「おはよう」


 ゆっくりと意識が覚醒していく中、耳に届いた心地よいテノール。
 間もなくして白馬の瞳に映ったのは青。その色をぼうっと見つめていた白馬はぱちぱちと二回ほど瞬きをした後、がばっと勢いよく体を起こした。


「黒羽くん……!?」

「お前がこんな時間まで寝てるなんて珍しいな」


 もうとっくに朝だぜ、と言いながら体を起こした彼はベッドから降りるとさっとカーテンを開けた。瞬間、窓の外から太陽の光が一気に室内に差し込む。


「また厄介な事件を引き受けてるのか?」


 自然の眩しさに白馬は一瞬だけ目を細めた。
 彼の言う通り、昨夜は遅くまで事件の調査をしていた。事件の資料を読み漁り、気がついた時にはすっかり夜が更けていたのだ。そのことを認識して間もなくベッドに入ったのだが、今日は特に予定がなかったこともあってうっかり寝坊してしまったらしい。

 ――しかし、問題はそこではない。


「……何故、君がここに?」


 その問い掛けに黒羽はくるりとこちらを振り返った。
 ひらひらと揺れる白いカーテンを背に、まるで白い布に包まれているかのような姿で彼はふっと口元を緩めた。そしてたった一言。


「暇だったんだよ」


 そう、答えた。


(暇……?)


 声には出さず、白馬は彼の言葉を復唱する。理由はたったそれだけだと言いたげな黒羽を白馬はじっと見据えた。
 暇だから遊びにきた。親しい相手の元を訪ねる理由としては至ってシンプルだ。
 だが、それを聞いた白馬はそんなわけがないと思った。何せ今の彼は世界を股に掛けるプロマジシャンだ。それも、己の記憶が正しければ。


「……確か君、昨日まで海外ツアーで世界中を飛び回っていなかったかい?」

「昨日まで、だろ?」


 尋ねられた黒羽は当然のように答えた。白馬の記憶は間違っていなかったらしい。
 しかし、そうなるとやはりおかしい。彼がいた国からここまでの距離を考えるとその言い分はあまり現実的とはいえなかった。


「だから昨日まで、海外にいたんですよね?」

「そう言ってるじゃん」

「……何でここにいるんですか」

「暇だったからって答えたと思うけど?」


 もしかしてまだ寝ぼけているのか、と言われるのは些か腑に落ちない。昨日まで海外にいた人物が突然帰ってきた上に朝から人の家を訪ねてくるなんて普通は思わない。
 ――それとも、何か急用でもあったのか。
 もしそうだとすれば急いで戻ってきたことにも頷ける。けれど、ちらりと伺い見た友人からはとてもそのような気配は感じられなかった。本人も「暇だったから」と答えているのだから当然といえば当然だ。


「一応確認するけど、急用ではないんだよね?」

「用があったらとっくに話してるだろうな」


 念のための確認は予想通りの返事で終わる。それはそうだ、と白馬自身も思う。本当に急用できたのならのんびりこんな会話をしているわけがない。


「……さっきから同じことばかり質問してるけど、疲れてんなら今日は帰るぜ」


 不意に聞こえた声にはっと顔を上げる。何の連絡もなしにいきなり押しかけちまったしな、と言って窓の外を見た黒羽は微かに視線を落とした、気がした。
 だが、それもほんの一瞬のことだった。再びこちらを見た彼はいつものように笑っていた。何も変わらない、いつも通りの彼。いつもの、ポーカーフェイスが得意な。


「黒羽くん」


 それ見た時、白馬は咄嗟に彼の名前を口にしていた。


「いくら事件が重要だからって体調管理はしっかりしろよ」

「黒羽くん!」


 けれど白馬の声など聞こえていないかのような黒羽は「それじゃあ」と今にも帰りそうな態度で淡々と話した。だから白馬は手を伸ばし、その腕を掴んだ。
 青の双眸が不思議そうに白馬を見上げる。
 どうかしたのかと言いたげな瞳に見つめられながらゆっくりと息を吐く。昔とは違う、柔らかなその瞳を白馬もまた真っ直ぐに見つめた。そうではない、と落ち着かせた頭で白馬は言葉を選ぶ。


「誰も帰って欲しいなんて言っていませんよ」


 そう、帰って欲しいなどと欠片も思っていない。寝ぼけているつもりはなかったが、突然の出来事に頭が回っていなかったのは事実だろう。
 静かに息を吸って、吐いて、漸く酸素が回り始める。目の前の彼はじっと、白馬の次の言葉を待っているようだった。


「ただ、君だってツアーが終わったばかりで疲れているでしょう?」


 それが気になったんです、と白馬は自分の正直な気持ちを伝えた。
 昨日の今日で帰ってくることは、たとえ現実的ではなくても決して不可能なことではない。もちろん、会えて嬉しくないわけもない。
 だけど、会えるのは早くてももう少し先のことだと思っていたから驚いたのだと。


「…………どうしてそこで笑うんですか」


 突如聞こえてきたくすくすと笑う声。そのことに不満を零すと「悪ィ悪ィ」と全く詫びる様子のない態度で黒羽は謝った。
 だが彼の笑いは簡単には治まらないようで、その口からは未だに小さく笑い声が漏れている。はあ、と溜め息を吐きながら白馬は彼を見る。


「何かおかしなことを言いましたか」

「オレとしてはおかしなことしかねーと思うけど?」

「どこがですか」


 直接本人に答えを求めると、彼はニィと口角を持ち上げて言った。


「会いたいから、以外に理由があるのかよ」


 だからこうして帰ってきたんだろ。
 予想外の一言にきょとんとした後、白馬は思わず笑ってしまった。それは暇だからという答え以上にシンプルな、彼の本心だった。


「それくらい推理しろよ」

「次からはそうするよ」


 ここまで頑なに暇だからとしか答えなかった彼が自ら正解を教えてくれたのは、白馬の答えが彼の中にある正解を言い当てたからだろう。何せ、同じ気持ちを抱いているのなら彼が帰る理由はない。

 白馬が掴んでいた腕を離すと、くるりと黒羽は体の向きを変えた。
 そして彼はまた楽しそうに笑う。


「オレ、今日暇なんだけど?」


 そう口にした彼にまずは朝食の提案をすることにした。










遊びにきたわけでも、会いにきたわけでもない
それはただの口実だ

(会いたいから)

そうでなければ昨日の今日で帰ってくるわけがないんだって
そろそろ気づけよ、探偵くん?

――だからオレは今、ここにいる



白快ワンドロに参加させて頂いたものでお題は「おはよう」でした