キスをしないと出られない部屋に閉じ込められた
- 快新編 -
怪盗キッドを引退して一年と数ヶ月。東都大学へと進学を果たした快斗は、初対面のようでそうではない友人たちと過ごす日々を送っていた。
あの頃のようなスリルを味わうことはなくなったが、近くにいる探偵たちから事件という単語を聞く機会は少なくない。それでも一般人の快斗は彼らを送り出すだけ、せいぜい代返を頼まれる程度だ。事件そのものに深入りすることもなければ、巻き込まれることもなかったのだが。
「工藤、大丈夫か?」
何故またこんなことに巻き込まれてしまったのか。前触れもなく突如自分たちを強い光が包んだのは一瞬。そんなものへの対処法など怪盗キッドにも分からない。
平穏な大学ライフを送っていたというのに。しかも、よりにもよってこれかよと快斗は内心で大きな溜め息を吐いた。
「ああ。オメーこそどこも怪我なんてしてねえよな」
「オレも全然。つーかこれ、何かの事件か?」
この空間に見覚えがあるのは怪盗キッド。黒羽快斗にとっては謎の空間でしかない。けれどそこに工藤新一がいるとなれば、事件の可能性が頭を過るのはごく自然なことだ。
相変わらず何もない部屋を軽く見回しながら問い掛けると「さあな」と新一はぶっきらぼうに答えた。さあなって、と聞き返そうとした快斗が横を見ると、ばちっと青の双眸にぶつかった。
「何かの事件、か。そっちに心当たりはないのかよ」
「……あるわけねーだろ。オレはお前等とは違うんだから」
「そうだな」
お前等のような探偵とは違う、といった意味合いの言葉を彼はそのままの意味で受け取ったのか。すんなりと相槌を返されたことが逆に引っ掛かる。
「じゃあ何か脱出方法とかねぇのか。ほら、脱出マジックとかあるだろ」
「マジックには種も仕掛けもあるんだよ。それにドアなら一応あるじゃねーか」
この状況下でとても鍵が開いているとは思えないドアを指し示す。普段は人のマジックのタネを見破ろうとしているヤツが何を言っているのか。疑問は募っていくが、その答えは分かりきっている。
大学で知り合ったこの友人と初めて出会ったのは、高校生の頃。もちろん、それは黒羽快斗が工藤新一に出会ったわけではない。だが、自分たちが出会ったのは最近でもなければ、このような謎の空間に閉じ込められるのも初めてではなかった。
「工藤こそ、密室のトリックを解き明かしたこともあるんじゃねえの」
「トリックにも仕掛けはあるだろ」
前にも似たようなやりとりをした覚えはあるが、それも快斗と新一の間で行われたものではない。あれは怪盗キッドとキッドキラーと呼ばれていた少年――江戸川コナンの間で行われたものだ。
しかし、怪盗キッドは快斗であり、江戸川コナンの正体は新一だ。
大学で出会ってからお互いそのことに触れたことはないとはいえ、快斗が知っているそれをあの工藤新一が気付いていないとも思わない。現に、新一の質問は普通の大学生にするものとは思えないものになっている。
「とりあえず、この部屋を調べるか」
「そうだ――」
な、と続くはずの言葉が途切れたのはポンッという音が突然部屋の中で鳴ったからだ。聞き覚えのある音とともに現れたのもまた、見覚えのある紙切れ一枚。
「…………」
「…………」
沈黙が重い。だけど、ここで何らかの手がかりとなりそうな紙を取りにいかなかったら、それはもう答えのようなものだ。
「……言っておくけど、オレじゃねーから」
「そうかよ」
「……なあ、工藤」
「何だよ」
「手がかり、確認しなくていいのか?」
今、この状況では唯一の手がかりだと思われるそれ。だけど、新一は全く調べに行こうとしない。それは快斗にしても同じことだが、正直あそこに書かれていることは予想ができるどころかほぼ確信を持って言い切れる。
「気になるならオメーが調べてくればいいだろ」
「それはそうだけど」
出られなくてもいいのか、なんて聞くだけ野暮だろう。
はあ、と溜め息を吐いた快斗は色々なものを諦めることにした。本当にどうして、自分たちはこの謎の空間に三回も閉じ込められる羽目になったのか。二度あることは三度あるということわざがあるが、そんなことは望んでいないと思いながら快斗は徐に口を開いた。
「ここから出られないと困るのは名探偵の方だろ?」
「オメーだって週末にマジックバーでショーをやるんだろうが」
「まあそうなんだけど」
「つーか、オメーといると何でこんなことに巻き込まれるんだよ」
「その言葉はそっくりそのままお返しするぜ」
こっちは怪盗家業から足を洗っているのだ。以前盗んだことのある宝石もいわくつきという話は聞いてはいなかったが、今回は本当に何も持っていない。原因があるとすれば快斗ではなく新一だと思うのだが、新一自身はそう思ってはいないらしい。
しかし、今ここで重要なのは原因を特定することよりも脱出することだ。
四度目があっても困るけれど、この不可思議な現象の原因を特定できるとは考え難い。できるのなら自分たちはとっくに原因を見つけている。
「それより、脱出するんだろ?」
「当たり前だ」
念のために確認してから仕方なく例の紙に書かれていることも確かめにいく。そこに書かれていたのは案の定『ここはキスをしなければ出られない部屋です』という一文だ。新一もそれは分かっているだろうが、拾った紙を渡すとちらっと見てすぐに横へ置いた。
「……で、どうすんだよ」
「どうって、試すんじゃねーの?」
「だからやるならさっさとしろって言ってんだよ」
いや言ってねーよと思いながらも快斗は新一を見る。三回目になっても慣れないのはお互い様、というよりもこんなことに慣れたくはない。
「一応聞くけど」
「聞かなくていい」
またオレからするのか。今回はどこにするのか。
聞きたいことは一つではなかったのだが、尋ねるよりも先に遮られた。でも、新一の頬がほんのりと赤く染まっているように見えるのは気のせいではない。脱出のための事故、それ以上の理由はなかったはずなのだが。
「……工藤、本当に聞かなくていいのか?」
一度目は、小学生だった探偵の左手に。二度目も結局は高校生探偵の左手に唇を寄せた。だけど、一度目と二度目が同じものだったかといえば、答えは否だ。
不可抗力の事故のようなものでキスの一つに数えるようなものではない。そう言ったのは初めてこの不思議な空間に訪れた時の快斗だ。でも、人の心はそう単純なものではなかった。
本当にどうして、よりにもよって、巻き込まれたのがこれなのか。もっと別の事件の方がよかったなんてことは全く思わないが。
「おい」
呼ばれて視線を向けると新一の瞳が真っ直ぐに快斗を見つめていた。
「オメーこそ、ここから出る気はあるのかよ」
「そりゃああるに決まってんだろ」
「ならさっさとしろよ。オレがいいって言ってんだ」
一瞬、彼の言葉を理解するのが遅れる。え、と思わず零れた声に対する返答はない。ただ、やっぱり新一の顔は微かに赤い。
「………………」
きっかけは、初めてこの場所に小さな名探偵と二人で閉じ込められた時。
気付かない振りをしたそれに気付いてしまったのは、高校生探偵に戻った彼と再びこの空間にやってきた時のことだった。だからこそ、今度は頭の片隅に追いやるのではなく心の奥底に鍵を掛けた。
怪盗と探偵という間柄でしかなかった自分たちは偶然にも同じ大学に進学し、そこで普通の友達として出会って。これからも友達として共に過ごせたら、と思っていたというのに。
――期待、してもいいのだろうか。
互いの熱が触れ合ったのはほんの僅かな時間。だけど、その熱はこれまでの二回とは違った熱を二人の唇に残した。
程なくしてカチ、という無機質な音が部屋に響く。この音を聞くのもこれで三度目。ゼロになった距離を戻そうと体を離したところでぱしっと快斗の腕は掴まれた。
「工藤……?」
「オレはあの時、待てって言っただろ」
あの時、というのは前回のことを言っているのだろう。鍵が開いた瞬間、宝石の返却を任せた快斗は逃げるようにこの場を去った。どうやら、この手は快斗が逃げないための先手のようだ。
「待てと言われて待つヤツはいねーよ」
「なら今聞け」
こんなことをされなくても今回は逃げる気などなかったのだが、前科があるのだから疑われてしまうのは仕方がない。
分かったから離して欲しいと頼めば、若干疑惑の眼差しを向けられたものの新一はその手を離した。そして、今度は逆に快斗が新一の手を取った。
「あ、おい!」
そのまま手を引いて開いたドアを抜ければ、そこは見覚えのある大学の一角。二人がこの不可思議な現象に巻き込まれたその場所だった。幸い、今この場に人の気配はない。
「黒羽……っ!?」
さーと風に葉っぱが揺られる木の下で、快斗は再び自分の唇を新一のそれに重ねた。
「これでもう、脱出するための手段じゃなくなっちまったぜ?」
緩やかに口角を持ち上げて言えば、海のように深い青がぱちりと瞬く。
やがて、新一は溜め息を一つ。
「脱出するためなら今までと同じでよかっただろ」
「そこは工藤の期待に応えないと!」
「期待なんてしてねーよ!」
えー? と言いながら笑うと、新一も頬を朱に染めたままはにかんだ。
まさか、こんなことになるとは思わなかった。
多分、それは新一にしても同じだろう。初めて出会った時は敵同士、一度目に閉じ込められた時は次があるなんて考えもしなかった。
それが今では同じ大学に通う友人で、一度きりと思われたこの現象は三度も自分たちの身に起こった。これも偶然に偶然が重なった結果――それとも、全てが運命だったのか。答えなんて誰にも分かりはしないけれど。
「なあ、工藤」
運命は自分で引き寄せるもの。だから。
「オレはお前が好きだよ」
大切なものを手に入れるために手を伸ばす。
伝えた想いにそっと口元を緩めた新一は、ゆっくりと口を開いた。
「遅せーよ、バーロー」
三度目は夕方の大学。快斗と新一は漸くこの謎の答えを出した。なんとなく、四度目はもうないような気がした。
fin