キスがしたい
- 御沢編 -
「御幸先輩」
大学に行って、授業を受けて、野球をして。そんな日常の中で名前を呼ばれることなんて一日に何度もある。
いつも通りに聞き返した先の言葉は予想していなかったけれど、それでも日常にある何てことのないことだろうと漠然と思っていた。
「キスがしたいです」
だからまさか、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「…………は?」
想定外の発言に思考が止まる。
いきなりどうしたんだ。疑問はそのまま表情に出ていたことだろう。むっとした表情で沢村がもう一度言った。
「だから、キスがしたいんです!」
先程よりも少しばかり大きな声で言われた言葉の意味はまあ、分かる。突然ではあるが自分たちが恋人という間柄であることを踏まえればおかしな発言というわけでもない。
ただ、恋人ではあるものの所謂恋人らしいことをあまりしたことがない自分たちの関係を考えるとやはり、疑問の方が先にきてしまう。
「……何でまた急に」
「恋人ならキスのひとつやふたつ、してもおかしくないでしょう」
こちらの疑問に答えてはくれるが求めている答えは返ってこない。そうじゃなくて、と必死で頭を回転させる。
「今までそんなこと言ってこなかっただろ」
「言わないとしないんスか?」
「……雰囲気とかそういうの、あるだろ」
「じゃあ今がそういう雰囲気です」
どこがだよ、と心の中で突っ込む。経験はないからなんとなくの想像でしかないが、少なくとも今は違うだろう。
しかし、それならいつがその時なのか。
考えてはみたが答えを出すのはなかなか難しい。そういう意味ではしたい時がその時なのだろうか。この手の話に正解はないし、結局は自分たち次第なのかもしれないけれど。
「……やっぱり、嫌なんスか?」
続けられた一言に顔を上げる。僅かに俯いた沢村の表情は見えない。だけど、なんとなく話が見えてきた。
小さく息を吐く。今までそういうことをしてこなかったのは嫌だからというわけではない。
そういった雰囲気にならなかったというのもあるが、好きだからこそ大事にしたかった。だが、それで不安にさせたのなら意味がない。
「したい、って言ったらしていいの?」
えっ、と琥珀の瞳がこちらを映した瞬間。その唇を塞いだ。
言葉にしなければ伝わらないこともある。言わなかった俺も悪いのだろう。もっとも、そこはお互いさまだとは思うのだが。
「キスがしたい」
先程言われた言葉を今度はこちらが口にする。ぽかんとした表情でこちらを見ていた沢村の顔がみるみるうちに赤くなった。
「……はあ!?」
「恋人ならキスのひとつやふたつ、普通だろ?」
そしてまたも沢村自身が言ったことを繰り返す。いくらなんでもさっきの今で忘れているなんてことはないだろう。
「な、なんで急に」
「急だったのはお前だろ? けどまあ、お陰でお前の気持ちが分かってよかったか」
「疑ってたんスか……!?」
「そうじゃなくて、お前もそういうことに興味あったんだと思って」
「そんなの当たり前でしょう!」
はっきりと言い切られて目を丸くする。
好きなんだから。頬を赤く染めたまま、真っ直ぐな瞳で沢村は言う。
「アンタは違うのかよ」
そういうことをしたいと思っていなかったのか、と。聞かれてつい、笑ってしまった。
何で笑うのかと言いたげな視線を向けられるがこればかりは仕方ないだろう。悪いと謝ってその訳を答える。
「俺もお前と同じ。ただ、別に今じゃなくてもいいとも思ってた」
「え?」
「この先もずっと、お前と一緒にいるつもりだったから」
好きだから、そういうことも考えたことがないわけではない。それこそキスだってしたいと思ってた。
だけど同時に焦らなくていいとも思っていた。今は一緒にいられるだけでも幸せだから、この時間もお前のことも大切にしたいと。
「……アンタ、すごく俺のこと好きですね!?」
言われてきょとんとする。そしてまた、自然と頬が緩む。
「お前こそ。キスしたいくらい好きなんだろ?」
「それはアンタが……!」
「うん、悪かったよ」
素直に謝ると言葉に詰まった沢村は「もういいです」と顔を逸らした。
アンタの気持ちはよく分かりました、と話す恋人の気持ちを俺もまた今回のことでよく分かった。やっぱりお互いさまだったんだろう。
「それで、キスはしていいの?」
まだ答えをもらっていなかったそれをもう一度尋ねる。わざわざ聞かなくても答えは分かっているようなものだけれど、それでもちゃんと言葉が欲しくなった。
多分、そんなこちらの意図が伝わっていたのだろう。
「したいなら、すればいいじゃないっスか」
返ってきた答えにぱちりと瞬く。それから思わず笑みを零した。どうやら忘れられているかと思っていた質問も恋人はちゃんと覚えていたらしい。
やっぱり好きだなと思うのは何度目だろう。きっとこの先も何度だって同じことを思うのだろう。それほどまでに俺の心は目の前の相手に掴まれている。
「沢村」
呼びかければすぐに琥珀の双眸がこちらを向いた。その目を見て、否定こそしていないが伝えていなかった言葉を口にする。
「好きだ」
たった三文字。けれどその三文字に込めた想いを受け取った恋人は、頬に微かな朱を乗せながらふんわりと笑みを浮かべた。
「俺も、御幸先輩が好きです」
同じ想いを返してくれる恋人にそっと手を伸ばすと、琥珀色の瞳が瞼の奥に消える。
間もなくして、ふたつの熱が触れ合った。
fin