「御幸先輩!」


 風に乗って聞こえてきた声に振り返る。そこには制服に身を包んだ後輩が立っていた。左手には見覚えのある丸筒、胸元のコサージュも一年前に見たものと同じだろう。そして変わらない琥珀の瞳を見つめて御幸は徐に口を開いた。


「卒業おめでとう」

「ありがとうございます!」


 一言、祝いの言葉を口にするとニカッと沢村が笑った。本当に何も変わらないなと心の中で呟いた御幸は横にある懐かしのグラウンドを眺める。


「あの沢村が卒業か。早いモンだな」

「春からはまた御幸先輩と同じ野球部ですよ」

「マジでウチの大学にくるとはな」


 言えば、ちゃんと約束したじゃないですかと沢村が声を上げる。確かに一年前、この場所で沢村自身から御幸と同じ大学に行くつもりだという話は聞いていた。しかし、それが現実になるとは思いもしなかった。
 もちろん、あの時の沢村の言葉を疑ったわけではない。だがいざ進路を決める時になれば考えが変わっている可能性もあったし、プロになるという道だってあったのだ。そうだったらいいと期待はしていたけれど、沢村から進路が決まったと報告された時は本気で驚いたし嬉しかった。それが御幸の率直な感想だった。


「今度こそ御幸先輩の前でエースになりますから!」

「ウチでエースになるのは簡単じゃないぜ?」

「絶対に御幸先輩が卒業するまでに成し遂げるんで、センパイもちゃんと正捕手になってくださいね」

「誰に向かって言ってんだよ」


 言い合ってどちらともなく笑う。久し振りに会っても生意気な後輩はきっと高校野球から大学野球へ舞台を移したところで何も変わらないんだろう。もっとも、生意気なのは主に御幸に対してだったが。
 初日から遅刻するなよといつかの出来事を持ち出せば「しねーよ!」と勢いよく返ってくる。そのせいで暫くは練習に参加させてもらえなかった沢村だが、監督はその沢村を夏のメンバーの一人に選んだ。イップスになった秋もベンチに入り、次の夏も、更に翌年も沢村は青道野球部の一員として戦った。

 変わっていない。
 それは今日、沢村に会ってから何回も思ったことだ。けれど投手としては日々成長していたことを誰よりも御幸が知っていた。

 何せ中学生だった沢村が初めて青道にやってきた日に球を受けたのは御幸だったのだ。それからも捕手として、何度も投手である沢村の球を受けてきた。去年までは間違いなく、自分が一番沢村のことを知っていると言い切れた。


「沢村」


 でも、御幸が青道野球部を引退してから一年以上の時が流れた。沢村の球もあれから受けていない。当たり前といえば当たり前だ。
 だけど、だからこそ。
 緩やかに口の端を持ち上げた御幸は琥珀の双眸を真っ直ぐに捉えて口を開く。


「成長したお前の球、見せてくれよ」


 見る見るうちに丸くなる瞳。零れ落ちそうなほど大きく開かれた瞳の中には御幸が映る。ぽかんと口を開けた沢村の唇は微かに震えていた。


「約束しただろ。つーかお前、最初に球を受けたいって言ったのが俺だって覚えてる?」

「え……?」

「四年前、初めてお前がこのグラウンドに来た時。俺はその時からお前とする野球が好きだった」


 あ、と小さな声が耳に届く。あの日の出来事を沢村も思い出したのだろう。一年前、御幸が沢村の言葉であの日を思い出したのと同じように。


「お前は俺がいるから青道に来たって言ってたけど、俺もお前がウチに来たらいいって思ってたよ」

「えっ、はあ!? アンタ、そんなこと一度も……!」

「言ってないからな」


 言うつもりもなかった。

 御幸と野球をするために地元を出て青道にやってきた沢村。エースになるためにひたすらに努力して、いつだって前を向いて歩いていた。
 馬鹿みたいに真っ直ぐな沢村に御幸だけではなく多くのチームメイトが影響された。そんな沢村だから御幸は次のキャプテンに沢村を推した。そして見事にその役目を果たした。


「…………去年、お前はケジメをつけるために俺を探してたよな」


 卒業式を終え、野球部の仲間たちとも別れを告げたあと。走り回って御幸を探していたらしい沢村が言ったケジメという言葉。それを御幸はずっと忘れていなかった。
 いや、沢村がケジメをつけたから自分もケジメを付けなければいけないと去年の今日、この場所で決意した。だから卒業式のあと、時間があったらこの場所に来て欲しいと沢村に連絡をしたのだ。そして沢村は約束通り、この場所にやってきた。

 ゆっくりと息を吸って、吐く。
 静かに心を落ち着けながらいつだって身近にあった青空の下で、投手と捕手ではなくなった自分の本当の気持ちを御幸は口にした。


「好きだ」


 お前とする野球も、お前自身も。
 たった三文字の想いを伝えた御幸は、そのまま自分の心のままに言葉を紡ぐ。


「ずっと、好きだったんだ。お前のこと」


 自覚をしたのは高二の秋。本当はこの気持ちを伝えるつもりもなかった。
 けど、あの日。受け取ったボールが沢村の気持ちを語っていたから、覚悟を決めた。今日、自分たちが初めて会ったこの場所で、今度は自分がケジメを付けると。


「なあ、沢村」


 ぴゅう、と春のあたたかなな風が自分たちの間を緩やかに通り過ぎる。とくとくと心臓が五月蝿いほどに音を立てているのが分かる。
 静まれと言い聞かせながら一度下ろした瞼を持ち上げた時、そこには青空の下で何度も目を細めた眩しいほどの太陽があった。


「俺も、御幸先輩が好きです」


 ほんのりと頬を赤く染めた沢村が笑う。瞬間、とくんとまた心臓が音を立てた。
 だけどこれは仕方がない。好きだと自覚してから何度も経験していることだ。でも、沢村がこんな風に笑うのを見たのは初めてだ。多分、御幸自身も沢村がこれまで見たことのないような表情をしているのだろう。


「もしかして、センパイが言ってたケジメってこれのことですか?」

「……悪いかよ」

「いーえ! すっごく嬉しいです!」


 そう話す沢村があまりにも嬉しそうに笑うものだから御幸の口元も自然と緩む。じんわりと熱を帯びる心が現実を実感させてくれるけれど、まだ足りないと思ってしまうのは単純に卒業してから会う機会が少なくなっていたせいだろう。それと、何よりも沢村のことが好きだから。


「さてと、それじゃあそろそろ帰るか」


 とはいえ、ここは青道高校の敷地内だ。卒業生である自分たちがここにいても怒られることはないだろうが、ずっとここにいるわけにもいかない。
 しかし、御幸の言葉に「え、もう?」と沢村は聞き返す。それに対して今考えたことをそのまま伝えるとむすっとした表情を浮かべた。


「久し振りに会ったのに冷たいっスね」

「バーカ、お前も一緒に行くんだよ」


 何で俺が一人で帰ることになってるんだよと突っ込むと沢村が目をぱちくりとさせる。それともまだ何かやることがあるのかと尋ねるとぶんぶんと首を横に振った。
 なら行くぞと歩き出すとすぐに沢村も隣に並んだ。ちらりと横を見るとその表情はすっかり柔らかな笑顔に戻っていた。単純、だけどそういうところも沢村のいいところかと御幸は心の中で呟く。


「これからどこに行くんスか?」

「特に決めてないけど、お前はどこか行きたいとこあるか?」

「とりあえず何か食べたいです。あ、俺久し振りに御幸先輩の炒飯食べたい!」

「無茶言うなよ。じゃあ適当な店に入るか」


 えーという不満そうな声に「炒飯は今度作ってやるから」と付け加えると「絶対ですよ!」と念を押された。炒飯くらい誰が作っても変わらないと思うのだが「御幸先輩の作ったのが食べたいんです」と言われたらたかが炒飯でも作ってやるかという気持ちになるあたり自分も大概なのかもしれないと御幸は笑みを零す。
 そんな御幸を「何スか」と照れ臭そうに沢村が見上げる。何でもねーよと笑いながら「そういや」とさっさと別の話題に切り替えて、店に着くまでも店に着いてからも何度も笑った。

 きっと、この先も一緒にいると笑ってばかりなのだろう。
 でもそれが面白いし、笑っている顔が好きということはまたいつか、伝えることにしようか。










fin