好きな人がいる。いつだって五月蝿いほどに元気で、騒がしくて、馬鹿みたいに真っ直ぐで、そんなアイツの笑顔が好きだった。いや、現在進行形で好きだ。この気持ちを本人に伝える気は欠片もないけれど、それでも俺がアイツを好きなのはあの頃から変わっていない。
「御幸センパイって、好きな人とかいないんスか?」
どうしていきなりそんな話になったんだとは思ったが、まあいつものことだから気にしないことにした。こんなことを一々気にしていたらキリがない。
それでも理由は気になったから「何で?」と聞き返してみたけれど、どうせなんとなく気になったとかそんなところだろう。案の定、沢村は「ちょっと気になったんで」と答えた。
「別にいねーよ。つーか、そういうお前はどうなんだよ」
「えっ、俺は……」
「あ、地元に彼女がいるとか言ってたっけ?」
「若菜はただの幼馴染ですから!」
高校時代にも何度か聞いたようなやり取りをしながらグラスを傾ける。練習が終わった後、腹が減ったという話からちゃっかり奢ってくれと言い出した後輩を連れて店にやって来たのが三十分くらい前だったか。酒の飲める年になった後輩と適当に飲みながら、この唐突な話題をさっさと終わらせたいなと思っているこちらの心境など知らない沢村は話を続ける。
「でも、御幸センパイってモテるじゃないっスか」
「それと好きな相手がいるかは全然関係ねーだろ」
人に好かれるのと人を好きになるのは全く別だ。というか、人の見た目や肩書きだけに惹かれるような相手を好きになったりはしないだろう。それ以前に本当は好きな奴がいるわけだけど。
どうして好きな奴がいるのに嘘を吐いたのか? それは、この恋が絶対に実らないものだと知っているから。好きな人がいると答えてどんな相手なのかと聞かれたら返答に困る。まず相手は異性ではなく同性、それも同じ部活の後輩だ。つーか、本人に言えるわけがない。
どうしてこいつなんだろう、ってそんなことはもう何度も考えた。でも好きなものは好きなんだ。だからたとえ実らない恋だとしても、俺は沢村が好きだ。
「じゃあ、付き合ってる彼女とかもいないんですか?」
もう何の話なんだよと思いながら一応質問にはいないと答えてやった。わざわざ聞かなくても知ってるだろうとは思ったけれど。何せ同じ大学の同じ野球部、彼女がいる奴もいないわけじゃないけれど大体みんな知ってる。中にはこっそり付き合ってる奴もいるのかもしれないが、まあそれは置いておくとして。
そんな時間もないから誰とも付き合わないというのは高校の時から言っている。勿論、彼女がいる奴はその辺を上手くやっているんだろう。時間は作るものともいうし、俺のこれはただの口実に過ぎない。そうはいっても昔から野球ばっかりやってきたから嘘というほどのことでもないが。
「ってかさ、さっきから俺の話ばっかりだけどお前はどうなの」
早くこの話を終わらせたいと思っていたけれど、一方的に聞かれるだけというのも癪だ。こっちが答えた分くらいは聞いても良いだろう。聞いてどうするんだよと思う自分がいる反面、それでもやっぱり気になってしまう自分もいる。本当、厄介だ。
「俺も付き合ってる人はいないですけど」
「じゃあ好きな人はいんの?」
振っておいてなんだが、否定されるだろうなと思って尋ねたそれに沢村は黙った。否定せずに黙ったということはつまりそういうことで、こちらも思わず手が止まってしまった。
誰だって人を好きになることはある。沢村にだって気になる人の一人や二人くらいいてもおかしくない。むしろそれは当たり前のことで、いずれは結婚して子供が出来てなんていうのは誰もが描く未来予想図。冷静に考えてみればそれはごく普通のこと。
「……そうか、お前にも好きな人とかいるんだな」
「そりゃあ、俺だって好きな人くらいいますよ」
今までそんな話を聞いたことなんてなかったから驚いたけれど、沢村は何もおかしいことを言っていない。それでもズキッと小さな痛みが胸に走ったのは仕方がないだろう。分かっていたって辛いものは辛い。それが叶わないと初めから分かりきっていたことだとしても。
訪れた沈黙。次の言葉がすぐには出て来なくて一先ず近くにあった酒を喉に流し込む。時間にして僅か数秒のそれで次の言葉なんて思い付かないが、沈黙が気まずくて結局無難な言葉を掛ける。
「それなら告白とかしねぇの?」
自分で言ってダメージを受けてるって何だよと思いながら、でも会話の流れとしてはよくある感じだろう。誰かとこういった話題になること自体、まず殆ど経験にないけれど多分こんなもんだ。好きな人がいると聞いたら次は告白をしないのかってなるだろう。
別におかしくない、普通だよなと半ば自分に言い聞かせながら目の前の後輩に視線を向けると、琥珀色の瞳が僅かに揺れた。
「しないですよ」
視線を下に落とし、静かな声で沢村はそう言った。はっきりと言われたそれに少々驚きながら、そのまま話の流れで「何で?」と問えば「振られるのが分かってますから」なんていう答えが返ってくる。
まだ告白をしたことがないのなら相手の返事なんて分からないだろう。沢村がそう思っていても相手が本当にそう思っているとは限らない。駄目元でも当たって砕けてみれば良いじゃんとアドバイスにもならないようなことを言ってやれば、案外まともに「砕けたら意味ないでしょ」と返された。それは分かるんだなんて思いながら、話を振ってしまったからにはここで終わらせることも出来ずに言葉を探す。
「でも分からないだろ? 相手がお前をどう思ってるかなんてさ」
「分かりますよ。何年も一緒にいるんですから」
何年も、ということは最近好きな子が出来たという話でもないのか。もしかして例の幼馴染の子が好きだけど今更言えないとかそういう話なのかと聞けば、だから違うと再度否定されてしまった。
まあ相手が誰かなんて俺にとってはどうでも良い話だけれど、目の前のこいつがその人のことを本気で好きなんだなというのは見ているだけで伝わってくる。こいつがそれほどの好意を寄せる相手とはどんな人だろうか。その好意が全部こちらに向けば良いのに、と考えてこっそり自嘲を浮かべた。割り切ってるつもりで全然割り切れてねぇなと自分自身に呆れる。
「別に付き合いたいとか、そういうのじゃないんですよ」
カランカランと氷が音を響かせる。今のままで良いと話すこいつは、やっぱり振られることを前提に話している。告白しても相手を困らせるだけだからと綺麗事を並べて。
普段のこいつなら当たって砕けるくらいのことはしそうなのに、らしくないなと思う。恋愛に関しては奥手なのか。それでもやってみなければ分からないことに変わりはなくて、ここで背中を押してやるべきなのかなと残り少ないグラスを片手に思う。
「お前がそれで良いなら良いけど、言ってみたら案外OKってこともあるぜ。言わなきゃ相手もお前の気持ちなんて知らないんだしな」
告って駄目だったら慰めるくらいしてやるよ、と言って残っていたお酒を飲み干す。成功するかどうかは俺にも分からないけれど、告白しなければ可能性はゼロのまま。どうせ諦めるんなら玉砕覚悟で告白してみれば良い。沢村の気持ちを知った相手が良い返事をくれるかはまずそこからなんだから。
いつの間にか恋愛相談みたいになってるけど、もしかして沢村は最初からそのつもりで好きな人がいるかとか聞いてきたんだろうか。そんな遠回しなことをこいつがするか? とは思ったが五年近く付き合ってきて色恋の話なんて殆どしたことないから分からないか。
これで俺は完全に振られたわけだけど、まあこいつが幸せになるならそれで良いかと思った。実らない恋ならせめて、そいつが幸せになってくれれば良い。
でも今日はもう一杯くらい酒を追加しても良いかなと、空になったグラスを見て思う。明日はオフだし、今日くらいは良いだろうと。
「…………御幸センパイ」
思ったところで自分を呼ぶ声に顔を上げると、琥珀の双眸と目が合った。真っ直ぐな琥珀色、それを綺麗だなと思いながら「何?」と聞き返す。
しかし、沢村は開きかけた口を閉じる。そのまま視線を左右に彷徨わせる様子を俺はただじっと見ていた。やがて意を決したように沢村はこちらを見ると、もう一度「御幸センパイ」と言ってゆっくりと口を開いた。
「言ってみなくちゃ分からない、って。本気でそう思います?」
「そりゃ、言わなくちゃ相手はお前の気持ちなんて知らないからな」
「もしダメだったら、慰めてくれるんですね」
「まあ慰めるくらいはしてやるけど、告白する前からそんなんで――――」
「御幸センパイ」
俺が最後まで言い切る前に沢村が遮る。真剣な瞳が真っ直ぐにこちらへ向けられる。すうっと、大きく息を吸って。
「俺、御幸センパイが好きです」
そう、沢村は告白した。
「………………は?」
「だから、俺は御幸センパイが好きなんです」
言葉の意味が理解出来なくて聞き返した俺に沢村は先程と同じ言葉を繰り返した。けれど俺の頭はまだその言葉を理解しかねていた。
好き? 沢村が俺を?
じゃあ今までの話は……。
ぐるぐると沢村の言葉が俺の頭の中を回る。振られるのが分かってるから告白しないって、俺に振られると思ったってこと? 俺は沢村が好きだから告白されても振らない、つーか振るわけないじゃん。
……あー、付き合いたいわけじゃないってそういうことか。振られる前提だったのも全部、漸く沢村の話が一本に繋がった。
「センパイ、俺ちゃんと告白しましたよ。慰めてくれるんですよね?」
泣きそうに笑う、沢村のこんな顔を見たのは初めてだった。
こいつは、沢村も俺と同じだったんだ。好きになってしまった相手が同性で、同じ部活の先輩で、後輩で。叶わない恋だと分かっていたから告白しないつもりだったんだ。それを俺がこいつに言わせた。自分は何も言わないで、一生秘め続けていくつもりだったのに。
「……沢村、俺は言ってみないと分からないって言ったろ?」
でも、それで良かったと思う。結果論だけど、やっぱり言わなくちゃ伝わらないんだ。大事なことを後輩に押し付けた情けない先輩だけど、この気持ちに偽りがないのは本当だから。俺も長年秘めていたその想いを口にする。
「俺はお前が好きだよ、沢村」
沢村の大きな瞳が目一杯まで開かれる。それから「嘘だ」なんて言うから「嘘じゃねーよ」と否定して、高校生だった頃から好きだったと告白すればさらに驚かれた。
「アンタ、そんな素振りは一度も見せなかったじゃないっスか!?」
「それはお前だって同じだろ」
好きだと自覚してからも今まで通りに接していた。投手と捕手という間柄、余計な感情のせいで気まずくなって野球に支障が出るなんて以ての外だ。だから好きという感情を隠して、先輩と後輩としてずっと接してきたんだ。沢村にしたって同じだろう。俺達にとって、野球は何よりも大切な、かけがえのないものだから。
「いや、でも」
「沢村」
信じられないっていうその気持ちは分かる。正直俺だってこんなことになるとは思わなかったし、まだ信じられないという思いもある。
だけど、沢村が嘘や冗談を言っていないことは分かる。それはつまりこれが現実ということであり、信じないという選択肢は必然的に消える。お互い酒は入っていてもこれが夢でないことが分かるくらいには酒も回っていない。ま、こんなことが言えたのはその酒の力もあるのかもしれないけれど。
「明日はオフだし、今日ウチに泊まってけよ。話はそっちでしよう」
ここからなら俺の家の方が近い。色々聞きたいこともあるし、こういうのはあまり外でするような話でもないだろう。テーブルの上も片付いたところだから丁度良い。
俺が伝票を持って立ち上がると沢村もすぐに荷物を持って追い掛けてくる。さっさと会計を済ませて外に出ると、空には丸い月が浮かんでいるのが見えた。今日は満月だったのかなんて呑気に思いながら、行くぞとその手を掴んで歩き始める。
「ちょ、御幸センパイ!?」
「これならお前も迷子にならないだろ?」
迷子になんてならないだとか人のことを何だと思ってるんだとか、高校生で迷子になっていた奴に言われても説得力は全くない。どうせ夜だからあまり人目に付かないし、ふらっとどこかに行かれるよりはこの方が確実だ。逃げられる心配もないしな、なんて言ったら流石に怒るかもしれないが。
「お前だって俺に聞きたいこととかあるんじゃねーの?」
「それは、まあ」
「なら早く行こうぜ」
そう言って手を引けば、沢村もそれに逆らわずに隣に並んで足を進めた。触れ合う手から互いの体温が伝わる。それに内心ドキドキしながら、でも今はとにかく話がしたいと自然と足が早まる。
さて、家に着いたら何から話そうか? 言いたいことも聞きたいことも沢山ある。今まで抑えていた感情が一気に溢れそうだ。
叶える言葉
やってみないと分からない、言わなければ伝わらない
だからこの気持ちを言葉にして君に伝えよう