ソイツに初めて会ったのは、電車の中。朝の通学、通勤ラッシュの中でふと目に入ったその色。思わず見惚れてしまって、カーブに揺れた車両で転びそうになったことはここだけの秘密だ。
 降りる駅はオレよりも三つ手前で、この辺りでは有名な進学校に通っているらしい。本人に聞いた訳ではないけれど、流石に近辺の学校の制服くらいは把握している。そもそも、聞く以前に話したことすらない他人なのだ。




姿





 名前も声も何も知らない。ただなんとなく、一目見た時からその姿が頭から離れずに目で追ってしまう。唯一分かっているのは高校だけ。オレが電車に乗る時にはもう乗っていて、利用している車両と時間を把握している程度だ。


「なんっつーか、オレは女子かよ」


 冷静に自分の思考を分析しては呟いた。最初に見た時から気になっていて、また会えないかと思って同じ時間の同じ車両に乗ってみた。それが始まりで、それからはその電車に乗り続けて早数週間。
 その日は偶々早く起きたから普段はギリギリな時間に登校するものの、起きてしまったからという理由だけで余裕を持って登校をしていた。お蔭でその時間の電車に乗っているこの数週間は遅刻になることもなく、「どうしたの」とクラスメイトに何度聞かれただろうか。


「にしても、よくこの時間の電車で通えてるよな」


 どれだけアイツに会いたいと思っているんだ、と自分でも不思議だ。まず、朝早くに起き続けることが出来ているのにはオレ自身が驚いている。
 前までは遅刻するような時間じゃなくて余裕を持って登校しろと言われても、別に良いだろと流していたというのに。実際それで遅刻をしたりしなかったりであるが、オレにとっては遅刻なんて特に気になることでもなかった。教師側からすれば遅刻なんて以ての外だろうけれど。


「ゴールド居るかー?」


 他に誰も居ない筈の屋上で名前を呼ぶ声が聞こえて、ドアに視線を向ける。そこには同じ部活の先輩の姿。


「どうしたんスか、レッド先輩。珍しいッスね」

「部活の連絡をしとこうと思ってな」


 その為にわざわざ屋上まで来てくれたらしい。多分最初に教室に行ったんだろうけど居なかったから、それなら此処だろうと探してきてくれたのだろう。でも、部活の連絡くらい携帯で一斉送信でもすれば済む話だ。直接会って伝えるなんて手間の掛かることをしなくても良いのに、と話すとたまにはなと返される。そういうものだろうかと思いつつ、今日も部活は顧問が出張だからなしになったと連絡を受ける。


「でも顧問なんて居なくたって、練習くらい出来るんじゃないスか?」

「それもそうなんだけどな。この前の日曜は試合だったし、たまには休息も大事だってさ」

「まぁ、ここんとこ土日もずっと練習ばっかでしたからね」


 それも大会が近いからという理由があるのは部員全員が分かっていることだ。優勝を目指しているのだから練習を重ねるのも当然のこと。だが、顧問が出張で居ないのならたまにはそんな日も有りかもしれない。どうせ明日からはいつも通りの練習の日々が待っているのだ。顧問の言う通り、たまには休みも良いだろう。


「ところでゴールド、最近なんかあったのか?」


 部活の連絡も終わって先輩は教室に戻るのだろうかと思っていたところ、突然そんな疑問が飛んできた。いきなり過ぎてどうしてこうなったのか分からず、とりあえず「何でですか」と話の意図を聞いてみることにする。


「お前が遅刻しないなんて珍しいじゃん。それも最近ずっとだろ?」


 そのことかと分かると「別に何となくですよ」と答えておく。それにしても、クラスメイトといい教師といい、オレが遅刻しないような時間に来るのはそんなに珍しいというのだろうか。普段の行いがどうとか言われるのがオチだっていうのは分かってるけど、なんか納得いかない。


「オレだって毎日遅刻してた訳じゃないんスけど、そんなに遅刻ばっかりしてるイメージなんですか」

「遅刻してなくてもギリギリばっかりじゃん。そりゃ珍しくもなるって」


 先輩の言うことは間違っていない。もうそういうことにしておこう。遅刻したりサボったりしているのは事実なのだからあまり言い返せるものでもないし。


「てっきり何かあったのかと思ったのにな。つまんないの」

「レッド先輩、何があったと思ったんスか……」

「そうだな。ほら、好きな人が出来て少しでも早く会いたいからとか」


 何を言い出すんだこの人は。好きな人って、そりゃ美人や可愛いギャルならいつだって大歓迎だけど。
 …………好きな人? そういえば、オレは何でアイツに会いたいって思うんだろう。先輩が来るまで考えていたそれの答えは見つからずにいた。ギャル達とにはすぐにでも話し掛けるのに、アイツとは話してみたいと思えどなかなか話せずにいる。
 この違いは何なのだろうか。その違いにはちゃんとした理由があるのだろうか。


「ゴールド、おいゴールド!!」


 大声で呼ばれて慌てて返事をすると、隣で先輩が笑い出す。あれ、もしかしてオレ一人で考え事をしてたのか。だってさっきまで普通に話していたんだもんな。どれだけ考えに没頭してたんだよ。


「全然気付かなかったな。何、悩み事? それとも、本当に好きな人が出来たのか?」

「そんな訳ないですよ!」


 急いで否定したけれど、逆にそれを怪しまれる。
 好きな人って、それはない。それだけはない筈だ。だってオレもアイツも男だし、名前も何も知らないのに好きとかあるのか。第一、オレは普通にギャルが好きなんだからアイツが好きとか有り得ないだろ。


「本当か? 好きな人が出来たなら、オレが相談に乗ってやるぞ」

「だから違いますって! あーもう、次の授業始まりますよ!」


 明らかに疑われているけれど、それは絶対にないと話を終わらす。丁度タイミング良く始業のチャイムが鳴り響き、オレはそのまま屋上を後にした。

 気になるけど、好きとかそういうのではない。そんなことある筈ないんだ。



 □ □ □



 ゆらりと風に靡くカーテン。その隙間から差し込むのは太陽の光。顔に当たる光にゆっくりと目を開くと、外がすっかり明るくなっていることに気付く。もう朝か、と呑気に考えた次の瞬間に飛び起きて手元の時計を確認する。


「あ」


 現在の時刻は九時。そりゃぁ外も良く晴れてるよなと思いながら溜め息を一つ。これは遅刻するしない以前に、既に遅刻決定だ。一時間目の授業は始まった頃だし、今から家を出て学校に着くのは二時間目の途中くらいだろう。
 昨日は先輩に言われたことが引っ掛かって、寝るのが遅くなったんだよな。結局何時ぐらいまで起きてたんだろう。そんなことより、今はさっさと支度して家を出なければいけないんだけど。


「この際、もう諦めるかな」


 自分に言い聞かせるようにポツリと零す。自分でも分からない感情にぐるぐる悩まされるのもこれで終わりにしよう。一人で答えの出ない迷宮を探し回るのなんて疲れるだけだ。一方的に名前も知らないアイツのことを探してしまっただけで、向こうには何の関係もない。今日からは元の生活に戻れば、何もかもが元通りになるだろう。
 そう決めて、机に放られていた鞄を手に取るとそのまま家を出た。近くのコンビニで適当に朝食を買うと、学校に行くべく駅に向かう。もう会うこともないだろうな、という思考を頭から振り払うと改札を潜ってホームへと足を進めた。


「おい」


 いつものホームに辿り着くと、ふと声が聞こえてきた。それが誰に向けられているものか最初は分からなかったのだが、ラッシュ時間の過ぎたホームに人は少ない。もう一度言葉を繰り返され傍に人が居ないことを確認すると、声のする方を振り返る。


「オレに何か用……」


 視界に入ったその人物に、思わず言葉が途切れた。
 否、だっておかしいだろ。何でコイツが此処に居るんだ。その理由が分からない。それより、何でオレに話しかけてきたんだ。
 疑問ばかりが頭の中を埋め尽くしていく一方で、目の前の彼はオレに向かって話す。


「体調が悪いのかと思ったが、そうではなさそうだな。ただの遅刻か」


 好き放題話してくる奴に、さっきまで纏まらなかった思考は全部どこかに飛んでいった。どうしていきなりこんなことを言われなくてはいけないのか。


「お前、それが初対面の奴に言うことかよ!」


 公共の場であることも忘れて言い切れば、向こうは一瞬驚いた顔をしたがすぐに含みのある笑顔へと変えた。


「初対面、といえばそうだったな。だが、見ていたのはそっちだろ?」


 それを聞いて言葉を失った。見ていたって、それは当然ここ数週間の電車でのことを指しているのだろう。そのくらいは分かるけれど、どうしてそれをコイツが知っているんだ。もしかしなくても、気付かれていたということだ。
 そこまで見ていたつもりはなかったけど、オレはそんなに見てたのか。ってか、これはどういう状況なんだよ。気付かれてたってことは、いい加減やめろみたいな文句を言う為に探してたとか? 確かに同年代のしかも男に見られてたっていい気はしねーよな。オレだったら文句の一つくらい言うし。


「まぁそんなことはどうでも良いが」


 どうでも良いのかよ! って、そうじゃなくて。


「何でお前が此処に居るんだよ。此処に居るってことは学校行く途中だったんじゃねぇの?」


 そう、まずはそこだ。オレがいつも使っているこの駅から乗る時には既に乗っているのだから、確実にこれより手前の駅から乗っているのだ。制服を着ている辺り、明らかに学校に行く途中。向こうの学校の始業時間なんて知らないが、どう考えてもこの時間は遅刻だろう。


「お前が居なかったからな」

「は?」


 思わず聞き返してしまった。だって、その理由はおかしいだろう。オレが居ようと居なかろうとコイツには全く関係ない訳で。言葉の真意を読み取ることが出来ない。


「気になってこの駅で降りた。後から考えてみれば具合が悪くて休んだのかもしれないと思ったが、ただの遅刻だったということだ」


 ああ、だから最初のあの言葉か。普段見かける時間に居ない場合、考えられるのは違う電車に乗ったか休んだかのどちらかだ。それを考える以前に降りていたらしいが、良く見かける人が居ないと今日は居ないのかぐらいにぼんやり考えることくらいはオレにもある。だけど、流石にそれで電車を降りたりなどは絶対にない。どうしてコイツはそこまでしたのだろうか。


「まぁ大体分かったけど、それで結局オレに何か用でもあったのか?」

「気になったからだと言っただろ。それより、お前こそオレに何かあるんじゃないのか、ゴールド」


 最後に呼ばれた自分の名前に驚く。何でオレの名前を知っているんだ。そりゃぁ、オレだって高校くらいは制服で分かったけど名前なんて本人に聞く以外にどうやって知るというのか。名札を付けている訳でもないというのに。


「何で…………」

「姉さんに聞いた」

「姉さん?」

「あぁ。知り合いの後輩らしい」


 つまり、ウチの学校の先輩がコイツの姉さんの知り合いで、その先輩からオレのことを聞いたっていうことか。続けてサッカー部だろ、と聞かれたから部活の先輩の可能性が高そうだ。先輩なんて何人も居るけれど、もしかしてと思い当たったのは一人。特に理由がある訳ではないけれど、そうではないかと勘が訴えていた。


「わざわざ早い時間の電車に乗るのは、オレに会うためか?」

「別にそんなんじゃねぇよ! ってか、何でそんなことまで知ってるんだよ!」


 なんとなくそんな予感はしていたが、それも先輩が言ったことを聞いたらしい。もうあの先輩だろうと思いながら、何余計なことまで人のことを話してるんだよと肩を落とす。


「それで、お前は何でそんなことを聞いたんだよ」


 この際人のことを知っているのは置いておいて、わざわざそれをコイツの姉さんに聞いた理由を問うことにする。とりあえず、先輩には今度会った時に何を言ったのか話を聞いておこう。


「…………姉さんが教えてくれた」

「いや、それはさっき聞いたから分かってるけど」

「……オレも普段は遅刻をすることもそれなりにあるからな。姉さんの質問に答えたら、知り合いの後輩だってお前のことを教えてくれた」


 そういうことだったのか。考えてみれば他校生なんだけど知ってるか、なんて聞いたりしないよな。そんなの知らない確率の方が高すぎる。
 ちょっと待て。コイツも普段はそれなりに遅刻してるんなら、あの時間の電車に乗っているのはどういうことだ。ここ数週間、オレがあの電車に乗るよりも前までは、違う時間の電車を使っていたということになるのではないか。


「じゃぁ、お前もいつもは遅い電車なのか?」

「いつもという程ではないがな」


 ということは、つまり。この数週あの電車で会えた理由として考えられるのは、それこそさっきコイツが言っていた言葉で。
 そう話しているうちに電車が来たらしく、ホームに車掌のアナウンスが入った。直後やってきた電車に、どちらともなく乗ると、大分空席のある車内で初めて隣同士に並んだ。


「とりあえずさ、お前の名前は?」


 動き出した電車に揺られながら、これだけ話していたというのに未だに聞いていなかったことを尋ねる。向こうは知っているとはいえ、こっちは知らないのだ。人に尋ねる時は自分から、なんて必要もないだろう。


「シルバーだ」

「それじゃぁ、シルバーはいつもどの電車なんだ?」

「あの時間の電車にも乗るが、1本や2本遅い時もあるな」


 結構バラバラなのか。まぁそれはオレも同じだけど。大体似たような時間とはいえ、ちゃんとこの電車なんて決めていないからな。だから遅刻するんだろうけど、別にそれはそれだし。


「けどよ、お前んとこって有名な進学校だよな? 遅刻して平気なのか?」

「問題ない。引っかかる程遅刻もしていないし、成績は良いからな」


 これだから頭の良い奴は。本当、こういうのってズルイよな。元はといえば遅刻したりサボる方が悪いって言われるだろうけど、それでもテストで点を取れる奴は余計な心配要らないんだもんな。こっちは毎回苦労してるっていうのに。ついでにコイツの場合、顔が整ってるから女にもモテるんだろう。あーあ、世の中不平等だ。


「勉強出来る奴は良いよな。こっちはテストの度に苦労してるっつーのによ」


 あえてそう口にすれば、きょとんとしながら銀色が見つめてくる。それから成績が悪いのかと直球で聞いてくるから、開き直って良いように聞こえたのかと言ってやる。これでそう思えたというのならどんな思考回路をしているんだと言いたい。
 それから何か考えるようにシルバーは少し俯く。暫くして顔を上げると、予想もしなかった言葉が出てきた。


「なら、勉強を教えてやる」


 は? 勉強を教えるって、つまりそういうことなのか?
 いやでもコイツとオレは別の学校だし、向こうは有名進学校でこっちは普通の一般的な高校。勉強のレベルだって全然違うし、コイツ自身だって自分の勉強くらいあるだろう。
 どういうつもりなのか。否、オレが勉強出来ないって話したからこういう話になったんだろうけど。だからって実質初対面な奴にそんなこと言うか? 次々に疑問は生まれる。とりあえず、一つずつそれを聞いていくことにする。


「教えるって言っても、お前だって自分の勉強あるだろ? それにこっちはお前ンとこと違ってかなりレベル低いぜ?」

「教えながらでも勉強は出来る。勉強のレベルくらい知ってるし、そっちの方が低いんだから教えられる」


 あー……まぁ、確かにその通りだな。なんか、こう言われると馬鹿にされてる気がしないでもないけど。学校のレベルくらい分かり切ってることなんだから今更だけどさ。
 勉強を教えてくれるというのなら、教えて貰う方がオレにとってはありがたい。一人で教科書と睨めっこしても結局すぐにやめてしまうしよく分からないから。誰かに教わる方が分かりやすいし、何より、教えて貰うことになれば会う約束にもなる。……って、何考えてんだよオレは。


「お前が迷惑じゃねぇんなら、その……教えて貰えるとオレも助かるけど…………」

「それなら決まりだな」


 でも本当に良いのだろうか。問えば良くなければそもそもこんな話を持ち出したりしないと言われた。それならとこの話は成立。連絡を取り合えるようにとメールアドレスを交換する。他校生と知り合える機会なんて限られているけど、こんな出会いもあるんだな。きっかけなんて些細なことだ。
 それから電車に乗っている間は各々のことを話した。どの辺に住んでいるんだとか、今学校で何やっているとか。普通の学生の会話。つい数時間前まではコイツとそんな話が出来るようになるなんて思いもしなかった。
 そうこうしているうちに、シルバーが降りる駅の名前がアナウンスから聞こえてくる。もうそんなところまで来ていたんだな。楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。


「もう降りるんだよな。遅刻はオレのせいにすんなよ?」

「する訳ないだろ。オレが勝手にしたことだ」


 なんとなくそう口にしてみたら、意外とまともに返された。今回のことはシルバーがオレが居ないからって理由だけで電車を降りたのが遅刻の原因。だけど、それはオレ達が出会うきっかけでもあった訳で。


「まぁでも。お蔭でお前と友達になれて良かったぜ」


 素直に伝えれば、銀色の瞳が優しく細められた。それからすぐに駅に電車が停車すると「またな」と挨拶を交わして別れた。オレはもう数駅先の駅から学校に向かう。いつも朝なんて一人だというのに、さっきまでシルバーと一緒だったからか少し寂しく感じる。
 でも、そのシルバーとはいつだって連絡が取りあえる。それが凄く嬉しくて、後で何かメールでも送ってみようかななんて考える。


「人生、何があるか分からねぇな」


 ポツリと一人呟くとポケットから携帯電話を取り出した。人のことを勝手に話した先輩には、何を勝手に話したのかと文句を言うつもりだったけど、これは感謝するべきなのかもしれないななんて思う。



 今まではただ見ているだけだった。それだけで良いと思っていた。
 だけど、ちょっとしたきっかけから話す機会が出来て、連絡先を交換して、会う約束もして。一つの出来事が世界の色を変えてくれた。見ているだけの楽しみが、一緒に居られる幸せに。

 これからどんな日々が待っているのか。
 焼き付いて消えない君の姿は僕のすぐ傍に。










fin