- 倉御編 -




 ぼんやりとした頭のまま、視界に映る景色に違和感を覚える。ぱちぱちと瞬きをしてみてもその景色は変わらない。いつもの見慣れた天井ではないそれにがばっと体を起こした倉持はそこに広がる景色に困惑した。
 何もない、ただ白いだけの部屋。
 倉持の記憶が確かなら、昨日も五号室にある自分のベッドで寝たはずだ。どうして自分はこんな場所にいるのか。そもそもここはどこなのか。疑問が次々と生まれる。

 そんな中、不意に視界の端で何かが動いた。

 この白い部屋に存在する自分以外の何か。それを見た倉持は自然とその名を口にしていた。


「御幸……」

「…………どこ、ここ」


 先程の倉持と同じように二、三回瞬きをした御幸が部屋を見回して尋ねる。その表情に浮かぶのもやはり困惑だった。


「俺、普通にベッドで寝たと思うんだけど。ここどこ」

「俺が知るわけねーだろ」


 再び繰り返された問いに倉持が答えると琥珀の瞳が倉持を映した。寝る時はいつもアイマスクをしている御幸だが、その顔には見慣れた眼鏡があった。


「お前、寝てたなら何で眼鏡してんだよ」

「知らねーよ。つーか、何で俺とお前?」

「知らねーよ」


 お互いに疑問を声に出してはばっさりと切り捨てた。他にも疑問は山ほどあるが、聞いたところで答えを知っている人間はこの部屋にはいないのだろう。
 はあ、と溜め息が零れる。マジで何これと呟いた御幸にもう一度知るかと返す。


「なあ、これって夢?」

「どんな夢だよ」

「分からねぇけど、夢じゃなかったらなんだよ」


 知らない。分からない。
 それしか浮かばなかった倉持は何も答えずに立ち上がり、この部屋にある唯一のドアの前まで移動してドアノブを握る。しかし、そのドアが開くことはなかった。


「倉持、お前何かした?」


 チッと舌打ちをしたところで聞こえてきた声に振り返る。
 「あ?」と聞き返した声が些か低くなってしまったのは訳の分からないこの状況に苛立ちを覚えたせいだ。


「だって、こんなのおかしいだろ」

「何かしたのはテメェの方じゃねぇのか」

「俺が何するって言うんだよ」

「日頃の行いが悪いんじゃねーの」


 本当に訳が分からない。どこかも分からない見知らぬ部屋に御幸と二人きり。しかも閉じ込められているなんてどういう状況だ。誰かの悪ふざけにしては手が込んでいる。
 そう考えていた時、いきなりポンッという音が聞こえてきて反射的にそちらを見た。ひらひらと、どこからともなく現れた紙が床に落ちたのは間もなくのことだった。


「…………」


 謎の紙を見つめたまま暫しの沈黙が流れる。ちら、とどちらともなく視線が交わり、それから再び紙を見る。そうして十秒ほどが経った頃、立っていた倉持は仕方なくその紙の元へと足を進めた。
 数秒で辿り着いたその場所で紙を拾う。それからそこに印刷された文字を見て倉持は眉間の皺を深くした。何だこれ。

 ――ここはキスをしなければ出られない部屋です。

 何の変哲もないコピー用紙らしきそれに印刷されていたのはたったそれだけ。訳が分からない、と思うのも目を覚ましてから何度目になるのだろうか。頭が痛くなりそうだ。


「倉持?」


 紙を拾ったままの姿勢で動かなくなった倉持を不思議に思ったのだろう。御幸が倉持の名前を呼んだ。それでも倉持が動かずにいると立ち上がった御幸が横から例の紙を見た。


「何これ」


 少し前に倉持が思ったのと同じことを思ったらしい御幸が言う。
 何度読んでみてもそこにある文章は変わらない。そして何度考えてみてもその意味も仕組みもさっぱり分からなかった。


「……とりあえず、してみる?」

「はあ!?」


 やがて、とんでもないことを言い出した隣の男を倉持は勢いよく振り返った。何言ってんだお前、と思ったのが伝わったのだろう。御幸も眉を顰めながら口を開く。


「他に手がかりもねぇし、ここから出られないのは困るだろ」

「だからってお前……何言ってんのか分かってんのか?」

「キスすればいいんだろ? まあほら、事故みたいなもんじゃん」


 一応、この紙に書かれていることは御幸も理解しているらしい。だからってすぐにやってみようとはならないだろう、普通、とは倉持の心の内だ。これが恋人同士であったのなら問題はないだろう。相手が女ならまだ、あり得なくはなかったのかもしれない。
 しかし相手は同じ男で、同じ部活のチームメイト。ついでにクラスメイトでもあるがそれについてはどうでもいい。こんな部屋から一刻も早く脱出したい気持ちは同じだが、その脱出方法が問題なのだ。


「あ、もしかしてファーストキス?」


 ニヤ、と笑った御幸にカチンとくる。「ああ?」と先程よりも低い声が出る。けれど御幸は全く怯まずに続けた。


「こんなのただの事故だろ。初めての倉持君にはちょっとばかしハードルが高いかもしれないけど?」

「テメェだって初めてだろ!」

「この俺のファーストキスをもらえてよかったじゃん」


 その自信はどこからくるんだと言えば、はっはっはといつものように笑い声が返ってくる。相手が可愛い女子ならまだしも、野郎のファーストキスをもらって何が嬉しいのか。
 ……おそらく、世間でイケメンという部類に入るこの男のファーストキスが欲しいと思っている女子は少なからずいるだろう。だが倉持は一ミリだってそんなことは思わない。思うわけもない。


「でも知らないヤツよりいいだろ? そういう意味では倉持でよかったよ」


 相手が女子だったらもっと面倒だったし、と御幸は話す。
 確かに、御幸の場合はそうだろう。いや、倉持だって知らない女子といきなりキスをしろと言われたら戸惑う。キスをするなら男よりは女の方がいいと思ったが、気兼ねなくできる相手ではあるのだろう。したいかしたくないかでいえば、したいとは思わないが。


「それに俺、野球やりたいし」


 それは、分かる。こんな何もない部屋にいるよりバッドを振ったり白球を追いかけていたい。


「利害の一致ってヤツ? 事故だからノーカンだし、キスすれば野球できるなら他に選択肢なくねぇ?」


 眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐに倉持を見た。その瞳を見て、やっぱりこいつは野球のことしか考えていないなと思った。もっとも「そうだな」と答えた倉持も人のことは言えないのだが。
 くるりと体の向きを変えて見つめ合う。ドクドクと心臓が鳴るのは仕方がないだろう。脱出をするための手段であってそれ以上でも以下でもない。ただの事故。それでも自分たちは思春期の男子高校生だ。全く意識をしない、というのも無理な話だった。


「倉持」


 ふっと、優しく目を細めたそいつは言った。


「野球しようぜ」


 たったそれだけ。それでも、それ以上の理由なんて必要なかった。
 触れ合ったのは僅かな時間。けれど確かに熱が交わった。カチ、と鍵の開くような音が耳に届いたのはそれからすぐのことだ。


「ほら、行くぞ」


 どういう仕組みかは分からないけれどキスをすることで開いたらしいドアに向かう。今度はすんなりとドアノブが回り、開いた扉の先には見慣れたグラウンドが広がっていた。
 ざっと音を立てて隣に並んだ御幸の瞳にもグラウンドが映る。野球ができる。考えているのはきっとそんなことだろう。

 東の空が薄らと明るくなる中、どちらともなく歩き始める。
 自分たちが出てきたはずのドアはいつの間にか消えていた。










fin