- 快青編 side:A -




「…………子、青子!」


 遠くで、声が聞こえる。自分を呼ぶ、耳に馴染む声。
 同時に体が揺れる。ゆらゆらと揺らされていくうちにゆっくりと意識が浮上する。それに合わせて瞼を持ち上げた先にはよく知った顔があった。


「かい、と?」


 どこか焦った様子でこちらを覗き込む幼馴染みの名前を口にすると快斗はほっと息を吐いた。どうやら青子を起こしたのはこの幼馴染みだったらしい。


「大丈夫か? 頭がぼーっとするとかどこかに痛みがあるとかねーか?」

「え? 大丈夫だと思うけど」


 どうしてそんなことを聞くのだろう。そう思いながらも答えると快斗は安心したような表情を見せた。急にどうしたというのだろうか。
 ぱちぱちと瞬きをしてきょろきょろと辺りを見回す。そこで初めて、青子はここが自分の知らない場所であることに気がついた。目に映るのは白一色。窓もなければ扉もない、家具も何もない部屋に青子は快斗と二人でいた。


「ここ、どこ……?」


 さっきまで、という表現が正しいかは分からないが青子は今日もいつものように学校に行っていた。もちろん、この幼馴染みもそうだ。
 登校して、授業を受けて、恵子とお弁当を食べて、また授業。最後にHRに出て一日が終了した、はずだ。そのあとは普通に下校をしたと思うのだが、そのあたりの記憶は曖昧だった。でも、少なくともこんな場所に足を運んだ覚えはない。


「さあな。オレも気づいたらここにいた」

「快斗も?」

「ああ。誰が何のつもりでこんなことをしたのかも分からねぇが、普通じゃないのは確かだな」


 オレたちが入ってきたはずの扉もないのはおかしいと快斗は言った。それならどうやってここに入ったのか。
 もし自分たちが入ったあとで扉を隠したのだとしたら外側から、何らかの仕掛けを使って隠したことになる。閉じ込めるのなら鍵を使えばいいのにわざわざそんなことをした理由は何なのか。そのような仕掛けをつくるより厳重な鍵を用意する方がよっぽど重要ではないだろうか。


「壁も床もおかしなところはなさそうだし、残るは天井だが」


 立ち上がった快斗がぺたぺたと壁を調べる。それから視線を上げたところで追いかけるように青子も天井を見た。目に映った天井も壁や床と同じく白色をしていた。


「何かありそう……?」

「いや、ここから見た限りだと何もなさそうだな」


 つなぎ目のようなものもなさそうだと思った青子と同じく、快斗もおかしな点は見つけられなかったようだ。ということは。


「それじゃあ、青子たちどうやってここから……!」

「心配すんな。どんなマジックにもタネも仕掛けもあるんだぜ?」


 そう言った瞬間、ポンっと彼の手にはバラの花が握られていた。
 にっと口角を持ち上げた幼馴染を見て青子の頬も徐々に緩む。大丈夫。幼馴染が一言そう口にしただけで本当にそう思える。差し出されたバラを受け取った青子の心はじんわりとあたたかくなる。


「入る方法があるなら出る方法だって必ずある。だから」


 不自然に快斗が言葉を区切る。そのことに首を傾げながら彼と同じ方を見る。


「え……」


 ここはキスをしないと出られない部屋です。
 二人の視線の先、空中に光のような文字が浮かび上がっていた。一体どういう原理でこの文字が現れたのかも不思議だが、それ以上にその文字の意味に困惑する。

 キス、というのはあのキスのことだろう。口づけ、接吻ともいう。愛情表現のひとつだ。
 そのキスを青子と快斗がする。そうしなければこの部屋から出られないとあの文字は示している。自分たちは幼馴染みであって恋人ではない。それなのにどうしてキスをしなければいけないのか。そもそもどうしてキスなのか。ぐるぐると疑問が頭の中を回る。

 本当にキスをしなければここからは出られないのだろうか。そうだとしたら青子は快斗と、キスをすることになるのだろうか。
 快斗と、とちらりと横を見たら目が合って反射的に顔を逸らしてしまう。どうしよう。顔が熱い。


「あー……その、何だ」


 あの文字が現れてどれくらいが経っただろうか。静かな部屋に聞き慣れた声が響く。心臓はドキドキと五月蝿いくらいに音を立てていた。


「…………快斗は、したことある?」


 再び落ちた沈黙を今度は青子が破る。何を、なんてこの状況で説明する必要はないだろう。


「……オメーはどうなんだよ」

「青子は、ないけど」

「オレもねーよ」


 青子が答えるとやや間を置いて快斗も同じ答えを返した。つまり、お互いファーストキスらしい。でもそれをこんな形で迎えることになるなんて。


「……嫌か?」


 快斗が尋ねる。その声はどことなく緊張しているように聞こえた。


「嫌、じゃないけど」

「けど?」

「……快斗はいいの?」


 初めてが、青子で。
 そう言ってうかがい見た快斗の顔もほんのりと赤くなっている気がした。そのことにトクンとまた心臓が音を立てた。


「オメーこそいいのかよ」


 相手がオレで。暗に言われた言葉に青子は意を決して頷く。


「……いいよ、快斗なら」


 だって、青子は快斗のことが好きだから。
 そう思いながら顔を上げるとかちりと目が合った。今度は目を逸らさず、そのまま見つめる。鼓動がいつもより早くテンポを刻む。
 快斗の手がそっと、頬に触れる。それを合図に青子は目を閉じた。そして、唇に柔らかな熱が落ちる。
 時間にしたらほんの一瞬だったのかもしれない。けれど再び目を開けるまでの時間はすごく長く感じた。カチ、と何かの音がしたのは間もなくのことだった。


「快斗、あれ……!」


 青子の声に反応するように快斗が視線を動かす。ついさっきまで文字が浮かび上がっていた場所に光が集まり、出口のようになっていた。


「きっとあそこから出られるんだよ! 行こう、快斗!」


 この不思議な空間において原理を考えることは無駄なのだろう。
 とにかくここから出られる。そう思って立ち上がった青子は幼馴染みの手を引こうとした。


「快斗?」


 しかし、逆にその手を取られた青子は首を傾げる。どうしたんだろう。そう思ったのも束の間のことだった。


「言っておくが、誰にでもするワケじゃねーからな」


 何を、なんてやっぱりこの場で考えられることはひとつしかなくて。えっ、と驚きで顔が赤くなる青子の目の前にいる幼馴染みの顔も赤くなっていて。
 ぐいっと引かれるまま出口らしき場所を潜れば、そこには見慣れた景色が広がっていた。


「快斗、それって……!」


 どういう意味、と問いかけた青子を幼馴染みが振り返る。夕日を背に口を開いた快斗の言葉に心臓が一際高く音を立てた。










fin