- 快青編 side:K -




 気がついた時、目の前に広がっていたのは全く知らない景色だった。
 ここはどこなのか、そもそもどうして自分はこんな場所にいるのか。疑問が次々と浮かぶ中、視線を動かした先で見つけた見慣れた姿にどくんと心臓が跳ねた。


「青子!」


 横たわる体に慌てて駆け寄る。
 何で。どうして。増え続ける疑問を抱えながら触れた体はあたたかかった。呼吸もちゃんとある。そのことに最悪の可能性はなくなったが、まだ油断はできない。


「おい青子、青子!」


 呼びかけながら眠っていると思われる体を静かに揺らす。やがて「うーん……」と小さな声がその口から漏れた。ゆっくりと瞼が持ち上がり、間もなくしてその瞳は快斗を映した。


「かい、と?」


 ぱちぱちと瞬きをした後に青子は快斗の名前を呼んだ。無事に目を覚ましたことにほっと息を吐く。


「大丈夫か? 頭がぼーっとするとかどこかに痛みがあるとかねーか?」

「え? 大丈夫だと思うけど」


 きょとんとしながら青子は答えた。おそらくまだ状況が飲み込めていないのだろう。いきなりどうしたんだろうと思っていそうな青子だが本人の申告通り、見たところ異常はなさそうだった。快斗自身も今のところ体に異常はない。お互い眠らされていただけだろうか。
 誰が何の目的でそんなことをしたのか。心当たりがない、とはいえない。自分だけではなく青子まで巻き込まれた理由だって考えられないわけじゃなかった。


「ここ、どこ……?」


 きょろきょろと部屋を見回しながら呟かれた言葉に反応するように快斗ももう一度部屋を見回した。見覚えのないこの白いだけの部屋には家具の一つもなければドアや窓といった出入り口さえなかった。自分たちがこの場所にいる以上、そんなことはまずあり得ない。


「さあな。オレも気づいたらここにいた」

「快斗も?」

「ああ。誰が何のつもりでこんなことをしたのかも分からねぇが、普通じゃないのは確かだな。オレたちが入ってきたはずの扉もないのはおかしい」


 ここへ運び込んだあとで出入り口を隠したとでもいうのだろうか。仮にそうだとして隠した理由は閉じ込めるためだろうが、自分たちを閉じ込める目的は何だ。
 分からないことだらけだが、快斗にも青子にもこんなおかしな場所に留まる理由はない。一先ず脱出するための方法を探そうと快斗は立ち上がった。


「壁も床もおかしなところはなさそうだし、残るは天井だが」


 部屋に何もないのだから調べられるのはこの部屋そのものだけだ。軽く壁と床を調べてから天井を見上げる。そこにあるのも白一色。特にこれといったものは見当らない。


「何かありそう……?」

「いや、ここから見た限りだと何もなさそうだな」


 何もないわけがないけれど、目の届くところに答えはないらしい。スマホも手元にないため外部との連絡もとれない。もしあったとしても安易に連絡なんてとれなかっただろうが、とにかく情報が少なすぎる。


「それじゃあ、青子たちどうやってここから……!」


 何者かによって閉じ込められた上に脱出手段もないという状況を理解してさーっと顔を青くした幼馴染みを安心させるように快斗は小さく笑みを浮かべた。


「心配すんな。どんなマジックにもタネも仕掛けもあるんだぜ?」


 大半の仕込み道具がなくなっている中で唯一、いつも仕込んでいるそれを見つけた快斗はポンッという音とともに手の中にバラの花を出現させた。
 昔から何度も見せているマジック。けれど見る度に青子は笑顔になった。
 今回も不安そうだった表情がバラの花を目にした瞬間、そっと和らいだ。それを見た快斗の心もほんのりとあたたかくなる。きっと、彼女は自分の笑顔にどれほどの効果があるかなんて気づいていないのだろう。


「入る方法があるなら出る方法だって必ずある」


 突然このような状況に陥って焦りがないとはいわない。情報が殆どないため脱出も容易ではないだろう。
 それでも、絶対に青子をここから無事に連れ帰る。そのことは快斗の中で決定事項だった。


「だから」


 オレを信じろ。
 そう告げようとした時、どこからともなく浮かび上がった文字に快斗の思考は奪われた。

 ここはキスをしないと出られない部屋です。

 空中に現れた光が文字になる。あまりにも非現実的な光景の原理は分からない。もしかしたらそれは人の理解を超えた何かなのかもしれない。
 途中で言葉を切った快斗を不思議に思ったのだろう。青子は快斗の視線を追いかけて、その目を開いた。


「え……」


 ぽつり、零れた声。驚いたのはきっと、空中に文字が現れたことに対してではない。その文章が予想もしていなかった、考えたことすらないようなことを並べていたせいだろう。
 そちらの原理についてもさっぱり分からない。キスをしたらここから出られるとはどういうことなのか。誰が何のためにそれを望んでいるのかも理解できない。見知らぬ部屋で目を覚ましたことで考えた、自分たちが狙われた可能性もそれとは結びつかなかった。

 人より回転の速い頭で考えても何一つ答えが出ない。この部屋で目を覚ましてから一番困惑しているかもしれない。
 同じく混乱しているだろう幼馴染みへと視線を向けたら目が合った。瞬間、ばっと逸らされた顔が赤くなっていることに気がついた。意識するな、というのは到底無理な話だった。


「あー……その、何だ」


 キスというのは世間一般的に愛情表現の手段だ。恋人ではない、ただの幼馴染みがすることではない。いや、幼馴染みの女の子に恋心を抱いている快斗からすれば興味はある。
 けれど、じゃあしてみるかとはならない。それがここを出る手段だとしても簡単に実行できるほど自分たちは子供ではなくなっていた。もしくは、大人だったら簡単なことだったのかもしれない。自分たちはそのどちらでもなかった。


「…………快斗は、したことある?」


 言葉を探している間に青子が言った。何を、なんて考えるまでもない。
 したいと思ったことは、ある。もちろん好きな女の子に対して。その子以外の子とする予定もない。


「……オメーはどうなんだよ」


 高校生になっても子供っぽい青子に経験なんてないだろう。他人からの好意に気づかずに過ごしていることは誰よりも近くにいる快斗が一番知っている。


「青子は、ないけど」

「オレもねーよ」


 予想通りの答えを聞いて快斗も先の質問に答える。多分、快斗の答えも青子の予想通りだったことだろう。快斗が青子のことを知っているように、青子もまた快斗のことを知っている。幼馴染みなのだから当然だ。
 しかし、その幼馴染みとキスをすることを青子は考えたことがないだろう。青子にとっての快斗は幼馴染み以外の何物でもない。


「……嫌か?」


 今ここで、キスをするべきか考えるのは他に脱出方法がないからだ。それはただの手段に過ぎず、自分たちの気持ちとは関係ない。
 でも全くの無関係かといえば、それも違う。事故のようなものだとしても相手は昔から気になっている女の子なのだ。


「嫌、じゃないけど」

「けど?」

「……快斗はいいの?」


 初めてが、青子で。
 向けられた瞳が言おうとしていることを理解する。それはむしろこちらのセリフだった。


「オメーこそいいのかよ」


 相手がオレで。そう思ったままに問いかける。
 嫌だと言われたら他の脱出方法を考える。いいと言われたら、どうなるのだろうか。本当にキスをするのだろうか。幼馴染みとして、好きな女の子と、ここから出るために。


「……いいよ、快斗なら」


 聞こえてきた声に僅かに目を開く。今のところ脱出のための手段がそれしかないとしても本当にいいのかと、思ったところで顔を上げた青子の表情を見てトクンと心臓が大きく音を立てた。
 鈍感な幼馴染みはこれまでずっと、快斗の気持ちには気づいていなかった。快斗もはっきりとした言葉で伝えたことはなかったが、そもそも彼女は恋愛というものに疎かった。恋なんてまだまだ先。恋愛とは縁遠いと思っていた彼女の瞳に宿った色に、気づけないほど快斗は鈍くない。

 いつ、彼女は自分の中にある恋心に気がついていたのだろうか。

 このような状況になって初めて気づいたのか、それよりも前から自覚していたのか。自覚をしたのは快斗の方が先だったはずだが、まさかこんなことがきっかけになるなんて思いもしなかった。
 ドキドキと心臓が音を鳴らす。そっと手を持ち上げて頬に触れると青子は静かに目を閉じた。それを見て快斗も瞼を下ろす。触れ合ったのは、ほんの一瞬。


「快斗、あれ……!」


 熱が混ざり合った時、カチという音が耳に届いた。
 それぞれの瞳にお互いを映したあと、何かに気がついた青子が声を上げた。その視線の先で文字だったものが大きな光となって四角い出口のような形になった。やっぱり原理は分からない。これは考えるだけ無駄なことだ。


「きっとあそこから出られるんだよ! 行こう、快斗!」


 誰が何のためにこんなことをしたのかは分からない。そこに誰かの意志が介入しているのかさえ、この非現実的な空間では定かとはいえない。
 それでも、一つだけ確かなことがある。


「快斗?」


 早く出ようと手を引こうとした幼馴染みの手を掴む。首を傾げてこちらを見つめる幼馴染みに、はっきりさせなければいけないことができた。
 脱出のための手段だったから。
 この期に及んでそんな勘違いをされたら堪ったものではない。幼馴染みが相手なら簡単にできるわけでもないし、そのためなら誰にでもすると思われるのも心外だ。


「言っておくが、誰にでもするワケじゃねーからな」


 好きな女の子だから、キスをしたのだ。
 その言葉にみるみる顔を赤くする青子の手を引きながら出口らしき場所へ進む。不可思議な出口が消えないうちに飛び出したそこには見慣れた景色が広がっていた。


「快斗、それって……!」


 無事に戻ってこれたことを確認したところで後ろから声がかかる。どういう意味、と問いかける幼馴染みを振り返った快斗は告げた。
 それは、一つの恋が実を結んだ瞬間。










fin