振り返ってみればあっという間。三年という年月は長いようで短い時間だ。
 入学してから今日まで色々なことがあったけれど、思い返して浮かぶのは殆どが野球のことばかり。もともと、この学校に入ったのもその野球をするためだ。当然といえば当然かもしれない。


「御幸センパイ!!」


 やたらと大声で呼ぶその声に振り返れば、こちらに駆け寄ってくる男が一人。いつもはユニフォームや私服で顔を合わせることが多いけれど、今日はお互い制服だ。
 それもそのはず。今日、それもついさっきまで青道高校では卒業式が行われていたのだ。卒業生は胸元にコサージュをつけ、校長先生から卒業証書を授与された。そして御幸の手に握られているのも卒業証書の入った丸筒だ。


「アンタ、何でこんなとこに居るんだよ!」

「別にどこに居ようと俺の勝手だろ」


 普通にタメ口で話す後輩に「つーか俺、先輩ね」と指摘するのはこれで何度目になるのだろうか。沢村といい降谷といい、入学した当初から先輩相手にタメ口だったり人の話を無視したり。何度注意したことがあったかなんてもう覚えていない。


「そりゃ、そうだけど……。どこにも居ないから探したんスよ!」


 そう話す沢村はまだ肩で呼吸をしている。一体、どのくらい走ったのだろうか。普段から部活で走っている沢村が呼吸を整えるのに時間が掛かるということは、相当走り回ったのかもしれない。
 しかし、沢村はどうして御幸を探していたのか。探していたからには何か用事があるのだろうが、卒業式が終わった後で野球部の面々が集まった時には御幸もその場にいた。御幸がこうして一人になったのは、一通りのことが全て終わった後だ。


「何だよ。何か言い忘れたことでもあったのか?」


 人間なのだから忘れることだってあるだろう。あの場で言い忘れたことでもあったと考えるが普通で、そのまま疑問を目の前の沢村に投げ掛けた。
 その沢村はというと、漸く息が整ってきたらしい。ふうと一息吐くなり顔を上げ、その大きな瞳で御幸を見上げた。それからすっと背筋を伸ばし、すうっと息を吸って。


「御幸センパイ、二年間お世話になりやした!」


 それは数十分程前、野球部で集まった時に言われたのとほぼ同じことだった。卒業していく三年生に対し、一年や二年の後輩達は「今までお世話になりました」と御礼を述べた。
 二年生の沢村との付き合いはかれこれ二年。この言葉に間違いはないし、他意もないだろう。けれど、わざわざ改まって言うほどのことかというと些か疑問が残る。


「そんなことを言いにわざわざ探してたのか?」

「そんなことっていいますけど、こういうのはケジメが大事なんですよ!」


 ケジメって、それはつまり。さっき野球部で集まった時の言葉では足りなかったとでもいうのか。いや、沢村だけそれが足りていなかったということもないだろう。
 というか、お前は思いっきり泣いてただろ。感受性豊かで涙脆い。表情がコロコロ変わる様子を見るのは面白い――なんて言ったら沢村は怒りそうだけど。そんな沢村を見るのは……と考えたところで思考を中断し、御幸は先程の沢村の発言から気になった言葉を復唱した。


「ケジメ、ね……」

「そうですよ、ケジメ! その為にアンタを探してたんスから」


 やたらとそれを強調してくるけれど、コイツは何をどうケジメをつけるつもりなんだろうか。御幸達三年生が卒業するからケジメを付けると言っているのは分かるけれど、ここまでの話ではその中身が全くといっていいほど見えてこない。


「それで、そのケジメって?」


 考えたって答えは出てこないんだ。それなら直接聞いてしまった方が早い。そう判断するなり御幸は沢村に問うた。

 すーはー。
 ゆっくりと深呼吸をした沢村は、ぐっと強い眼差しを御幸に向ける。


「俺、御幸センパイがいなかったらここに来てなかった」


 突然どうしたんだと思った。おそらくこれが沢村の言うケジメなのだろうが、これだけではまだ話が見えてこない。
 考えてみれば沢村が青道に入学した理由は聞いたことがなかったけれど、それは沢村に限った話ではない。みんな野球で上を目指したい、自分の力を試したいと名門青道野球部に集まってきたのは分かっていたから改めて聞くことでもなかったのだ。当然、沢村も御幸もそういった気持ちを持ってここに入学してきた一人だ。

 だが、沢村がこの学校に入学する決め手となったのは、中学三年生のあの日。渋々訪れた高校見学で御幸一也という男に出会ったこと。
 それまでは中学の仲間と共に野球をすることしか考えていなかったのに、たった一人の男との出会いが沢村の人生を変えた。


「御幸センパイと出会って、アンタと一緒に野球がしたくて俺は青道に来たんだ」


 そうして入学した青道高校で二人が再会したのは野球のグラウンド。新入部員達が挨拶している中、初日から遅刻した沢村は同じく遅刻してきた御幸と会った。


「そういやお前、初日から遅刻してたな」

「そのことは今はいいんです! つーか、アンタだって遅刻してただろ!?」


 あの時のことは御幸も覚えている。あの日、バッテリーを組んだ中学生が目の前に居たのには驚いた。何でここに居んのって疑問をそのまま聞いたら、入学したからに決まってんだろと至極当たり前の回答を返されたんだ。
 まだ御幸の性格を知らなかったあの時の沢村はまんまと御幸に騙され、初っ端から監督に外周を命じらた。結局は御幸も走る羽目になったけれど、それは自業自得というやつだ。あの時のことは今思い出しても散々だったけれど、その日から沢村の高校野球は始まったのだ。


「そうやって茶化すし、すぐ人のことからかうし。性格悪いしムカツクこともいっぱいあったけど」


 段々と悪口になってきているそれに「おい」と突っ込もうとして、けれどそれより先に「でも」と沢村が言葉を区切った。


「御幸センパイと野球できて良かったです」


 入学前は雑誌に載るような凄い人だったんだと思っていたのが、高校での出会いで一変して嫌な奴という認識に変わって。だけど選手としてはやっぱり凄くて、野球にはとことん熱心で一切の妥協をしない。そんな御幸のことを沢村は尊敬していたし、エースになりたいという気持ちとは別にこの人とバッテリーを組みたいという気持ちはずっと胸にあった。
 結局、御幸が青道高校の正捕手として最後の夏を迎えた時。エースとしてマウンドに登ることは叶わなかったけれど、甲子園最後のマウンドで投げたあのボールの感覚は今もしっかり残っている。


「だから、ありがとうございやした!」


 ニカッと浮かべられたその笑顔に、トクンと胸が鳴った。


(…………駄目だ)


 頭が否定する。あと少し、ほんの十分程度。それで終わるんだ。だからあと少しだけ。
 御幸は自分の中でそう言い聞かせながら、ふうと小さく息を吐く。大丈夫、いつも通りにすれば良いだけだと心の内で繰り返して、御幸も沢村に伝える。


「俺も、お前と過ごした二年間。楽しかったぜ。ありがとな」


 初めて出会ったあの日、面白い奴だと思った。それは二回目に会った時も同じで、投げる球もまたストレート一本と言いつつもその正体は七色に変化するムービングボール。面白い投手だと思った。
 コイツと一緒に野球をやったら面白そうだと思ったのは一年の時。夏大予選の一軍枠に上がって欲しいと思ったのは二年の時。こちらの要求に期待以上のボールで応え、どんどん成長していく姿をキャッチャーとして傍で見てきた。


「頑張れよ、キャプテン」


 この三年間、御幸は多くの投手とバッテリーを組んできた。投手というのはみんな癖があって扱いづらいけれど、違うタイプの投手達をリードするのは楽しくて仕方がなかった。
 ピッチャーが投げなければ野球は始まらない。その配球を考え、ピッチャーと一つになってピッチングを作り上げるのがキャッチャーの役目。
 当たり前だが、バッテリーの関係は組む相手によって変わる。先輩、同輩、後輩と。この三年で色んな投手と組んだ御幸だが、その中でも組んでいて一番楽しかったのは沢村だった。


「お前等が甲子園で活躍すんの楽しみにしてるからな」


 勿論、それを本人に言うつもりはない。すぐ調子に乗ることを知ってるからあえて言葉にはせず、野球部の先輩として後輩にエールを送る。
 あと一ヶ月もすれば新入部員が入って来るが、コイツならきっと上手くやるだろう。秋大では最後の一歩が届かなかったけれど、新キャプテンのもと動き出した青道野球部はもう安心して見ていられる。だから三年の自分達は笑って卒業していける。


「……じゃあな」


 他に言い残すことはない。これが本当に最後。
 長いようで短かった高校生活はこれで幕を閉じるのだ。

 別れの言葉を言い終えた御幸は沢村に背を向ける。楽しかったこと、辛かったこと、苦しかったこと、嬉しかったこと。思い出すのは野球のことばかり。それだけ野球が好きで、野球一筋で生きてきた。
 進学した大学でも野球は続ける。その先もずっと、野球を続けていきたいと思っている。そのどこかで、沢村とまた会う機会があるかもしれない。でも、高校生活の思い出は全部ここに置いて行くと決めたんだ。


「――――御幸一也!!」


 歩き始めて暫くしたところで再び名前を呼ばれる。
 今度はフルネームかよと立ち止まって振り返ると、突然目の前に何かが飛んできて反射的にそれを掴んだ。何だと手のひらを確認すると、そこには馴染みのある白球がすっぽりと収まっていた。


「この一年で成長する俺の球、受けてみたいとは思わないか!!」


 予想の斜め上の発言に目が丸くなる。いきなり何を言い出すのか。
 ……いや、この二年間。正確には一年半という時間で似たような台詞は何度も聞いた。こちらが何度断ろうともめげずに球を受けろと、もう一人の後輩と一緒になって頼んできたのも今では懐かしい。
 だけどまさか、それを卒業式を終えたこんな場面で聞くことになろうとは。本当、面白い奴だなと自然と口元が緩む。


「俺はもうお前のキャッチャーじゃねーだろ」


 もともと沢村限定のキャッチャーでもないけれど、青道を卒業する御幸は沢村とバッテリーを組むこともない。勿論、お互い野球をやっていれば可能性はゼロとは言えないけれど……。


「俺、来年御幸センパイと同じ学校に行くつもりっスよ」


 その可能性はほぼないだろうと思っていたところに、沢村から耳を疑うような発言が飛び出してきて「は?」と間抜けな声が漏れた。
 ――コイツは今、何て言った? 唐突なとんでも発言に開いた口が塞がらない。流石の御幸でも、これにはどう返したら良いのか分からなくなる。


「お前、進路はそんな適当に決めるもんじゃ……」

「適当じゃねぇよ!」


 なんとかそれっぽいことを口にしたけれど、言い終えるより前に否定された。
 進路とは自分の将来を見据えて決めることだと言おうとしたのだが、何も適当に決めたわけではないと遮った沢村の瞳には、強い意志が宿っていた。


「……俺はもっと、アンタと野球がしたい。アンタに球を受けてもらいたい。それで、アンタの目の前でエースになってやる!」


 だからアンタと同じ大学に行く。

 ……どうやら、沢村は本気でそう言っているようだった。否、本気で言っているんだろう。
 今年、沢村にとっての最後の高校野球で誰がエースに選ばれるかはまだ分からない。当然エースになるつもりで練習に取り組み、今年こそはとエースの座を狙っているのだろうが。


(そういえば、夏大の時……)


 御幸にとって最後の夏だった去年、エースに選ばれたのは降谷だった。一年の時と比べて随分と成長した沢村だったけれど、それでも背番号一を手にすることは出来なかった。
 ライバルにエースの座を奪われ、誰も見ていないところでひとり涙を流していた後輩の姿を御幸は知っていた。といっても御幸がその場に居合わせたのは偶然で、気付いた沢村は慌てて取り繕うとしたけれど隠さなくても良いと言ったら思いっきり涙が溢れた。
 エースになれなかったことが悔しい。そう言って泣いた沢村は、だけどそれだけじゃないのだとひっそりと零した。エースになって、御幸とバッテリーを組みたかったのだと。高校でバッテリーを組めるのは、これが最後だったから。


(高校を卒業してからでも、それを叶えたいって思ってくれたのか)


 キャッチャーは御幸だけではない。けれど沢村にとって御幸一也は特別な存在だった。
 しかし、だからといってやはりそれだけで大学を選ぶのはどうかと思う。御幸が進学する大学は野球でも有名な学校だから、進路として大学野球を選ぶとすれば自ずと候補には出てくるかもしれないけれど。
 だがまあ、ちゃんと考えた上でそこが候補に挙がったのなら。それを止める権利は御幸にない。だからその時は応援してやるが。


「まだ高校野球も終わってないのに、先のこと考えてる余裕なんてお前にあるのか?」

「高校野球は全力でやりますよ! けど、御幸センパイは……!」

「ならまずは目の前のことをやれよ。後のことはそれからだろ」


 勝負の世界には“勝つ”か“負ける”かのどちらかしかない。やり直しはない、たった一度きりの勝負の結果で全てが決まる。余計なことを考えている余裕などないはずだ。
 とはいえ、実際は三年になれば進路希望調査というのが定期的に行われる。それでも野球部の面々が進路を真剣に考えるようになるのは大分後だ。文字通り、野球以外のことを考える余裕がないから。御幸自身がそうだったし、周りもみんな似たようなものだった。

 ま、沢村の言いたいことも分かるのだがこの差だけはどうやっても埋めらないのだから仕方がない。
 一年生と二年生、二年生と三年生。
 この年齢差だけは何をどうしたって埋めようがないのだ。二人の間に一年という時間の差がある限り、御幸が卒業してしまうとしても沢村はそれを送り出すことしか出来ない。卒業してしまうからこそ、その話をしたのだろうけれども。


「……これで終わりにするつもりだったんだけどな」


 ぽつり、呟いたそれは風に掻き消される。
 終わるはずだった、終わりにするつもりだったのにどうしてこうなってしまったのか。卒業したら自然と距離があくからどうにでもなると思っていたのに、向こうからその距離を変えるつもりがないことを宣言されるなんて思いもしなかった。


「え? センパイ、今なんて……」

「まずは甲子園出場。その後でお前が俺の大学に進めるかは、期待しないで待っててやるよ」


 たった一枚しかない切符を掛けて選手達はぶつかり合い、それを制した学校は更に上を目指して戦う。全ての学校の頂点に立てるのは僅か一校のみ。
 強豪揃いのこの地区では、勝ち上がるのも一筋縄ではいかない。みんながみんな勝ちたくて、それが結果になるかはやってみるまで分からない。そして、それらは進路にも影響を与えるが、沢村の成績は御幸も知っている。御幸と同じ学校を目指すというのなら、野球で結果を残すことが一番の近道だろう。


「ちょっ、そこは期待しててくださいよ!!」

「だって沢村だしな」

「アンタ、さっきは俺が甲子園で活躍すんの楽しみにしてるって言ったくせに!!」

「それとこれとは別だろ」


 ギャーギャー喚く後輩に「まあ頑張れよ」とぶっきらぼうに応援してやれば、気持ちがこもってないと文句が返ってきた。期待しろというから応援したというのに注文の多い奴だななんて思いながら、ひょいっと手の内にあったボールを沢村に向かって投げ返す。


「その時は、また俺を楽しませてくれよ?」


 一年後、どうなっているかなんて誰にも分からない。そもそも未来が分かる人間なんて居ないだろう。望む未来があるのなら、自分でそれを掴むために努力するしかない。
 努力して、沢村が自分の言った未来を実現出来るのか。その答えは一年後の今日にははっきりしているはずだ。沢村が青道高校を卒業するその日には。


「ほどほどに期待しといてやるからよ」


 期待していないわけじゃない。今日卒業する三年生も含めて、誰よりも沢村のことを見てきた自信がある。一年生の時から――いや、中学生だったあの時から。
 本音を言えば、沢村が自分と野球をする為に同じ学校を選ぶことも嬉しい。一年でどれだけ成長するのかも楽しみだ。口ではああ言ったが、むしろ御幸は誰よりも沢村に期待している。沢村ならきっと自分の力でここに来ると、御幸はそう信じている。

 それらを声には出さなかったけれど、どうやらさっきのボールでそれは本人にも伝わったらしい。沢村は手に取ったボールを見て笑みを浮かべると、そのボールをこちらに向けて大きく口を開く。


「俺の球を受けてみたいって、絶対言わせてやるからな!」


 球を受けろ、球を受けてみたくはないか。そんな台詞を何度聞いたかなんて覚えてない。
 けど、一番初めに球を受けたいって言ったのは俺なんだけどなと三年前の記憶を思い返す。そこまでコイツが覚えているかは分からないけれど、それは沢村次第といったところか。

 全く、一緒にいて飽きないなと思いながら口元には微笑みが浮かぶ。どちらともなく笑い合って、もうこれ以上言葉なんて要らないだろうことはお互いに分かっていた。


「じゃあな」


 別れの言葉を言って今度こそ背を向ける。
 次に会うのは一年後だろうか。一年で沢村がどれほどの成長を見せてくれるのか、楽しみが一つ増えたなと思いながら空を見上げる。沢村はグラウンドに向かって走っている頃だろう。


「…………バカだな」


 沢村と別れた後で一人呟く。卒業していく人間を追い掛けるなんてやめておけば良いものを。人がどんな感情を抱いているかも知らないクセに……。


(いや、本当にバカなのは俺か)


 いつからか生まれたこの感情をずっと隠すつもりでいた。お互いの為にもそれが一番だと思った。大学に進学すれば会う機会も減るだろうし、会わなければこれ以上気持ちが膨らむこともない。だからこれは全部ここに置いていく。好きという気持ちを表に出しては駄目だと最後まで押し込んだ。
 それなのに、アイツは人の心にどんどん入ってくる。なんとか気持ちを押し込めようとしていたこっちの気など知らず、曇り気のない笑顔を浮かべるんだ。


(俺もちゃんとケジメをつけねーとな)


 この先もずっと、隠していくつもりだった。極力会わないように過ごして、もし会ったとしても適当にどうにかなるだろうと思っていたけれどやめた。
 相手はピッチャー。そして、御幸はキャッチャーだ。バッテリーが意思疎通をするのは言葉だけではない。そのボール一つで投手の状態も、投手の気持ちだって分かる。そう、キャッチボール一つで分かってしまうのだ。


(覚悟しておけよ、沢村)


 もう逃げるのは止めにする。ケジメをつけるのは大事なことらしいから、今更後悔するなよと心の中で沢村に向けて呟いた。
 さて、それもこれも全部。一年後、再び出会ったその時に話すとしよう。

 三年前、全てが始まったこの場所で。










fin