僕が生きてきた時間の中で彼と過ごした時間は極僅か。けれど、その時間はとても充実しているといえるだろう。
幼かったマスターも今では客員剣士として王国に努め、今日も仕事でここ――ノイシュタットまでやって来ていた。
「綺麗ですね」
ひらひらと舞い落ちるそれを見て言えば、短く同意を示す言葉で返された。きっと、この花を見にやって来た人達もこの場には居るのではないだろうか。勿論、僕達がここへやってきたのは仕事の為だけど。
といっても、その仕事も終わったところだったりする。船が出るまで時間があるからこうして街の中を歩いていたというわけだ。
「だが、綺麗なのはあと数日だけだ」
「植物ですからね。でも咲いてる時に見れて良かったじゃないですか」
別に桜を見に来たわけではないと言われたけれど、時間があるなら桜でも見て行きませんかと聞いたらここに来てくれた。仕事も目的ではなかったとはいえ、桜を見ようとしてくれたことは確かだろう。
綺麗に咲いているのはあと数日でも、今は綺麗な花を見ることが出来る。だからこそ、桜を見に行かないかとこのマスターに尋ねたのだ。
「まあまあ、せっかく見に来たんですから今は楽しみましょうよ」
楽しむ、なんていっても手元には何もないから本当にただ見るだけだ。どうせならノイシュタットの名物であるアイスキャンディーを食べるのも悪くないと思うけれど、生憎今日は休みらしく店が開かれていない。残念だがこればかりは仕方がない。
「そういえば、桜の木の下には死体が埋まっているっていう話があるんですよね」
「迷信だろう」
ばっさりと切り捨てるあたりは彼らしい。実際にどうなのかは知らないけれど、僕も本当に桜の木の下に死体が埋まっているんじゃないかと信じているわけではない。ただ、それでもそういう話があるのは事実だ。
「分からないですよ。もしかしたら本当に……」
「仮にそうだったとしても、そのせいで桜が赤くなるなんて有り得ないだろ」
それはそうですけど、と言いながらあれ? と疑問が浮かぶ。だがすぐに納得した。このマスターならむしろ、知っていて当然かと。
「坊ちゃん、この逸話知ってたんですね」
「前に本で読んだことがあるだけだ」
それと逸話ではなく、元々はとある小説の話だと彼は付け加えた。本当に色んなことを知っているマスターである。
「へぇ、ちゃんとそういう話があるんですね」
「お前はどこでその話を聞いたんだ」
「どこでと言われても、その辺で聞いたことがあっただけですよ」
どこで聞いたかなんて覚えていない。そんな些細なことだ。それを思い出して口にしてみたのだが、物知りなマスターにあっさり切り捨てられるどころか正しい答えまで教えられてしまった。お蔭でこんなに綺麗なのにどうしてそんな話があるのかと思っていた謎まで解決してしまったわけだ。
「でも、何で桜の死体に死体があるなんて話になったんですか?」
「それはその物語の主人公が満開の桜を見て、そういうことを考えたからだろう」
今目の前に広がっている桜もほぼ満開。その物語の主人公はこの光景を見て、この木の下には死体が埋まっているのではないかと考えたのか。
あくまでもそれは物語の話であって、現実に起こったことではない。フィクションなのだから、どうしてと考えること自体が間違っているのだろうけれど。
「こんなに綺麗なのに」
「綺麗だからこそ、だろ」
その物語の主人公は、美しい桜の花を見てそう思った。同じものを見ても感じ方は人それぞれとはいえ、そういう考え方になるなんて不思議だなと思う。まあ、それは作り話だけど。
だけど、今こうして桜を見ていてもすぐ傍の彼と僕とでは違うように感じているのだろうか。いや、違うように感じるのが当たり前なのかもしれないけれど。
「…………」
彼の目には、一体この桜はどう映っているのだろうか。風に揺られてひらひらと花弁が舞う様子も、沢山の白い花が咲いているこの光景も。見えているものは一緒のはず、だけど。
(坊ちゃんにはこの桜、どう見えていますか?)
浮かんだ質問は音にせず、ただちらりと彼の横顔を見た。その紫の瞳は真っ直ぐに桜の花に向けられている、と思ったが。
「何だ」
さっきまでは桜に向けられていたはずの瞳が外れ、今はこちらに紫の双眸が向けられている。何も言っていなかったはずだけど、それでもこのマスターには分かってしまったらしい。
「いえ、坊ちゃんにはこの桜がどう見えているのかと思いまして」
ふと気になったことではあったもののわざわざ聞くほどのことでもないと思って言わなかった。でも、聞かれたからそれを直接尋ねてみた。
――が、答えは予想通り。
「どうも何も、お前と同じように見えているだろう」
何を馬鹿なことを言っているんだという風に言われて「そうですね」と思わず笑みが零れた。
聞いたところで、きっとこういう答えが返ってくるんだろうなと思っていた。僕達はソーディアンとマスターとして繋がっているけれど、それぞれ別の意思を持っている。まあそれは当然のことで、だから同じものを見ても違うように感じるのだって当たり前。
それでも、何もかもが違うように感じているわけじゃない。一緒に同じものを見て、同じように感じて。今この時を共有している。
「そろそろ時間になるか」
「そうですね。戻りましょうか」
船の出航時間は間もなくだろう。今から港に向かえば丁度良い頃合いになりそうだ。
くるりと背を向けて歩き出した幼いマスター。ダイルシェイドに戻ったらまた忙しい日々を過ごしていくことになるんだろう。今も仕事の一環でここに来ているわけだけど。
「坊ちゃん」
「何だ」
「また一緒に見に来ましょうね」
この桜の花を。今度は休みの日にでもゆっくりと。
言えば、気が向いたらなとぶっきらぼうに返された。その言葉通り、気が向いたらその時はここに一緒に来てくれるのだろう。それがいつになるかは分からないけれど、きっといつの日か現実になるに違いない。
「次に来る時は、アイスキャンディーのお店もやってるといいですね」
「桜を見るんじゃないのか」
「アイスキャンディーを食べながら見るのも良いじゃないですか!」
どちらか一方しかいけないなんて決まりはない。楽しむのなら両方楽しんだ方がお得だ。
こう見えて甘い物が好きな彼もアイスキャンディーに全く興味がないわけではないだろう。約束ですよ、と言っておけば次に来た時に仕方なく付き合ってくれることだろう。
「分かったから行くぞ、シャル」
「はい」
次に来た時も彼と一緒に同じものを見て、同じようにこの気持ちを共有するんだろう。そうして過ごす何でもない時間もこのマスターには必要なものだと僕は思っている。
本人は否定するだろうけれど、たまにはそういうのも悪くないと思うんです。だからまたいつか、今日の約束を果たす時にここに来ましょう。二人で一緒に。
相当侵食されていると思う、心の奥底まで
(いつからか、貴方は僕にとって特別な人に)