「ねえ、快斗」


 それを知ったのはほんの偶然。何気なく眺めていたネットニュースの中に紛れていたのをたまたま目にした。
 へえ、と思いながら流し読んだ記事に載っていたワードが頭に残ってしまったのは、それが自分たちに無縁のものではなかったから。無縁ではない、といっても経験もないのだが。気になってしまったのは仕方がないだろう。


「おー」


 テレビを見ながら返事をした快斗は、青子が今考えていることを想像したことはあるだろうか。多分ないだろうと思うのは、もしあればそういう雰囲気になったこともあったのではないかと思うからだ。
 息を吸って、吐いて。心臓がドキドキと音を立てるのを感じながら青子は思い切って口を開いた。


「今日はキスの日なんだって」


 なんでも日本で初めてキスシーンが登場する映画の封切りが今日、五月二十三日であったことに由来してそう呼ばれるようになったらしい。
 キスというのは世間一般的に愛情表現のひとつである。海外では挨拶代わりにする地域もあるようだがこの国では特別な好意を現す手段となっている。青子と快斗のように、所謂恋人という間柄であればその行為をすることは何もおかしなことではない。これまで、そんな雰囲気になったことは一度もないけれど。


「……何だよ急に」


 暫しの沈黙の後に快斗が振り向く。ポーカーフェイスが得意の幼馴染みの表情からその心理は読み解けそうになかった。


「だから、今日はキスの日なんだって」

「それはさっきも聞いた」

「ならもっと何かないの?」

「何かって何だよ」

「そうなんだーとか、知らなかったーとか」


 どちらも大差ない反応ではあるが、もうちょっとくらいリアクションがあってもいいのではないだろうか。
 ……それならしてみる? なんて話になることを想像したわけではないけれど、自分たちは恋人なのだから少しくらい反応があってもいいのではないだろうか。少なくとも、青子はこのニュースを見た時に快斗のことを思い浮かべた。快斗は、何も思わないのだろうか。


「……オメーこそ、どうしたいんだよ」

「え?」


 不意に尋ねられて反射的に聞き返す。だから、と今度は快斗が繰り返した。


「それをわざわざ言うってことは、そういうことなのかって聞いてんだよ」


 ドキッと一際強く心臓が鳴った。そういうこととはどういうことなのかなどこの流れで聞く必要はないだろう。ドキドキと、今日はやけに心臓の音が五月蝿く感じる。
 何と言えばいいのか。何と答えるのが正解なのか。そもそも正解なんて存在しないのかもしれないけれど、答えを探して頭の中がぐるぐると回る。


「そういうことって……」

「そういうことだろ」


 言葉が見つからず、分かっていたことを問いかけると同じ言葉で返された。
 つまり、キスをしたいのか、そうでないのか。
 快斗が言った言葉の意味を考えて顔に熱が集まるのを感じる。そんなことを聞かれるなんて思っていなかった。いや、そういう流れを期待したのは確かだけれど、いざそのような話になるとどうしたらいいのか分からなくなる。


「快斗は、したいの?」


 何が、なんてやっぱり言う必要はないだろう。言わなくても目の前の相手にはしっかり伝わっているはずだ。


「したい、って言ったらやらせてくれんの?」


 青紫の瞳が真っ直ぐに青子を映す。その頬がほんのりと朱に染まっている気がするのはきっと気のせいではないのだろう。青子も快斗と同じように、もしかしたらそれ以上に顔が赤くなっているに違いない。


「で、でも、快斗。今までそんなこと……」

「こういうのはわざわざ言ってするモンでもねぇだろ」


 それは、確かにそうかもしれない。恋人になったらキスをするなんて決まりはない。恋人になったからキスという行為で愛情表現をすることはあるだろうけれど、愛情表現の手段はキスに限らない。好きと伝えることだって分かりやすい愛情表現だ。
 他にも手を繋ぐとか、一緒に過ごすとか。快斗がマジックで青子を楽しませてくれるのもそのひとつといえるだろう。青子が快斗に料理を振る舞うのだって、幼馴染みだった頃からそうだったとしても今はそこに恋人だからという意味が含まれているのは間違いない。


「それで、どうなんだよ」


 キスをするのか、しないのか。
 いつもより早い鼓動を落ち着けるように深呼吸をして青子は答えた。


「…………いいよ」


 好きだから、自分たちは幼馴染みから恋人になった。恋人になっても自分たちの関係は別段変わらなかったけれど、それでも何も変わらなかったわけでもない。キスをしたいかと聞かれれば、当然肯定を返す。

 だって、彼のことは特別な意味で好きなのだから。

 青子の答えに快斗はそっと、手を伸ばした。優しい手が青子の頬に触れる。さっきまでも五月蝿かった心臓がさらに音を立てている気がする。
 ゆっくりと縮まる距離。静かに目を閉じる。やがて、唇にあたたかなものが触れた。
 触れ合ったのは多分、ほんの一瞬。でも、確かに二つの熱が交わった。


(快斗と、キスしたんだ)


 まだ微かに唇に感覚が残っている気がする。ファーストキスはレモンの味、なんていうけれど味なんて全然分からなかった。
 すごくドキドキして、胸があふれそうだ。


「……そういやキスの日って他にもあったよな」

「え?」


 呟かれた一言に顔を上げる。目が合った恋人は徐に口の端を持ち上げた。


「今日は日本のキスの日。国によっても違うが世界的には七月六日だな」

「そうなんだ」

「キスの日はキスをしてもいいんだよな?」


 その言葉に青子は顔が熱くなった。最初にキスの日だからと話を持ちかけたのは青子だが、もちろんそういうつもりで言ったわけではない。


「なんでそうなるのよ……!?」

「そういう日だろ?」

「ここは日本なんだから日本のキスの日でいいでしょ!」

「なら海外旅行にでも行くか?」


 ポンっという音とともに快斗の手に握られているのはバラの花。今まで何度も見たことがある、青子の大好きな魔法。
 まずはアメリカあたりから行ってみるかなんて快斗は楽しげに話す。一体どこまで本気で言っているのだろうか。キスの日に合わせて旅行をするというのは冗談だと思うが、旅行先にアメリカを挙げたのはマジックが見たいからだろう。


「旅行もいいけど、快斗のマジックも見せてね」


 受け取ったバラへと向けていた視線を戻して告げる。
 世界のマジックにも興味がないわけではないけれど、青子は快斗のマジックが何よりも好きだ。そのような意味を込めた言葉に快斗はきょとんとした後に柔らかな笑みを浮かべた。


「当たり前だろ」


 彼の笑顔につられるように青子の頬も緩む。ぽかぽかと心があたたかくなる。幸せだなと感じるのは、快斗が隣にいるから。


「ねえ、快斗」


 この話を切り出した時とはまた違うドキドキを胸に抱きながら呼びかける。少し前までは分からなかった恋人の答えが今はもう尋ねる前から分かる気がした。
 一呼吸置いてから口を開く。快斗の答えは青子の予想通りだった。







だからキスをしたけれど
(キスの日じゃなくてもいいよね?)