交っている。その光が見えないはずの川を照らしていたのだ。


「この時期はここに蛍がやってくるんだ」

「そうだったんだ」


 昼には見ることの叶わない南賀ノ川の姿。それもこの季節限定だからこそ、イタチはサスケにこの光景を見せてやりたかった。


「兄さんはやっぱり凄いや!」

「そんなことないさ」

「あるよ。何でも知ってるもん」


 目を輝かせながら蛍を見る弟に自然と顔が綻ぶ。一緒に見に来て良かったと、そう思いながら今日のことをもう一度謝罪をするが弟はすぐに許してくれた。こんな景色を見せてくれたし修業は今度見てくれる約束をしたからと笑顔で答える弟はイタチにとってかけがえのない存在だ。


「兄さん」


 呼ばれて「何だ」とだけ返した。すると、さっきまでずっと蛍を見つめていた黒の双眸がイタチに向けられる。


「またここに来ようよ」


 またここに、二人で一緒に蛍を見に来ようと。来年も、再来年も何度も。こんな風に二人で一緒に見よう。
 弟の言葉に一瞬きょとんとしながらもすぐに小さく笑みを浮かべて「そうだな」と肯定を返した。それから暫く、二人は蛍を眺めるのだった。



 修業をするのも良いけれど、たまにはこんな時間も良いかもしれない。
 こんな夏の一時も。









fin