もう、君がいないといられない
ぴゅうと風が通り過ぎる。見上げた空に浮かぶ雲が、その風に流されるようにゆっくりと動いていく。ぽかぽかと陽の光に当たりながら、今日も良い天気だのうとぼんやり考える。そんな昼下がり。
こんなに天気の良い日は、外でのんびり過ごすのも悪くない。時にはこうして休むことも大切だろう。いつも仕事ばかりでは気が滅入ってしまう。
「こんなところで何をしていらっしゃるんですか」
陛下、と続けられたその言葉に背筋が凍る。ばっと体を起こして振り向けば、そこには見慣れた黒髪の青年が笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「今日中に終わらせなければならない書類が山ほどあったと思うのですが」
「それは……後でやろうと思っていたのだ」
表面上では笑っていても目の前の青年が怒っていることくらいガッシュには分かりきっていた。だから怒らせないようにと言葉を選び、けれど咄嗟に良い返答が浮かばずに結局ありきたりな答えを口にした。
勿論、この言葉に嘘はない。今だってちょっと休憩するつもりで出て来ただけで置いてきた仕事は戻ったらちゃんとやるつもりだった。そもそもそれらの仕事はガッシュが片付けなければいけないもので、そのまま放っておくことの出来ないようなものばかりだ。やらないという選択肢はない、わけだが。
「では、ここへは何をしにいらしたんですか」
やはり笑みを浮かべたまま、一番初めにした質問を清麿は繰り返した。
書類の件は休憩を挟もうがそうでなかろうが、最終的にガッシュ自身に返ってくることだ。間に合わなくなるようなこともなく、きっちり片付けられるというのであれば清麿も文句は言わない。先にそれを終わらせるべきだろう等の言いたいことはあるが、この際それは置いておく。
しかし、それよりも聞きたいのはこのことだ。一体ここへ何をしに来たのか、ここで何をしているのか。おおよその見当はついているが、問題はそこではないからしつこく尋ねる。
「たまには休憩も必要であろう……?」
やはり返ってきたのは予想通りの答えだ。どうせそんなことだろうとは思っていた。思っていたけれど、それならそれで踏むべき手順というものがある。
「そうですね。ですが、陛下はそのことを誰かに伝えましたか?」
「それは、その……」
問題はこれである。清麿だって大量の書類を休まずに終わらせろなんてことは言わない。ある程度を終えたら一度休憩を挟んでも良い。むしろ適度な休憩は必要だともいえる。
だが、彼はこの魔界を治める王なのだ。王様だろうと休憩は必要だろうが、王ならばそれなりの自覚を持って行動してもらいたいというのが清麿の意見だ。
何もかも予想通りであるとはいえ、自分の主のあんまりな返答に思わずはあと溜め息が零れる。
「お前はもう少し自分の立場を考えろよ。王が突然いなくなったりしたら大騒ぎだぞ」
公私混同はしない清麿だが、ここにはガッシュと清麿の二人しかいない。それも現在は休憩中らしいし、ここまでの道のりからしても他に誰かが来るような気配もないかと口調を崩した。
「休憩すんなとは言わねぇけど、せめて誰かに一言くらい掛けて行けよ」
「……うぬ、すまぬ」
「まぁ、分かれば良いけど」
十分反省しているのが見て分かったからそれで良いことにする。これが騒ぎになっていたのならもっと注意するが、今回はそのような騒ぎにもなっていない。
もともとこの王様は視察という名目でこっそり街に出掛けたり、休憩と称して城のどこかの部屋にお邪魔していることもある。正直それはそれでどうかという話だけれど、それが程よい息抜きになっているようだからほどほどに咎める程度に留めている。
ただ、本当に誰にも言わずに出掛けるのだけは止めて欲しい。いつもは城にいなくても誰かしらが行き先を知っているというのに、誰も何も知らないからもしもの可能性が頭を過った。それでいて騒ぎになっていないのは、最初に気付いたのが清麿だったからだろう。
「だが、清麿。どうしてここが分かったのだ?」
これはガッシュの純粋な疑問だった。今回は誰にも行き先を告げていなかったというのに、清麿はガッシュを見つけ出した。流石に城からそこまで離れたところには行っていないと考えても範囲はかなり広い。
加えてここは殆ど誰も来ないような小高い丘の上。下手すれば清麿の言っていたように騒ぎになっていてもおかしくはなかった。
「何だろうな。なんとなく、こっちにいるんじゃないかって思ったんだ」
「なんとなく?」
どこにいるかなんて分からない。探そうにも手掛かりはないし、これといって見当もつかなかった。
だけど城からあまりに離れた場所には行っていないはずだと考え、全く当てがなかったから自分の勘を頼りに近場を探し始めたらここでガッシュを見つけた。はっきりした理由なんてない。けれど、不思議と足はこちらへ向かったのだ。
「そうしたらここでガッシュを見つけて、何もなかったみたいで安心した」
執務室を訪ねた時、ガッシュの姿がないなんていうのはこれが初めてではない。けれど城の中を探しても姿はなく、出会った人に話を聞いてもみんな知らないと言う。いつものことだろうと最初は普通に言っていたけれど、何かあったのではないかと考え始めたところでいやでもと思った。
城に外部の人間が入った形跡もなければ、執務室におかしな点もない。そこに流れていたのはいつも通りの日常。だとすれば、何かあったと考えるよりもいつものことと考える方が自然だ。それは絶対ではなかったが、大勢で探し回るほどの要素も今のところはない。そう思って探しに出て、見付けた王様は人の心配をよそに呑気に休憩をしていた。
「心配してくれたのか?」
「当たり前だろ」
やっとのことで王を見付け、何もなかったことに安堵した。同時に、人が心配して探し回ったのに当の本人が丘の上でのんびり寝そべっているのには怒りも湧いてきたが。
とはいえ、安心したという気持ちの方がやはり大きい。だから怒っていたけれど説教をするのは止めた。本人も反省していたようだったし、それならもう良いかと思ってしまったのだ。
「だから、次からは絶対に行き先を誰かに伝えろよ」
念のためにともう一度釘を刺させば「分かったのだ!」とはっきり頷かれた。この様子なら同じことは起きないだろう。流石に清麿もこんなことは二度と御免である。
「それにしても、こんな場所があったんだな」
ふう、と一息吐いてガッシュの後ろの景色に目を向ける。その視線に合わせてガッシュもくるりと体を回し、そうであろうと誇らしげにそちらを見た。
ここは少し高いこともあり、城をはじめとした中心地を一望出来るのだ。何も邪魔するものがなく、このような景色が見られる場所というのはなかなかない。
「私も偶然見つけたのだ」
「綺麗な場所だな」
周りには緑が溢れ、息抜きをするには丁度良い場所かもしれない。だからといって毎回のように城を出てここまで来られるのは困るのだが、それでも落ち着ける良い場所だなと清麿は思う。
「これから千年近く、お前がこの世界を守っていくんだな」
この世界を、この景色を。この場所が千年先の未来でも変わらないように守り続けていくのだ。
今より千年も昔、ここがどのような景色だったかは分からない。しかし、今これだけの光景が広がっているのだから千年前も美しい場所だったのだろう。真実は知らないけれど、そう信じたい。
そんな清麿の言葉にガッシュも頷く。十年後も百年後も、この景色を見ながらこんな風に二人で話をしたい。大切な魔界をより良い方へと導き、いつまでもこの景色を守っていきたい。
それには王様であるガッシュは勿論、けれどガッシュ一人だけでは決してそれは成し得ない。だから、隣の黒を見て答えた。
「私だけではない。皆と一緒に守っていくのだ。その為におぬしの力も貸して欲しい」
数年前。千年に一度行われる魔界の王を決める戦いを終え、魔界に帰ったガッシュが再び人間界にやってきたことがあった。それはあまりにも突然で、だけど数年振りに再会出来たことを素直に喜んだ。
その時、ガッシュは今と同じことを人間界で清麿に言った。私と一緒に魔界へ来て欲しい。清麿の力を貸して欲しいと。
そして清麿は答えたのだ。
「ああ。お前の力になれるよう、頑張るよ」
魔界に来てくれないかというガッシュの頼みを清麿は受け入れた。だからこそ今、ここにいる。
当然ガッシュの言葉に悩んだり考えたりもしたけれど、清麿の中には始めから一つの答えしかなかった。清麿にとって、ガッシュの存在はとても大きくて特別だった。ガッシュがいなければ今の清麿はいなかったといっても過言ではない。そんなガッシュが自分の力を求めているというのなら力を貸す。
そう答えた清麿はこの魔界にやって来てから多くのことを勉強した。清麿の立場は王の補佐役である王佐であり、魔界のことを知らなければ話にならなかった。だからひたすら勉強して、ガッシュを傍で支えられるように努力してきた。
「清麿は十分私の力になってくれておるぞ?」
「いや、まだ覚えることは沢山ある。自分の力で今の立場を守れるようにならないとな」
代々、王佐は王である魔物のパートナーであった人間がその役割を担ってきた。だが、ここは魔界だ。人間が王佐を務めることを良く思わない者もいる。彼等を認めさせるにはそれだけの力を身に付けなければならない。
歴代の王佐も初めのうちは慣れない魔界での生活に苦労したのだろう。けれど最後には周りにも認められ、しっかりとその任を終えたことを清麿は周りから聞いていた。だからいつかは、ガッシュのパートナーとして得たこの立場を自分の力で認められる為にも学ぶことは多々あるのだ。
「ならば、私も頑張らねばならぬな」
遠くを見て決意する清麿を見たガッシュもまた改めてそう口にした。
覚えることばかりで大変だった日々を終えて清麿を迎えに行ったガッシュだが、王としてやるべきこと、学ぶべきことは少なくない。清麿だけでなく、ガッシュもまた皆に王として認められるように努力を重ねていかなくてはならない。王が代わり、王佐を迎え、新しい魔界は動き出したばかりだ。
「さて、そろそろ戻るぞ。今日中に仕事が終わらなくなる」
「ウヌ、行くとするか」
なんだかんだでゆっくり過ごしてしまったが、残っている仕事の量を考えたらこの辺りで休憩は終わりだ。
清麿が背を向けて歩き出したところでガッシュは小走りにその背を追い掛ける。この数年で身長差が縮まったこともあり、あっという間に隣に並ぶとどちらともなく歩幅を合わせて歩く。
「あ、そうだ。城に戻ったらこの前の件纏めといたから目を通しておいてくれ」
「おお、もう出来たのか。清麿はやることが早いのお」
「それがオレの仕事だからな」
魔物の子供と人間のパートナーとして人間界で出会い、やさしい王様を目指して共に多くの魔物達と戦ってきた。
辛いこと、苦しいこと。悔しかったことや悲しかったこともあれば楽しかったこと、嬉しかったこと。幸せだったことや笑い合ったことなど沢山の感情を共有してきた。
「清麿、これからもよろしく頼むのだ」
「何だよ、いきなり」
「言いたくなったから言っただけなのだ」
再び出会った二人は魔界の王様と王佐になった。
これまでとは違う関係だけれど、支え合い助け合い。以前と全く同じというわけにはいかないけれど、それは人間界にいた頃と変わらない。この先も二人で一緒に歩んで行くのだ。
「オレの方こそ、よろしくな」
「ウヌ!」
思えば、赤い本を通じて出会ったことこそが、全ての始まりだったのかもしれない。
本を通じて得た絆と、大切な存在。
君がいない未来なんて考えられない。だから共にこの道を歩きたいと望み、共にこの道を歩くことを決めた。そのことを二人が互いに知るのはまだ先の話。
fin