キスをしないと出られない部屋に閉じ込められた
- 御沢編 -
気が付いたらそこは見知らぬ部屋で、何故か俺の横では身近な後輩が寝ていた。
状況がさっぱり掴めなかったが、何もないと思われた部屋にあった唯一のメモによるとここはキスをしなければ出られない部屋というものらしい。正直信じられなかったが、一つしかないドアには鍵が掛かっているのか開かなかった。誰かの悪戯にしては性質が悪い。しかしこんな悪戯をする暇があるならバットを振るような連中しか周りにはいない。その誰かが気付いてくれたら話は早いのだが。
「ん……あれ、ここは……」
「やっと気が付いたか」
寝起きで頭が回っていないのか。きょろきょろと周りを見回す後輩に声を掛けると、沢村は勢いよくこっちを振り返った。
「御幸センパイ!? 何でアンタがここに、っていうかここは一体――」
「とりあえず落ち着け。俺もよく分からねぇけど、閉じ込められたみたいだな」
ここで目を覚ます前の記憶があやふやだからはっきりとしたことは言えないとはいえ、現状を見れば閉じ込められていることは間違いない。故にそのことを伝えれば「はあ!?」と一際大きな声が部屋に響いた。
「お前、いきなり大声出すなよ」
「閉じ込められたってどういうことですか!?」
「俺だって分からねぇよ」
「何でアンタはそんなに冷静なんスか!? はっ、まさか御幸センパイが……」
「違えよ! つーか落ち着けって言ってんだろ」
ついさっきまで静かだった室内が一気に騒がしくなる。こんな訳の分からない状況でもいつも通りの沢村に喜ぶべきか、呆れるべきか。どちらにしてもこのままでは埒が明かないと目の前にあった頬を抓ると「いたっ」と声を上げてすぐに逃げられた。
「いきなり何するんですか!」
「どうやら夢じゃないみたいだな」
一応夢という可能性も考えたのだが、痛みがあるということはやはり現実らしい。誰が言い始めたのかは知らないが、古典的な方法で確かめた俺に「試すなら自分でやったらどうですか!?」と琥珀の瞳が真っ直ぐにこちらを映した。
そんな沢村に「痛かったら嫌だろ」と言い返したら「俺だって痛いんですけど!」と文句を言われたがまあ細かいことはいいだろと適当に流す。全然細かくないという主張は聞こえない振りをした。
「それより、ここからどうやって脱出するかを考えるのが先だろ」
いつまでもこんな場所に閉じ込められたまま、なんてのは流石に御免だ。言えば、漸く沢村が静かになる。しかしまだこの状況が信じられないのか、視線はあっちこっちへ移動する。
「脱出って言っても、あのドアから出る以外にあるんスか……?」
「だからそのドアから出る方法を考えるんだよ。外側から鍵が掛かってるみたいだしな」
外から鍵が掛かっているのか、それとももっと別の何かしらの力が働いているのか。非現実的だなとは思えど、いきなりこんな場所で目を覚ました上に例のメモのこともある。この場所で自分たちの一般常識が通用するとは思えない。このメモの内容が本当なら尚更、ここに常識なんてものは存在しないだろう。
「けど、この部屋って特に何もないですよね?」
方法を考えろと言われてもといった風に話す沢村の気持ちは分かる。故に俺もこうして頭を悩ませているのだが、とりあえずこの状況で情報の共有は大事だろうとさっきのメモを取り出す。
「一応手掛かりらしいものもあったにはあったんだが」
「手掛かりがあるなら先に言ってくださいよ。っていうか、それを実行すればいいんじゃないですか?」
「それはお前がこのメモを読んでからな」
「そりゃあ読みますけど、手掛かりがこれしかないなら――」
俺が出したメモを受け取った沢村の言葉が不意に止まる。その両手にはしっかりとあのメモが握られている。たった一文、読むのにかかる時間はちらっと目にしただけでも十分だ。
「…………何ですか、これ」
俺が聞きたい。キスをしなければ出られない、なんて常識的に考えれば有り得ないだろう。それをここで持ちだすだけ無駄とはいえ、男同士に向けられる内容でもない。
しかし、たまたま俺たちが男同士だっただけでそこに深い意味はないと考える方がいいのか。そこに深い意味がなくてもキスをしないと出られないという仕組みを考えた奴の神経を疑いたくなるが、それについても考えるだけ時間の無駄だ。
「だから一応、って先に言っただろ」
「でも、キスしたら本当に出られるんですかね」
「……それはやってみないと分からないだろ」
そのことを知っているのはこの状況を作った奴だけだろう。だが、仮にキスをすればこの部屋から出られるとしても普通は――。
「じゃあ、とりあえず試してみます?」
やってみよう、なんて考えには至らない。そう思ったのだが、沢村はあっさりとそう尋ねた。
普通の定義が人によって違うとしても、恋人同士でもない相手といきなりキスをしろと言われたら戸惑いや躊躇いが生まれるのは大多数の人にとっての普通ではないだろうか。中にはそう思わないようなタイプもいるようだが。
「……お前、本気で言ってんの?」
「俺だって別に好きでキスがしたいわけじゃねーけど、センパイだってここから出られないのは困るでしょ」
「まあ、な」
さらっと言われて驚いたが、沢村の言うことも間違ってはいない。それならさっさと試してここから出ましょうと言えるところも沢村らしい。
幾らそれでこの部屋が出られるとしても俺にはどうしても躊躇いがあった。沢村の言うようにここから出られる可能性があるのなら試してみるしかないとしても、やはりキスは特別なものだろう。それが気になる相手であれば、尚更。
「ほら、何かの罰ゲームだと思ってセンパイも腹を括ってください」
男同士なんて望みはないのだからある意味役得ではあるもののこれはこれで複雑でもある。当たり前だけど何も意識されてないよなと思いながらわざとらしく溜め息を吐いた。
「ま、実際早くここから出て練習したいしな」
「そうですよ。御幸センパイには俺の球を受けて貰わないと!」
当然のように主張する沢村に「ここを出れたらな」と返したら「その言葉、忘れないでくださいよ」とすぐに念を押された。だがまあ、本当にここを出られたらそれくらいはしてやってもいいだろう。もちろん好きなだけ投げさせてやるわけにはいかないけれど、ここを出なければキャッチボールの一つもできやしない。
「それじゃあセンパイ、思い切ってどうぞ!」
両手を広げて沢村が待ち構える。こういうところは男らしいよなと感じる。
たった一回、それもここを出るためだけのキス。深い意味なんてない。あるなんて考えもしないだろう。それをこいつは知らなくていい。知って欲しい、と思うこともあるけれど。
手を伸ばし、そっと触れる。
触れ合った場所から微かに熱が交わる。時間にしたらほんの一秒にも満たない、小さなキス。
「…………沢村?」
距離が近付くにつれてどちらともなく瞑った瞳を開けると、そこには同じように目を閉じた沢村の顔が映った。けれど、その頬はどことなく赤く染まっているように見えた。
程なくしてぱちりと目を開けた沢村は慌てたように口を開いた。
「あ、えっと、これで部屋から出られるはずでしたよね!?」
「ああ、あのメモが本物だったらの話だけど」
そう言っている間にがちゃんとどこからか音が聞こえる。おそらく、扉の鍵が開いた音だろう。
「御幸センパイ! ちゃんと出られそうですよ」
「……みたいだな」
じゃあ早く出ましょうと話す沢村の様子がおかしいのは火を見るより明らかだ。この状況で理由なんて一つしかないけれど、それにしては。
「沢村」
呼ぶと沢村の肩が大きく揺れた。これはやっぱり、さっきのあれを意識しているからだろう。そういうものと割り切っているとばかり思っていたが、実際にしてみたら意外と恥ずかしかったとかそういうことだろうか。
この気持ちに気付かれなくていいなんていっても、こういった反応を見ると少しは意識してくれているのかと嬉しくなってしまう。望みがないと分かっていてもこの気持ちは紛れもない本物だから。
「ちょっと、何でいきなり笑うんですか!?」
「いやーお前も案外可愛いところがあるんだな」
つい笑ってしまったのはそのせいであって他意はない。どういうことだと騒ぐ沢村にそれよりさっさと出ようぜと言ってドアへと向かう。後ろから「あ、待て!」と駆けた沢村が追い付いたところで回したドアノブは、いともあっさり開かれた。
そこには見慣れた青心寮があり、不思議なことに振り返った時にはさっきまで俺たちがいたはずの部屋は跡形もなく消えていた。結局、あれが何だったのかは分からない。夜も遅い時間だったこともあってその場で別れた俺たちは次の日、いつも通りに顔を合わせて練習をした。そこには昨日までと変わらない一日があった。
ただ、それから暫く。ふとした時に目が合うと沢村は分かりやすく目を逸らすようになった。理由は分かりきっているからあえて問い質したりはしないが、果たしてこれはいつまで続くのか。
あの不思議な現象に何らかの意味があったのかは分からないけれど、もしかしたら――なんて考えるのはやっぱり不毛だなと空を見上げた。そこには今日も気持ちのいい青空が広がっていた。
fin