キスをしないと出られない部屋に閉じ込められた
- Kコ編 -
それは突然のことだった。
意識が覚醒すると同時にがばっと勢いよく体を起こす。続いて快斗が真っ先に確認したのは小さな探偵の姿だった。
おい、と声を掛けるより早く動いた細い腕。ひんやりした床に手をついた少年のブルーサファイアは程なくして怪盗を真っ直ぐに捉えた。
「……どうやら無事みたいだな」
「ああ。この状況を無事といえるのなら、の話だが」
こちらの安全を確認するなり鋭い瞳が部屋の中を行き来する。状況把握に努めはじめた探偵に倣って快斗もこの不可思議な部屋の観察をはじめる。
何もない。
真っ先に浮かぶ感想はその一言に尽きる。家具をはじめとした物もないがドアや窓といった出入り口さえ存在しない。部屋を歩いてみても壁に隠し扉のようなものは見当たらなかった。床にも仕掛けらしき仕掛けはない。
――となると、顔を上げた快斗は天井をじっと見つめた。
窓は当然のようにないが、脱出口になりそうな部分もぱっと見た限りでは見つけられない。薄々感じてはいたけれど、やはりここは。
「おい」
年相応の子供らしさなど微塵も感じられない声が呼ぶ。自分たちしかいないこの空間で猫を被る必要はないとはいえ、欠片も隠す気がないよなと思いながら快斗は視線を落とした。
「オメー、こういうの得意だろ」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」
いくら世紀の大怪盗といえど、鍵のない扉の鍵は開けようがない。だがそれは向こうにしても同じようで、これは密室云々の話ではないだろうと眉を潜めた探偵が零す。
「そもそも、どうしてこんなことになったんだよ」
「考えられる原因はこれくらいだな」
言いながら取り出した今日の獲物に今は特別な変化は見られない。
しかし、ここで目を覚ます前。外で宝石を月へかざした時に一瞬だけ怪しい輝きを放ったように見えたのは現状を考えると気のせいではなかったのだろう。
やばいと本能的に悟って声を上げた時には既に遅く、結果的に自分を追いかけてきたコナンを巻き込んで今に至る。仕事の後に厄介事が起こることは珍しくもないが、流石にこんな謎の現象は今回が初めてだ。もっとも、こんなことが頻繁に起こっても困るけれど。
「いわくつきって話はなかったはずだが、とりあえずこいつはお前に返しとくぜ」
目当ての宝石じゃなかったしな、と軽く投げ渡したそれはすっぽりと小さな手に収まった。受け取った宝石をコナンも確認するが、おかしなところはないと判断したようで間もなくポケットへとしまわれた。
「……それで、これからどうするつもりだ?」
「そうなんだよなぁ。ただの密室ってワケでもなさそーだし」
普通、密室といえど自分たちが入ってきたはずの何らかの入口はある。その上で中からは開けられない仕掛けが働いているのならまだ分かるのだ。だけどここにはそれが見当たらない。
要するに、どこから入ったのかが分からない。それこそ魔法でもなければ――と考えたところで快斗の頭には一人の女の姿が浮かぶ。
「……いやいや、流石にねぇよな」
彼女にとって快斗とコナンの二人を密室に閉じ込めることにメリットはないだろう。快斗だけならまだしも、と思ったがコナンが巻き込まれただけだとすれば可能性はないとはいえないかもしれない。
そう思い掛けたものの何かと快斗を気に掛けている彼女のことだ。やっぱり怪盗と探偵を同じ空間に閉じ込めるようなことはしないだろうという結論に辿り着く。
「まあこのままじっとしていても埒が明かねぇし、もう一度この部屋を調べて――」
ポン、と小さな爆発音が耳に入る。
そして次の瞬間、さっきまでは何もなかったその場所にひらりと紙が舞い落ちた。
「………………」
突如現れた一枚の紙に二人の視線は釘付けになる。
会話は不自然に途切れたまま、たっぷりと十秒近くは目の前の紙を見つめていただろうか。長い沈黙を破ったのは、ゆっくりと視線の矛先を自分に向けられた快斗だった。
「……言っとくけど、オレじゃねぇからな」
「…………わーってるよ」
一応確認しただけだとコナンは紙を拾いに向かう。この状況で疑われる理由はないはずだが、それよりもと快斗は今の不可思議な現象について頭を働かせる。
これがマジックなら、タネも仕掛けもあるはずだ。だがこの部屋は一度自分たちが隅々まで調べている。二人してそれに気付かなかった、という可能性もゼロとはいえない。それでも限りなく低い確率だろう。
けれどタネや仕掛けがないのならこんなことはまず有り得ない。この密室と同じく本来ならば有り得ないことが起こっていることになる。
非現実的な現象――根拠がなくてもこれが現実である以上はこれらを受け入れるしかない。
そうなってくると普通の脱出方法は考えるだけ無駄かもしれない。でもこの状況下で突然現れた紙にはきっと何かしらの意味が。
「名探偵?」
あるのではないか、と思ったところで快斗はいつまで経ってもコナンが戻ってこないことに気がついた。顔を上げた先でコナンは例の紙を見ているようだった。
紙に暗号でも書かれていたのだろうか。
考えられる可能性を頭に浮かべながら快斗はコナンの元へ近づいた。そうして何の気なしに後ろから彼の手元を覗いた。
『ここはキスをしなければ出られない部屋です』
たった一行。暗号にもなっていない文章は快斗の頭にあっさりと入ってきた。だがそれを見た快斗の思考は一瞬停止する。
――キス。
もちろん、言葉の意味は知っている。日本語で表すのなら接吻、もしくは口付け。愛情表現の一つとされる行為だ。
キスはする場所にもそれぞれ意味がある、というがそんなことはどうでもいい。
そうではなくて、と頭を振った快斗は落ち着けと深呼吸をした後にポーカーフェイスを自分に言い聞かせる。肝心なのはそこではないのだ。
「なあ、名探偵……」
どうするかと尋ねようとした言葉はそれ以上続かなかった。紙から視線を外した快斗の目に映ったのは、書かれていた内容に僅かに頬を赤く染めながらも真剣に紙を見て何やら思案している様子のコナンの姿。
どうする、なんて聞くまでもない。ここから脱出できる唯一の可能性を試さない理由がないのだ。どんなに信じ難いことでも、脱出を諦めるという選択肢が存在しないのならばやるべきことは一つだ。
だったら。
小さく息を吐いた快斗はバサッと白いマントを翻すなり一瞬のうちに自身の纏う空気を変えた。この変化に気が付かないほど彼は鈍くない。
「名探偵」
ばっと顔を上げたコナンの目に白い怪盗が映る。それを確認して快斗はふっと口角を持ち上げた。
それから滑らかな動作で膝を折った怪盗は空いていた探偵の左手をそっと手に取った。そして。
「おまっ……!?」
ちゅ、と。微かな音とともに唇が左手の指先に触れる。
同時にカチ、とまたもどこからともなく聞こえた音を快斗はしっかりと拾っていた。ちらりと音のした方を見れば、予想通りのものがそこには現れている。成功だ。
「…………お前なぁ」
はあ、と盛大に溜め息を吐いたコナンに快斗は笑う。
「脱出できるんだからいいだろ」
「そりゃあそうだけど」
「まあまあ、事故みたいなモンだろ。ほら、こういうのはノーカンっていうじゃん?」
唇にしたわけでもないのだから気にすることじゃないと話す快斗にもう一度コナンは大きな溜め息を吐く。さっきよりも顔が赤く見えるのはキスのせいだろう。
キス一つで頭を悩ませる彼も自分も、どんなに世間一般的な高校生から掛け離れた生活をしていようとも結局は子供なのだろう。脱出のためとはいえ、全く意識しないなんて無理な話だ。それも相手が――。
(あれ?)
相手がお前なら余計に、って何なんだ。
頭に浮かんだそれをそのまま頭の隅に追いやった快斗は先程現れた扉を指して口を開く。
「それよりさっさと出ようぜ。あの扉がもう消えないとも限らねぇしな」
「ああ、そうだな」
ポーカーフェイスを言い聞かせて潜った扉の先には真ん丸の月が夜空を照らしていた。そこはあの不可思議な現象に巻き込まれる前にいたビルの上だった。
特に変わったものは見られないその場所に出たところで今潜ったはずの扉はいつの間にか消えていた。もはや快斗もコナンも一連の超常現象に説明をつける気は失くしていたが、無事に戻って来られたのだからよしということにした。
こうして、怪盗と探偵の一夜の不可思議な出来事は幕を閉じた。
fin