トントンと包丁の小気味良い音が鳴り、ぐつぐつと鍋が煮える音が聞こえてくると食欲をそそる香りが漂ってくる。キッチンに立つその男は手際よく料理をこなしていく。こうして二人で暮らすようになってからというもの、料理が得意な彼がキッチンに立つのは当たり前の光景になっていた。
 そして今日の夕食もいつものように彼が作り、出来上がったそれを二人で一緒に食べる。そんないつもと変わらない一日を過ごしていた――のだが。


「本当にこんなんで良いんスか!?」


 授業が終わり、部活が終わり。それから真っ直ぐ家に帰って食卓を囲んだわけだが、唐突に沢村が声を上げた。それに御幸はきょとんとした顔で「何が?」と聞き返す。


「何がって、今日はアンタの誕生日でしょ!」

「そうだな」

「それなのにこんな普通で良いんスか!?」

「祝いの言葉なら聞いたけど?」


 今日、それも日付が変わった直後に御幸は沢村から誕生日を祝ってもらった。誕生日おめでとうございます、というその言葉をありがとうと受け取った。それから何度も鳴ったメールの着信音は高校時代のチームメイトから、大学でも何人かに直接お祝いをされた。
 だがそれだけで他は至って普通――というのは別におかしなことでもないだろう。誕生日だろうと世間は普段通りに動いているのだ。沢村をはじめ、他にも多くの人が自分の誕生日を祝ってくれた。それで十分だと御幸は思うのだが、どうやら沢村は納得していないらしい。


「そうじゃなくて、もっと何かないんスか!? 年に一度しかない誕生日なのに……」


 世間的にはただの平日の一日かもしれない。けれど、沢村からしてみれば大切な人の特別な日だ。それを何でもない一日のように過ごしてしまうのは違うと思うし、かといってただおめでとうと言って終わるのも違う気がする。
 今日――十一月十七日は御幸一也が生まれた日で、彼が今日と云う日に生まれたからこそ沢村は今ここにいる。御幸一也という人物に出会わなければ、沢村は長野から出ることなく今とは全く違う人生を歩んでいただろう。そんな相手の特別な日なのだから、というのが沢村の言い分なのだろうけれど。


「何もいらねーって言っただろ。俺はお前といられるだけでいーよ」


 御幸にいわせれば、誕生日だからといって特別何かをしてもらいたいこともない。だからこうやっていつものように一緒に食事をして、二人で同じ時間を過ごせるだけで満足なのだ。
 そのことを一週間ほど前、誕生日に何か欲しい物がないかと聞いてきた沢村本人にも伝えている。そして、今し方口にしたのと同じようなことを言ったのだ。


「確かに聞きましたけど、誕生日くらいワガママ言っても罰はあたりやせんよ」

「だから何もねーって。つーか、お前がしつこいから今日は真っ直ぐ帰るように言っただろ」

「でもそれだけじゃないっスか」


 大体真っ直ぐ帰るようにって何なのかというけれど、真っ直ぐ帰る分だけ家で共に過ごせる時間が増える。二人で過ごせればそれで良いと思っている御幸にとっては大いに意味のある頼み事だ。
 しかし、それは誕生日の贈り物としては如何なものだろうか。沢村とて一緒に過ごせる時間が増えるのは嬉しいが、本当にそれだけでこの料理だって御幸が作ったもの。別段料理が得意ではないものの誕生日なんだから自分が作ろうかと言った時には、投手が指を怪我したら困るだろうなどと言われたのだ。ちゃんと気を付けると言っても結局聞き入れてはもらえず、そもそも帰りに寄り道することさえあまりないのだから殆どいつも通りに過ごしていることになる。


「せっかくの誕生日なんですよ。お祝いしたいって思うのは当然でしょ」


 お祝いと一言でいっても形は様々だ。みんなで誕生日会を開くのもお祝い、その人の為に贈り物をするのもお祝い。贈り物一つとったって形のある物とは限らない。言ってしまえば、大切なのは気持ちというやつだ。
 その理論でいけば、お祝いする気持ちがあるのだからこれも立派な誕生日のお祝いであり贈り物。しかし、やはり何か贈り物をしたいと思ったから本人に聞いたのにこれである。自分で考えても良かったのだが、そこは本人の欲しい物の方が良いだろうと思ったが故だ。

 そんな沢村に御幸ははあ、と一つ溜め息を吐く。何もないと言っているのにとは思ったけれど、これがもし逆の立場だったら気持ちは分からなくもないかとも思い直す。
 どうしたものかと思いながらガシガシと頭の後ろを掻く。それから少し悩むようにした後、御幸は琥珀色の瞳を見た。


「……沢村。お前は今、幸せか?」

「どうしたんすか、急に」


 唐突な質問に疑問を浮かべた沢村にいいから答えろよと御幸は答えを促す。質問の意図が分からないながらも「まあ、そうっすね」と、沢村は頭にクエッションマークを浮かべたまま答えた。
 高校を卒業してから御幸と同じ大学に進み、また彼に球を受けて貰えて。ずっと追い掛けていた人と一緒にいられる。今も近くでその背中を追い掛けることが出来る。そして好きな人と同じ食卓を囲み、共に時間を過ごしている。これを幸せといわずに何というのか。


「俺も同じだ。お前と暮らすようになってから毎日飽きない」

「……それは褒めてるんスか?」

「褒めてるだろ。だからこれからも一緒にいたいって思うんだし」


 さらっと言われたそれに「なっ!」と沢村は顔を赤く染めた。何を突然とでも言いたげな顔だが、お前といると飽きないというような話は高校時代にも口にしていた。一緒にいたいというのも、それを告白したからこそ現在同じ屋根の下で暮らしているのだ。今更という話でもない。だからあえて深く触れることもなく御幸は話を続ける。


「それで、やっぱ飯は誰かと食う方が美味いと思うんだよな」


 繋がっているのかいないのか、おそらく繋がっているだろうその話に沢村も相槌を打つ。御幸が何の話をしたいのかはまだ分からないけれど、青心寮での食事はみんなでわいわいと騒いだりして楽しかったとあの頃を思い返す。また毎日御幸と色んな話をしながら食べるご飯も美味しいなと思う。学年こそ違うが大学も家も一緒、それでも話題は尽きないもので話していれば時間はあっという間である。


「でさ、自分が作ったものを美味しそうに食べてくれる奴がいるって、嬉しいことなんだよな」


 あっ、と声が漏れるとふっと微笑んだ優しげな瞳と目が合う。沢村は漸く御幸の言いたいことを理解した。それを御幸もまた理解した。


「ま、お前に怪我されたら困るのも本当だけどな」


 お前に包丁握らせると怖いし、といつもの調子で御幸は続ける。
 誰かのために料理を作り、誰かと一緒に食べる。その誰かがそれを美味しいと言ってくれる。何てことのない小さなことだけれど、そんなささやかなことが嬉しくて幸せだと思う。一人ではない、沢村と二人で囲む食卓が御幸にとってはかけがえのない幸せなのだ。
 こんな幸せがここにはあって、それ以上に欲しいものはなかった。沢村に怪我をされたら困るというのも本音ではあったが、それを断ったのは自分で作りたかったから。御幸が作った料理を喜んで食べてくれる沢村が好きで、この時が幸せだからこそ真っ直ぐ帰れとだけ頼んだ。


「……………………」


 御幸の話が終わったところで部屋に暫しの沈黙が流れる。話を聞いていた沢村は何やらうつむいたまま黙っている。それに気付いた御幸は「沢村?」と後輩の名前を呼ぶ。
 その数秒後、部屋には「はあ」と大きな溜め息が響いた。それからがばっと頭を上げた黒髪は、真っ直ぐに眼鏡の奥の瞳を見つめる。


「御幸センパイって、ほんっとに野球以外ダメっスね」


 野球をやらせれば誰もが一目を置くほどの才能を持っている。強肩強打で捕球力や洞察力にも優れ、全国にも知られるほどの天才捕手。卒業後はプロになるのではないかという周囲の期待もあったが、大学へと進学した今は大学野球の世界でその名を響かせている。
 それほどの人物ではあるが、野球から離れればごく一般的な大学生。スポーツに関しても野球以外はてんで駄目だったりする。性格も悪いし、すぐに人をからかうし。だけど一人で抱えるようなところがあったり、挙げていけばそれはキリがなくなるのだが。


「そんなこれからもずっと続いていくことを贈り物にされたら、俺はこの先何もアンタに贈り物出来ないじゃないっスか」


 沢村の言葉に御幸は大きく目を開いた。でも、だってそうでしょうと沢村は言うのだ。明日も明後日も、一ヶ月後も一年後も十年後も。毎日続いていくはずの当たり前のものを贈り物に欲しいといわれたら、他にどんな贈り物が出来るだろうか。こんなのは贈り物にするまでもない当たり前のことなのに。


「だから他にないんスか? 欲しいモノ」


 これは贈り物の内に入らないんだから、と沢村は改めて御幸に誕生日プレゼントを伺う。
 柔らかな笑みを浮かべる恋人に御幸は暫し呆気にとられる。しつこいからと口にした本音にまさかこのような反応で返ってくるとは思いもしなかった。だけど沢村らしいその言葉に自然と笑みが零れる。


「……ったく、これ以上俺に何を言えってんだよ」

「この沢村栄純に出来ることであれば何でも良いっスよ!」

「何でもねぇ……」


 胸を張ってさあ何でもどうぞと言う恋人を前に、何か欲しいものなんてあっただろうかと御幸は考えてみる。一週間前にも考えたけれど、それとは違う答えを探して。
 何かないかと考えて、そして辿り着いたのは結局形あるものではなかったが。


「じゃあ、お前からキスしてよ」


 そんな恋人からの頼みに沢村は笑って椅子を立つ。そのまま手を伸ばしてそっと触れた唇は、色気も何もない夕飯の味がした。だけど、それも自分達らしいのではないだろうか。色気なんかなくても、これほど愛おしいものは他にない。


「……沢村。やっぱり俺、今凄く幸せだ」

「俺も、御幸センパイがいてくれて幸せです」


 普段はあまり口にすることのない言葉を聞くと、今度は御幸の方から沢村に唇を寄せた。先程よりも深い口付け。互いの熱が入り混じり、ゆっくりと離れた時にはほんのりと頬が朱に染まっていた。






大切な人との特別な日に、幸せな時間を