同じ都内に住んでいれば、道端でばったり出会うなんてことも珍しくない。見覚えのある姿を見つけた時には向こうも気付いたらしい。こちらが何かを言うよりも先に元気の良い後輩は「御幸センパイ!」と名前を呼んで駆け寄ってきた。
「こんなとこで会うなんて奇遇っスね」
高校時代の後輩に会うのはいつ振りになるだろうか。といっても一年くらい前には会っているから久し振りというほどでもないか、などと考えているこの先輩は野球部の飲み会にも滅多に顔を出さない。理由は単純に忙しくて予定が合わないだけなのだが、他の野球部メンバーと違って御幸に会うのは久し振りだというのが沢村の内心だ。御幸からすれば一年なら良い方なのだが、そこは価値観の違いというやつだろう。
「そうだな。最近はどうよ? 調子は良いの?」
「当たり前じゃないっスか! 体調管理は基本中の基本ですからね!」
体調の話というよりは最近の調子を聞いたつもりだったが、まあ同じようなもんかと御幸は思う。見たところ元気が有り余っているようだし、大学でも高校の時と同様に騒がしく野球をやっているのだろう。それが沢村栄純という男だ。
沢村は現在大学二年だ。推薦を貰った大学に進学し、そこで野球を続けている。学部は違うが青道野球部からは金丸や倉持が同じ学校に通っており、彼等もまた野球部に所属している。一方御幸は高校を出てそのままプロに入った。かつての青道野球部の正捕手であり強肩強打、ドラフトで指名されてプロの道に進み今年で三年目だ。
「もしかして御幸センパイ、今日オフなんですか?」
この時間にこんなところにいるならそうなんだろうなと思いながら沢村は尋ねた。それに御幸も「ああ」と短く頷く。そういうお前はと聞き返せば、こっちも練習が休みなのだとやはり予想通りの返事が来る。偶然というものは重なるものらしい。
「じゃあ久し振りに球受けてくださいよ!」
「お前な、これでも俺はプロなんだけど」
「それはそうですけど、同じ青道野球部の先輩でもあるじゃないっスか」
元な、とわざわざつける御幸に元でも先輩は先輩だと沢村は言う。成長した俺の球を受けてみたくないっスかと話す沢村は高校の時から変わらない。それとも何か用事があるんですかと問えば、これといってはないけどなどと返ってくる。それなら良いじゃないですかと沢村が言い出したのは言うまでもないだろう。
「特別用がないだけで、俺は買いたいモンがあるからここにいんだよ」
「球受けてもらうのにそんな時間は掛けませんよ」
「そういうことじゃなくてだな」
沢村の中ではもう決定事項にでもなっているんだろうか。さあ、と急かす高校時代の後輩に御幸は頭を抱える。なんだかこの感じが懐かしいなとも思うが、本当にこの後輩は何も変わっていないらしい。
当たり前だが今日沢村の球を受けるなんていう予定はなかった。だがこれも何かの縁だろう。本人が主張する成長した沢村の球というのも捕手として受けてみたい気持ちもある。御幸が最後に沢村の球を受けたのは三年前の話だ。あそこから一体どう成長したのか。純粋に興味があった。
「……ったく、それじゃあ少しだけな」
「おしっ! そうと決まれば近くの土手に行きやしょう!」
言うなり走り出しそうな沢村を適当に制する。一年振りだというのに全然それを感じないのは沢村が全く変わっていないからだろう。その道中では最近のピッチングのことから青道野球部だった仲間のことまで、話題が尽きることなく沢村は話し続けた。時々隣から茶々を入れられながら、けれどそういうやり取りも今となっては懐かしい。
そうこうしている間に二人は目的の地へ辿り着く。川沿いに続いているこの土手では人の姿はぽつぽつと数えられる程度。これなら周りの迷惑になるということもないだろう。
「つーか、普通球受けろなんて急に言われてもグローブ持ってねぇからな」
軽くボールを投げながらそんなことを口にすれば「持ってたんだから良いじゃないっスか!」と、こちらもボールを投げる動作に合わせて返ってくる。ただの買い物に普通はグローブなんて持っていかない。どんなに野球が好きであっても肌身離さずグローブを持ち歩く人間はいないだろう。二人だっていつでもグローブを持っているわけではない。今日は偶々持っていたというだけのこと。
「今日の御幸センパイは俺の球を受けるべき日だったんですよ」
「偶然会っただけだろ」
「偶然も運命の巡り合わせって言うじゃないっすか」
言わねーよと御幸が突っ込んでも気にせず、とにかく今日はそういう日なのだと沢村は主張する。もうそれで良いかと内心で溜め息を吐いたのは御幸だ。本当は偶然でもなければ運命でもないんだけどな、とは勿論口に出さない。
「そろそろ座るぞ。けど軽くだからな」
「分かってますよ!」
元々今日はオフ。練習をしてはいけないというわけではないが、昨日の試合に登板した沢村は体を休めることも大事な仕事だ。いくら投げたくとも沢村だってそれくらいのことは分かっている。ここへの道中で試合の話を聞いた為に御幸もそれを把握しているというわけだ。尤も御幸は初めから何十球も球を受ける気はなかったのだが。
ふぅと小さく息を吐き、左手のボールの握りを確認する。それからセットポジションに入り、大きく腕を振り切る。
「どうっスか!?」
バンッとボールがミットに収まる音が響く。綺麗なバックスピンのかかったボールが御幸の元へと届いた。途中で加速するように感じるこのボールこそが沢村のストレート。かつては何百球と受けた球だが、昔よりも速度が上がったように思う。これが大学野球の中で更に成長した沢村のボール。
「まあ悪くねーんじゃねぇの?」
大学で着々と力を付けていることはボールを受けてすぐに分かった。けれどそれを素直に口にしないのは、沢村の性格を知っているからである。
もっと他にないんですかと言う沢村にボールを投げ返しながら、それならもっと成長したところを見せてみろよと煽る。するとムキになった沢村が「じゃあこれはどうっスか!」と上下左右に動くボールを投げた。沢村の武器であるムービングボール、相変わらずよく動くなと思いながらも御幸が後ろに逸らすことはない。
「どうですか!?」
「んー……良いんじゃね?」
「何ですかその反応!!」
他にはと続ける沢村を笑って適当に流しながらボールが行ったり来たり。サインの交換もせずに色んな球を投げ込むが、どんなボールも全て綺麗にミットへと吸い込まれていく。沢村もこの数年で成長したが、昔から高かった御幸のキャッチング技術も更に磨きがかかったらしい。
それを何度か繰り返した後、次でラストだと言う御幸に沢村は静かに頷く。これで最後、そう思って手元のボールに視線を落とす。最後に一番良い球を、あの時のようなボールを投げ込みたい。
一度深呼吸をして左手でボールを握る。そして、目の前のミット目掛けて腕を振る。
「………………」
ミットの乾いた音が響く。ストレート、チェンジアップ、クロスファイヤー、アウトローやインハイを突くボールコントロールにムービング。沢村の持つ全てをこの短い時間で見たわけだが、最後はど真ん中のストレート。沢村らしい選択に御幸は小さく笑みを零す。
「前よりボールの切れも増したみたいだな」
「当たり前じゃないっすか! 御幸センパイが最後に俺のボールを受けたのって高校生の時ですよ!」
御幸が高校三年、沢村は二年。御幸にとって最後の甲子園だったあの試合が二人でバッテリーを組んだ最後だ。また御幸が沢村のボールを受けたのもそれが最後。以前と違って当然、けれど珍しく素直に褒められたのは純粋に嬉しくもある。
「高校、か。もう随分昔のように感じるな」
「なんかそれ年寄りっぽいですよ」
「ま、お前は全然変わってなくて安心したけど」
さっきの今でこう発言されると馬鹿にされた気がしてならない。言えば笑って誤魔化されたからやはりそういう意味で言ったらしい。それなら御幸センパイも変わってないですねと言い返せば、この人はそれを誉め言葉と受けとるのだからやっぱり変わっていない。
「それにしても、沢村ももう二十歳か。あの沢村がなぁ」
「どういう意味ですか!?」
「いや、深い意味はねぇよ。ともかく誕生日おめでとう」
予想外の言葉に沢村は琥珀色の瞳を丸くさせた。確かに今日は沢村の誕生日だが、まさか御幸に祝ってもらえるとは思いもしなかった。そもそも御幸が自分の誕生日を覚えていることが驚きだ。まだ二人が高校生だった頃、寮で誕生日を祝ってもらったことはあったのだがそれだけだ。卒業してからも誕生日にメールを送り合う仲間がいる中、御幸からは一度も連絡をもらったことがないから忘れられているのだとばかり思っていた。
「御幸センパイ、俺の誕生日覚えてたんですか」
「は? そりゃあ青心寮にいた頃祝っただろ」
「そうですけど、アンタはメールの一つも寄越さないから忘れてるんだと思ってました」
「あー……それは俺も忙しかったからな」
プロになってやらなければならないことが沢山あった。そうやって忙しくしている間に誕生日は過ぎてしまっていたのだと御幸は言う。
……というのは建前で、御幸は元々マメに連絡を取る方でもない。高校時代の仲間の誕生日も覚えていないわけでもないのだが、わざわざその為だけに連絡をしようとは思わない。要するに、誕生日だからとメールをするような性格ではないというだけの話である。だが沢村は単純に言葉の通りに受け取った。
「まあプロ野球選手ともなれば忙しいですよね。でもありがとうございます。久し振りに御幸センパイに球受けてもらえて嬉しかったっス」
「何だ、今日は素直だな」
「俺だってお礼くらい言いますよ」
それに素直じゃないのはセンパイの方でしょ、と思ったままに声に出す。今日もそうだったが高校時代も素直に褒められた記憶なんて殆どない。素直でないのはどちらなのか。
「さてと、そろそろ行くか。お前も何か用があって出て来たんだろ?」
用事がなければわざわざ外には出ない。沢村も最初から御幸とキャッチボールをするつもりではなかったはずだから他に何かしらの用があるはずだ。まだ日は随分と高いが、このキャッチボールをこれ以上続けるつもりもない。となれば、この辺りで解散という流れになるのはごく自然なことだ。
「じゃあ、エース目指して精々頑張れよ」
「センパイこそ、正捕手として活躍するのを楽しみにしてますよ」
それは、どちらもお互いがそれぞれ目指しているものだ。どっちが先にそれを実現することが出来るか、今のところはまだ五分といえるだろう。だがお互い、遠くない未来にそれを実現させたいと思っている。そして、それを心の内では二人共ちゃんと応援しているのだ。
言い合った二人は口角を持ち上げる。それから背を向けた御幸を見送ろうとして、しかし沢村はここで意を決して声を上げた。
「御幸センパイ!!」
大声で呼ばれて御幸は一度足を止めて振り返る。
今はプロ野球選手と普通の大学生、高校時代のように肩を並べては歩けないのかもしれない。けれど、一緒に甲子園という目標に向かってただひたすらに走っていた時間は確かなもので、たとえ互いの肩書きが変わったとしてもそれらは決して変わることはない。だから。
「センパイが忙しいのは分かってますけど、それなら俺から連絡しても良いですか!?」
突然の問い掛けに御幸は目を丸くする。おそらく忙しくて連絡出来ないのなら自分からするのは構わないか、という思考にさっきのメールの話でなったのだろう。あれはただの建前であり、加えて御幸が自分で連絡をしないのには別の理由もあったのだが、そのようなことは知らない沢村はただ純粋に尋ねている。
「……別に良いけど、返信とか期待されるのは困るんだけど」
「つまり送るのは良いんですね!?」
返信が短くても、ましてや来ないことがあっても構わないというのなら御幸にそれを断る理由はない。沢村は高校時代の後輩であり、彼のことは別段嫌いというわけでもない。むしろその逆だから困っているのだが、メールくらいは良いかと御幸が頷けば、ぱあと沢村の表情が嬉しそうに変わる。
御幸の思った通り、沢村は先程の御幸の発言からこのような質問を投げ掛けた。だが、それは他の野球部員と違って一人だけなかなか連絡を取ることがないとかそういう理由でないことを御幸もまた知らない。今を逃せば次に会えるのは一年後か、下手したらそれ以上先の話になる可能性も捨てきれない。思い切って聞いたのは、沢村が御幸と繋がっていたいから。
「それじゃあ今度メールしますね! あ、オフで空いてる日があったらまた球受けてください!!」
「おいおい、メールは良いけど俺がオフでもお前は練習あんだろ」
「もしかしたらまた偶然オフが重なることもあるじゃないですか!」
そんなことは滅多にないだろうが一応可能性がゼロとも言えない。もしかしたら今日のような日がいつかどこかであるかもしれない。
二度あることは三度あると言いますからと自信満々に話す沢村にまだ一度しか起きてないけれどなと突っ込みながら、もしもそんなことがあったらなと御幸は適当に受け流す。それでも沢村は「約束ですからね!」としっかり宣言する。確率はかなり低いだろうが、もし二度目があったとしたら付き合ってやるかと頭の片隅で考えながら、今度こそ御幸は沢村に背を向けた。
遠くなっていく背中を見届けて、沢村は「よしっ!」と気合を入れて走り出す。
今日も空は青く澄んでいる。
偶然の再会
否、必然の再会で誕生日のお祝いを君に