家に帰ったら「ただいま」と言うのは昔からの習慣だ。今は自分以外に誰も住んでいないのだから返事がないのは当たり前。それも含めて、これがいつも通りなのだが。
「お帰り、サスケ」
あるはずのない返事に驚いて顔を上げれば、微笑みを浮かべる兄と目があった。
「兄貴!? 何でアンタがここに……」
「久し振りに纏まった休みが取れたのでな。お前に会いに戻ってきた」
イタチは今、海外の事業所で仕事をしている。その為なかなか家に帰ってくることはない。飛行機に乗って何時間も掛かる距離を通常の休みで行き来するのは困難な話で、いつもはお正月やお盆くらいにしか帰ってこないのだ。サスケもイタチが忙しいことは知っているからそれも仕方ないことだとは思っていたが、まさか休みが取れたからと急に帰ってくるとは思いもしなかった。勿論、ここはイタチの家でもあるのだから帰ってくるのは全然構わないけれど。
「それなら先に連絡を入れてくれれば良かっただろ」
「急な休みだったからな」
それなら仕様がないのかと思いつつ、それでも連絡の一つくらいは入れられたのではないかと思ったがそれについてはもう良いだろう。サスケだって学生で、その上バイトもしているのだから連絡を貰ったところで時間によっては出られなかったかもしれない。
そう思ったのだが、お前を驚かせたかったというのもあると言われて「アンタな……」と思わず呆れてしまった。だが、予想通りの反応を見れたらしいイタチはにこにこと嬉しそうに笑っている。そんなイタチを見て、サスケも口元に小さく笑みを浮かべた。
「お帰り、兄さん」
「ああ、ただいま」
今度は先程と逆の言葉をそれぞれ口にする。こうして顔を合わせるのはお正月以来だから三ヶ月振りになるのだろうか。三ヶ月程度では大して変わったこともないが、それでも普段はあまり会えないだけに会えただけでこんなにも胸が満たされる。
いつまでも玄関で立ち話をする理由はない。一先ず中に入り、鞄を部屋に置いて制服を着替えたサスケはキッチンに立った。
「兄貴、何か食べたいモンはあるか?」
「お前の作る物なら何でも良いが、今日はバイトはないのか?」
イタチの問いにサスケは頷く。これはただの偶然だ。今日イタチが帰ってくることなど知らなかったし、知っていたとしてもシフトは決まっていただろうから休んだりも出来なかっただろう。とはいえ、偶然でも今日が休みで良かったとサスケは思う。お陰でこうしてイタチと一緒に過ごすことが出来るのだ。久し振りに会った兄弟と共に過ごしたいと思うのはごく普通のことだろう。
何でも良いと言われるのも困るのだがとりあえずサスケは冷蔵庫の中を確認する。これだけあれば今日明日は持つかと思いながらあるもので適当に献立を考える。何でも良いと言うのは本当に何でも良いんだろうから魚でも焼いて他に何か作るかと冷蔵庫を閉める。そしていざ作り始めようとしたところで「サスケ」と兄に名前を呼ばれて振り返った。
「バイトもないならせっかくだ。少し桜でも見に行かないか?」
季節は春。桜は見頃を若干過ぎてしまったがまだ十分に楽しめる時期だろう。春といえば桜というのは四季のあるこの国では当たり前だが、それはこの国ならではの風物詩だ。この季節に帰ってきたイタチは道に咲くその花を楽しみながら家まで歩いたのだが、どうせならもうちょっとゆっくり見たいと思っていたところだった。偶然にもサスケにバイトがないのなら久し振りに二人で桜を見るのはどうかと尋ねる。
「……アンタが見たいなら、付き合っても良いけど」
一番の見頃は過ぎてしまったとはいえ、まだお花見をしている人達はそれなりにいるだろう。人混みはあまり好きではないしサスケにとっては毎日見ている景色だが、兄が一緒に見に行きたいのなら。久し振りに帰ってきた兄に付き合うくらいは弟として当然だと、ぶっきらぼうに言いながらも思っている。
そんな素直ではない弟の気持ちをイタチはちゃんと分かっている。この態度も照れ隠しだと知っているからつい笑みが零れてしまう。そういうところも可愛いと思っているのはここだけの話だ。
「なら出掛けようか。夕飯は帰ってからにしよう」
「それなら帰りにスーパーにも寄りたい。冷蔵庫の中がもうなくなる」
「そうか。じゃあ忘れないようにしないとな」
兄の言葉に頷きながらサスケは必要なものだけを手に取ってポケットに突っ込む。イタチは既に準備を終えていたようで、サスケの支度が終わるのを見てから玄関に向かった。二人で並んで靴を履き、どちらともなく口にした「行ってきます」が重なる。そんな何でもないことに微笑み合い、二人は近くの公園へと向かうのだった。
□ □ □
「綺麗だな」
桜並木を歩きながらイタチが呟いた。ひらひらと花弁が舞う様を眺めながらサスケも兄に同意する。いつも見慣れているとしてもこうやって改めて桜を見ると綺麗だと感じる。
「昔はよくこうやってお前と桜を見に行ったな」
「そうだな」
春が来る度に桜を見に行こうとせがむ弟を連れてイタチは毎年桜を見ていた。時には母や父も一緒にお花見をしたこともあった。けれど忙しい父と出掛けることはなかなかに難しく、兄弟二人で桜を見ることの方が多かった。両親が事故で他界し、進学して環境が変わったりバイトをするようになるにつれて桜を見ることもなくなってしまったけれど、小さな頃の思い出は二人の中にしっかりと残っている。
「露店が出ているとサスケはすぐに欲しがったな」
「昔の話だろ」
「俺はそういうのも良いと思うんだがな」
そういうところも含めて花見を楽しむのも悪くない。あれ食べたいと手を引いたのは弟だったが、イタチも同じ気持ちだったからこそ二人で一つのそれを食べた。今なら一人一個で良いだろうが、幼い弟に一つは多かったから昔は半分こが当たり前だった。あまり食べすぎてご飯が入らなくなっても困るというのも理由の一つだ。今はもうその心配もないだろうけれど。
「せっかくだ。何か食べるか?」
お腹が空いているというほどでもないがそれも含めてお花見だ。この公園にも露店は幾つか出ており、その周りにはぽつぽつと人影が見られる。ラインナップはわたあめに焼きそばとよく見る品揃えだ。
「アンタが食べたいだけだろ」
「まあ良いじゃないか」
はあと溜め息を吐き、仕方がないといった風ではあるがサスケは頷いた。小腹は空いているし、兄と同じくせっかくだからと思ったのもある。こんな機会でもなければ露店で買い食いをすることもない。たまには良いだろうと思ったのだ。
では何が食べたいかとイタチが尋ねると、焼きそばで良いんじゃないのかとサスケは答える。どうせ食べるならお腹にたまる方が良い。そんな弟の発言に笑みを浮かべながら分かったと頷いたイタチはじゃあ買ってくると露店に向かった。それから数分ほどで戻ってきたイタチの手には焼きそばのパックが一つ握られていた。
「何で一つなんだよ」
「あまり食べすぎると夕飯が入らなくなるだろう」
「別に入るだろ」
イタチが一つしか買わなかった理由はサスケにもすぐに分かった。ついさっきまで露店の話をしていたのだから理由を察するのは難しいことではない。昔のように二人で分けるには一つでなければならない。そこまで拘ることもないだろうとサスケは思うが、イタチにとってはそれもお花見の楽しみに含まれていたのだ。たとえ一パックくらい軽く食べてしまえるとしても半分こすることに意味がある。
「今更恥ずかしがることもないだろう」
「そういう問題じゃねぇよ」
というより、たとえ兄弟とはいえ男二人が焼きそばを半分ずつ食べるのはどうなのか。学生なら友達同士でやったりもするし普通だという兄の言葉を信じて良いものか。それにオレ達は兄弟だからな、と話す兄にもう一パック買ってくるという選択肢がないことは分かっているけれど。まあその点についてはサスケももうわざわざ買う必要もないかと思い始めてしまっているのだが。
「サスケ」
兄に手招きをされて桜の下にひっそりと用意されたベンチに腰掛ける。人通りがあまりなさそうなこの場所を選んだのは、弟の言い分を多少はイタチも考慮したからだろう。
しかし、その後の行動については癖とでもいえば良いのだろうか。癖といえるほどのことではないように思うが、それをイタチが当たり前にやっていることだけはサスケにも分かった。
「どうした?」
黙って見ている弟に兄は疑問を浮かべる。兄がずれているのか、それとも自分がずれているのかといえば前者だろうとサスケは思う。仲の良い兄弟が一つの食べ物を半分ずつにして食べるのはまだ分かる。けれど、この歳の兄弟がそれを食べさせ合うのは流石にないだろう。
どうかしたのかという問いにはどうもこうもと言いたくなってしまう。だが、結局それらを飲み込んでこの兄に付き合ってしまう自分も第三者から見ればどっちもどっちなんだろう。暫しの間を置いた後にイタチの差し出す麺をそのまま食べたサスケはそう思った。そしてイタチも自分で焼きそばを食べる。
「美味いな」
「…………ああ」
こういう場所で食べるものというのは家で食べるのとは何か違う感じがする。単純にここが外だからか、この場所の雰囲気か、一緒にいる相手が特別な人だからか。もっと他の何かが理由かもしれないし、全部がそうなのかもしれない。ただ一ついえるのは、今この場所で桜を眺めながら大切な人と半分こにして食べる焼きそばが美味しいということだ。
「アンタ、食べ辛くないのか?」
「慣れているからな」
「慣れてるって、何年前の話だよ」
「そう簡単に忘れるものではないということだ」
イタチが当たり前にこんなことをしていたのは十年は前のことだ。昔はよくそうしていたとはいえ今は違うのだからやりづらいだろうとサスケは思ったのだが兄にとっては全く問題ないらしい。体が覚えているというのだろうか。それだけイタチにとっては思い入れのあることだったのだろう。
「ああ、お前は食べ辛いか?」
こちらに聞いたということはサスケの方が食べ辛いということか。小さい頃は食べさせてもらうこともあったが、誰だってそんなのは昔の話だ。自分のペースで食べることも出来ないし、こういうのは食べ辛いだけだったりするのだろうかと今度はイタチが問う。
そんな兄の問いにサスケは「別に」と視線を逸らす。食べ辛いか食べやすいかでいえば正直前者だけれど、そこまで食べにくいというほどではない。久し振りに帰ってきた兄と十年近く振りに一緒に花見に来て、昔を懐かしむ兄に付き合うくらいの心は持ち合わせている。それに、多少食べ辛くとも嫌というわけではない。だから多少思うところはあったもののこうやって食べているのだ。
「それよりこれ食べたら帰るぞ。夕飯を作らなくちゃいけないんだからな」
「そうだったな。サスケの料理は美味いから楽しみだ」
分かりやすい話題転換にイタチは微笑みながら頷く。ここで何か食べて帰ろうという話にならないところがこの弟の優しいところだ。家で夕飯の話をした時のイタチの発言を覚えているのだろう。何でも良いという言葉の意味が今イタチの言った意味と等しいと知っていたからこそ、外食はせずに家で夕飯を食べようと言ってくれるのだ。実際、サスケの手料理は美味しいからそれを食べられるのはイタチとしても嬉しい。だが。
「ほら」
今はこの焼きそばの残りを食べてしまうのが先だ。イタチが差し出すそれを暫し眺めた後にサスケはそれをぱくりと食べる。焼きそばがなくなるまであともう少し。
桜と半分この思い出
兄弟だから、一つを半分こにして分け合おう
昔も今も、そうやって二人で一緒に同じモノを分かち合おう