「御幸センパイ」
やけに真剣な顔で呼ばれてどうしたんだと思ったのも束の間。
「キスがしたいです」
相変わらず予想の出来ない沢村のムービングに数秒ほど遅れて「は?」と聞き返した御幸の顔は見る見るうちに赤く染まっていく。ちなみに言った本人も若干視線を逸らしながら頬を朱に染めていた。
「だから、キスがしたいんです」
御幸の言葉を聞き取れなかったと勘違いした沢村が繰り返す。
いや聞こえてるから、と内心で突っ込んだ御幸はけれどやっぱり聞き間違いではなかったかとすぐ傍の後輩へ視線をやった。キスがしたい、なんてまさかそんなことを言われるとは思いもしなかった。それもあの沢村に。
「どうした? 急に寂しくなったのか?」
「そうじゃねぇけど、それでもいいです」
とりあえず平然を装って茶化してみたけれど琥珀の瞳は御幸から一向に外れる気配がない。調子が狂うなと思いながら本当に何だって言うんだと御幸は頭の中で考える。やけに素直な後輩はさっきの今で何を考えたのかと。
一応自分達が恋人という間柄であることを思えばキスがしたいというのも別段おかしな発言ではない。今までそんなことは一度だって言われたことはないし、そもそもキスだって付き合うことになったあの時にしたきりだ。だからこそという話なのだろうか。けど唐突すぎないか、と先程から脳内の独り言は堂々巡りしている。
「……したいならすれば良いんじゃねーの」
たっぷり十数秒、流れた沈黙を破って御幸が言う。正直にいえば、御幸には沢村が求める答えが分からなかった。キスをして欲しいのか、とは思ったが沢村が先程口にしたのは“キスをしてくれ”ではなく“キスがしたい”だ。
――いや、そこは重要なポイントではないのだが突然こんなことを言われてもどうしたら良いのか。勿論、嫌というわけではないのだけれど。
「しても良いんですか?」
「して欲しいならしても良いけど」
念のために御幸が付け足すと「ならそっちで」と返ってきた。そっちだったのか、と思いながらじっと見つめてくる後輩に視線を戻す。
「……その前に一つ聞きたいんだけど」
何でまた急に、とまだちゃんとは答えてもらっていない問いを御幸が口にする。寂しくなったからではないだろうことは分かったが、しかし何故突然このようなことを言い出したのか。
「したくなったから、以外に理由なんているんですか」
「……いらねーかもだけど、そこに理由があるなら知りたい」
「そりゃあ、御幸センパイが好きだからしかなくないですか」
好きでもない相手とキスをしたいなんて思わない。他に理由があるなら逆に知りたいんですけど、と若干唇を尖らせながら恋人は言う。
言われてみればそれもそうか。沢村の言葉に御幸も納得はしたが急であることに変わりはない。けれど考えてみればまずこうして理由を探すこと自体が間違っているのかもしれない。
そう思った御幸は考えることを止めて手をそっと恋人の柔らかな頬へ伸ばした。
その手が触れて数秒、ゆっくりと琥珀は瞼の向こうに消えた。五月蝿いほどの鼓動を聞きながら、互いの唇が触れたのはそれから五秒後のことだった。
「……センパイ、顔真っ赤ですよ」
「お前にだけは言われたくねーよ」
人のことを言えないくらい沢村の顔も赤く染まっていて、ぶはっと笑った沢村は「そうですね」とまた素直に頷いた。そんな恋人を眺めながら御幸は小さく首を傾げる。
「……何か良いことでもあったのか?」
「何スか急に」
「今日はやけに素直だから」
「失礼ですね」
俺だってそういう気分の時もあります、と沢村は否定をせずに答えた。おそらくはそこまで気が回っていないだけなのだろうが、それを言うならそっちだってと沢村は御幸を見た。
「今日は随分優しいじゃないですか」
「俺はいつも優しいだろ」
「なら球受けてくださいよ」
それとこれとは別だと言った御幸は今日だって十分受けてやっただろと続ける。腑に落ちない顔をしながらも「まあそうですけど」と沢村はそれ以上食い下がることはしなかった。どんなに練習がしたくてもオーバーワークにならないようにこの捕手が球数管理をしてくれていることは分かっているのだ。
それに今は、と思ったのはここだけの話だが。もっと茶化されるかと思ったと呟いたのは本音で、実際に茶化されはしたのだがちょっと意外たっだというのが沢村の感想らしい。
「意外って?」
その沢村の言葉を聞き返したのは何が意外だと思われたのか気になったからという単純な理由だ。するとああいう反応が意外だったのだと言われて「あー……」と御幸は分かりやすく視線を逸らした。
「普通、恋人に突然あんなこと言われたら驚くだろ」
「でも御幸センパイですし」
お前俺のことなんだと思ってんの、と思わず零したら「だって御幸センパイですよ」と先程と殆ど変りのないことを言われる。全く意味が分からない御幸が怪訝そうな表情を浮かべたところで、キスがしたいと言っただけであんな風に照れるとは思わなかったのだと漸く明確な答えを得られた。
「そりゃ、相手がお前だし」
「御幸センパイって普段から人のことからかってくるしキスだって初めてでもないでしょう」
「からかうのとキスは別だし、キスが初めてじゃないのはお前もだろ」
お前だって顔赤くしながら言ってきただろうと暗に言ったそれに「俺は御幸センパイが初めてです」なんて返ってくるものだから「俺だってお前が初めてだよ」と当然のように答えた。
どちらも前にしたのはあの一度きりでお互いが初めてだという意味で言ったのだが、次いで沢村の口から出てきたのは「え?」という疑問の声。
「御幸センパイって、俺が初めてなんですか?」
「だからそう言ってんだろ」
何だよ今更という風に御幸は言うが沢村の瞳はまん丸くなっていた。絶対彼女とかいたと思っていたというその発言こそがついさっきの沢村が言った御幸だからという言葉の本当の意味なのだろう。
今までずっとそう思っていたのかよと言いたくもなったが、結局溜め息を吐いた御幸が口にしたのは「だから当たり前だろ」という言葉だけだった。好きな相手にキスをしたいと言われれば照れもするし顔だって赤くなる。今だってなかなか引く気配のない熱をどうしようかと思っているところだ。
「そっか、そうだったんですね」
本当に今更、そんなことで嬉しそうな顔をされて。どうしたら良いか困った御幸は「沢村」とその名前を呼んでもう一度恋人の頭に手を回した。
「……やっぱり御幸センパイ、今日は素直じゃないですか?」
「お前相手だからな」
好きだからキスがしたい。好きだからそういうこともしたくなるし、したいのならすれば良い。でも好きな相手とするそれは気恥ずかしさもあって顔は赤く染まり、まただからこそこんなにも心は満たされるのだろう。
どちらも未だに頬を赤く染めたまま、どちらともなく笑い合った。
好きだから
それ以上の理由なんて何もいらない
たったそれだけで俺達はこんなにも幸せな気持ちになれる