寒い冬が終わりへと近付くにつれ、徐々に気温は暖かく過ごしやすいものへと変化していく。野球をするためにやってきたこの青道高校で春を迎えるのはこれが四度目だ。
 一度目は言うまでもなくこの学校に入学した時。真新しい練習着に腕を通しながら考えていたのは新たなチームのこと。強豪である青道でやる野球にわくわくした。二度目の春には面白い後輩が入部し、全く違うタイプの二人の投手にやっぱりわくわくした。三度目の春を迎える頃にはそんな高校野球も残り半年となり、悔いがないようにひたすら前に向かって走った。

 そしてその夏、俺達は全国制覇を達成する一歩手前で敗れた。
 それが俺の高校野球が幕を閉じた瞬間だった。

 あっという間の高校生活を振り返ってみると、そこには野球しかなかった。野球をするためにやってきた学校で野球漬けの毎日を送る。全てが上手く行ったわけではなく、時にはチームメイトとぶつかることもあった。けれどそれはとても充実した毎日だったといえるだろう。


「こんなとこで何してんだよ」


 不意に聞こえてきた声に振り向くと、そこには三年間を共にしたチームメイト兼クラスメイトが卒業証書の入った丸筒を片手に立っていた。


「んー別に? そっちこそ、こんなところにいて良いの?」

「お前がふらふらしてるからだろ」


 わざわざ探しに来てくれたんだ、優しいなと言えば「うぜぇ」とたった三文字で返された。だがこれもいつものこと。
 しかし、この友人が部の集まりも一段落した頃合いにふらっと抜け出した御幸を探しに来たのも間違いではない。相変わらずよく見てるな、という言葉は胸の内で呟くに留めた。最後くらい人の世話なんて焼かずに過ごしたら良いのにと言ったら更に怒られそうだからこれも言わない。最後まで好きに過ごしているのはお互い様だ。誰に頼まれたわけでもなく、自分でこの慣れ親しんだグラウンド脇までやってきたのだから。まだ部員の大半は校舎寄りのグラウンドの傍で最後の別れをしている頃だろう。


「それで、何か俺に用でもあった?」


 用事なんてないんだろうなと思いながらも御幸は形式的に尋ねる。案の定返ってきたのは「別に」という短い答えのみ。そこで会話が途切れ、暫しの沈黙が訪れる。
 自分達の間に沈黙が落ちるのは別段珍しいことではない。部活どころかクラスも同じ、他に過ごす相手もいないからと教室で一緒にいることが増えたのは一年の二学期頃だった。けれどそれは先にも述べたように親しいからという理由ではない。
 きっかけは二学期の頭に行われた席替えでたまたま席が前後になったから。席が近かろうが特別会話をすることもなく、ただ席が近かったから時々会話をするようになった。その程度のものだ。会話のキャッチボールを一回して終わりなんてことも珍しくない。友人というより部活仲間、それ以上でも以下でもなかった。それこそ自分達の間に沈黙が落ちるなんてよくあることだった。


「……とうとう俺達も卒業だな」


 そんな言葉が出てきたのは何となく。これまではお世話になった先輩達を見送る側だった。それがいつの間にか見送られる側になってしまった。
 当たり前といえば当たり前、これは誰もが通る人生の通過点の一つに過ぎない。それでも何も感じないかといえばそんなこともない。だが卒業よりも引退の方が大きな出来事だった気がすると思ったところで結局野球かとつい笑ってしまった。


「何一人でニヤニヤしてるんだよ」

「いやー三年間マジで野球しかしてこなかったなあと思って」

「大学行っても変わんねーだろ」

「まあな」


 プロからの誘いはあった。けれど御幸は大学野球の道へと進むことにした。倉持もまた御幸とは別の大学で野球を続ける。これからは仲間としてではなく敵として、ライバルとしてグラウンドで会うことになるだろう。勿論他の仲間にしてもそうだ。
 中には野球から離れる者もいるが、それでも彼らは同じ釜の飯を食った仲間であることに変わりない。このグラウンドで汗水を流し、たった一つの目標へ向かって駆け抜けた大切な――。


「…………俺さ、お前と一緒で結構楽しかったよ」


 部活もクラスも。友達がいないと揶揄されることもあったけれどそれは事実で、そもそも友達を作りたいと思ったことがなかった。野球がやりたい。御幸の中にあったのはたったそれだけ。
 しかし何の縁か、結局この男とは三年間クラスまで同じだった。おそらくこの三年で御幸が一番時間を共にしたのは倉持だ。同じ野球部で寮生、学校に行っても同じ教室で過ごす。意図せずともそうなってしまうのは必然だった。


「多分、結構助けられてたと思う」

「……今日は珍しく喋るな」

「まあ最後だし」


 何となくそういう気分になった。助けられたと言う割りに多分とか思うとか曖昧だと突っ込まれなかったのもやはり最後だからだろうか。
 これっきり会えなくなるわけではないとはいえ毎日顔を合わせていた日常は終わる。マメな方ではないという自覚のある御幸が卒業してから誰かと連絡を取るなんてことは殆どないだろう。本当にこれっきりとなる相手もいるかもしれない。リトルやシニア時代の知り合いで今でも交流のある相手が殆どいないようにいずれはこの高校時代も過去のものとなる。それでもあの頃よりここでの野球に一番思い入れがあるのは、ここには本当に野球が好きなバカばかりが集まっていたからに違いない。


「ほら、お前って意外と面倒見良いじゃん?」

「意外って何だよ」

「意外だろ。顔に似合わず」

「おい」


 でも周りのことよく見てるし、然り気無い気遣いとか上手いじゃん。そういうところに多分、俺が一番助けられてたんだと思う。
 少し前に自分が言ったことを補足するように御幸が話すと三白眼がちの目が僅かに開かれた。それから若干視線を逸らした倉持は「……そうかよ」とやや間を置いて相槌を打つ。「うん、そう」と肯定しながらも御幸はまた「多分だけどな」と付け足す。
 何度も繰り返されるそれに倉持はどっちなんだよとは言わなかった。いや、言わなくても御幸が周りをよく見ていると称した彼は分かっていたのだ。分かっているから、珍しく自分の話をする御幸の言葉を黙って聞いた。


「色々あったけど、やっぱ楽しかったな」


 野球、と続くのは当然の流れだった。ついこの間までは目の前のグラウンドでてっぺんを目指していたというのに既にそれは過去形。新たな舞台はとても楽しみだし、野球を続ける自分達は引退してもトレーニングを続けていた。これから先もずっと、野球は自分達の中心に有り続けるのだろう。野球から離れる者にしたって生活の中心にあった野球を忘れることはきっとない。
 そして御幸は野球が自分の全てだと言い切れる。それほどまでに野球ばかりの人生を送ってきた。きっとこの先も、漠然としている未来だけどもしも野球がなくなったらなんて正直考えられない。ただ。


「お前のことも、結構好きだったよ」


 一緒にいて楽しかったといえるくらい、いやそれ以上に。
 友達というよりチームメイト。ただ同じ学年でクラスも同じ。向こうだって自分を友達とは思っていないだろう。友達よりは腐れ縁と言った方が正しいかもしれない。だけど好きだった。このチームメイトとする野球が。沈黙が気にならないくらい気を許せる相手なんてそうはいない。
 そう、こいつの隣は結構居心地が良かったんだ。気の合う仲ってわけではなかったけど、決して踏み込みすぎない。他人との距離感を間違えないヤツだから、こいつが傍にいるのは嫌じゃなかった。

 けど、そんな自分達の関係も全部今日で終わり。明日からは元チームメイトという関係になる。野球を続けていればまた会うこともあるかもしれない、その程度の関係に。


「だから、ありがとな」


 正直、自分の気持ちを素直に言葉にするのは得意ではない。今だっていつもの軽口で茶化してしまいたい気持ちもある。でもきっと、言うなら今しかない。いつものように嘘や冗談を交えながら話しても良かったし、そっちの方が良かったかなとも思う。
 けれど何故か、いつもなら何かを言われるタイミングで何も言われなかったからほんの少しだけ素直に告げた。らしくないのはお互い様だ。どうして気付いちまったんだろうな、そんでもって何故探してしまったのか。これも男の性格故かと思いながら最後の言葉を口にした。


「じゃあ」


 またな、とは言わない。互いに野球を続けていれば会うこともあるだろう。だが長いようで短かった高校生活はこれで終わる。
 ――終わりにするんだ。夢はいつか醒めるもの。醒めない夢はないけれど、このどうしようもない夢は簡単には醒めてくれそうにないから。せめてものお礼だけを告げて終わらせる。


「…………おい、御幸」


 くるりと背を向けようとしたタイミングで呼ばれる。振り向けば鋭い眼光が眼鏡の奥の琥珀を真っ直ぐに見つめた。


「自分だけ言いたいこと言って勝手に終わらせようとしてんじゃねーよ」

「何? やっぱり俺に用事でもあったの?」

「用もねぇのに誰がテメェを探すかよ」

「それ、さっきと言ってること全然違うけど」

「お前だって俺が来なけりゃどうせ何も言わずに消えたんだろ」


 消えるって、連絡先も大学も知ってるだろと返せばそういうことじゃねぇと低い声で言われる。
 確かに、倉持がここに来なければさっきの話しはなかっただろうけれどそんなのは大したことでもない。俺にとっても、倉持にとっても。何が悪いというのか。
 そう考えていると一歩、いやもう三歩分くらいつかつかと距離が縮められる。


「言いたいことはそれで全部か?」

「……そうだけど」

「なら俺の話も聞け」


 話なんてあったのかと思うが、本当に何もないなら探しになんて来ていないのか。気付いてしまったから仕方なく、という可能性は有りそうだったけれどこの反応からして違うのだろう。
 だが、それならこいつの目的は何なのか。答えはすぐに本人の口から告げられた。


「好きだ」

「は?」


 だから好きだっつってんだよ、と幾らか怒気が含まれていそうな声で言われる。何を怒っているかといえば、この場合御幸のこと以外にないわけだが。


「何が?」

「……お前のそういうところも含めて全部だよ」


 そういうところってどういうところだよ、と聞くのは止めた。平静を装って聞き返してはみたけれど倉持の言おうとしたことが分かってしまったのだ。何せそれは先程御幸自身が隠した言葉だった。
 信じられないけれど、じっと見上げてくる瞳から逃げられない。逃げるなと言われているような気がした、なんて気のせいかもしれないけど。


「逃げるな、御幸」


 今度ははっきりと言葉で言われたから気のせいでもなかったらしい。何から逃げるなと言っているのかは嫌でも分かる。
 心臓が五月蝿い。胸が苦しい。どうして最後にすっぱり捨てようとしたものにこいつは気付いたのか。何でいつもこいつにはバレてしまうのか。隠し事は苦手な方ではないし、実際こいつ以外なら気付くことなんて殆どないのに。


「……逃げるな、って。本気で言ってんの?」

「本気じゃなくちゃ言わねーだろ 」


 チームメイトの同じ男に、最後の最後でこんなくだらない嘘など吐かない。吐くわけもない。だけど。


「バカじゃねーの」

「お前にだけは言われたくねーよ、このバカ」

「本当、バッカじゃねぇの」


 信じらんねぇ。そう呟いた御幸にだからバカはお前だと倉持が言い返す。
 どう考えてもバカはそっちだろう。捨てようとしたものに気付いて、そのまま気付かない振りをしてくれれば良かったのに。男同士で、報われないと分かっていた恋を捨てる覚悟はとっくにしていたのに。


「もう諦めて俺のものになれよ」


 御幸、と聞き慣れた声が呼ぶ。いい加減諦めろと。
 気付かない振りをしてくれれば良かった、けれど倉持はそれをしなかった。それどころか諦めろとまで言ってくる始末だ。どうすれば良い、と声に出していたの諦めれば良いと返ってきそうなものだ。見て見ぬ振りをするのは、捨てようとしたってどうせ捨てられないのだから。


「……本当、バカだろ」

「だからバカはお前だっつってんだろ」


 何度も言い合っているそれを「そうだよ」と突然肯定したら虚を衝かれた倉持がじっと御幸を見た。その視線に漸く御幸は顔を上げる。


「俺もお前もバカだから、全部捨てるチャンスを捨てようとしてるんだろ」


 卒業は人生のターニングポイントだ。これがこの気持ちを捨てる最初で最後のチャンスだ。もしもこの恋心を捨てられなくても終わらせるならここしかない。
 卒業して、会わなくなれば。そんな淡い期待は相手の方からぶち壊された。それでもこちらが本気で捨てようとすればこの話は終わる。けど。

 大きく深呼吸をする。相変わらず心臓は五月蝿いままだけど、それこそもうここしかないのだろう。捨てようとした俺と捨てなかったこいつ。正反対の俺達。でも、だからこそこんなにも惹かれるのか。


「後悔しても知らねーから」

「しねーよ」

「俺はお前が逃げられるようにしたからな」

「逃げようとしてたのはお前だろーが」

「お前が思ってるより面倒な男だと思うけど」

「んなモン知ってる」


 全ての言葉に即答される。捨てる覚悟と共に歩く覚悟。同じ覚悟なら。


「なら、お前も俺のものになってよ」


 どうせ忘れようとしたって忘れられない。それでもここで捨てれば倉持にとっての俺は高校時代の仲間のままでいられると思った。
 しかし向こうがそれを破るというのなら、捨てるよりこの先も一緒にいる覚悟を決めるべきなんだろう。それが本当に正しいかは分からない。けれど、少なくとも自分の気持ちが本物であることだけは確かだ。そして倉持の気持ちが本物であることも事実だから。


「……俺は最初からそう言ってんだろ」

「そうだっけ?」

「それをテメェが――」

「でも好きなんだろ?」


 ぐっと一瞬言葉に詰まりながらも「そうだよ」とぶっきらぼうに返される。たったそれだけのことを嬉しいと思ってしまうのだからやはりこの気持ちを忘れるなんて一生無理なんだろう。忘れられないだろうから、もう会わないと一人心に決めたのだがそれも見破られてしまったのだから仕方がない。


「俺も、倉持が好きだよ」


 告げていなかった大事な言葉を口にする。


「知ってる」


 するとそのように返って来て思わず笑ってしまった。そこからはまたいつものやり取りが始まる。でもその何でもないやり取りに何だか幸せに感じた。








卒業という人生の大きな分岐点
後悔しないための覚悟を決め、新たな道へ俺達は二人で一歩足を踏み出した