九十のハードル
「センセー」
左肘で頬杖をつきながら、右手ではシャーペンを持つ。ただ、そのシャーペンはさっきから動かないまま。
「どうした」
「全然進まない場合、どうすればいいっスか?」
手元にあるのは、プリントが一枚。最初の方の問題は、幾つか回答欄が埋まっているがそれ以外は真っ白のまま。
どうして今こういう状況になっているか。その理由は簡単で、前回のテストの成績が悪かったからだ。それ故に、放課後に補習ということで残されている。これで次の期末のテストで赤点なんて取った時には、夏休みがなくなるという計算だ。
「進める努力をしろ」
問題を解く手が止まる。それも問題が解けないからなのだが、それを進めようとしようとしても正直なところ無理な話だ。分からないから止まっているのである。そして、だからこそこうして補習に残されているのだ。
努力をしようにも、出来るものと出来ないものはある。努力をしても難しいものだってあるのだ。例えば、このプリントのように。
「センセー、努力して出来るのならオレはここにいないと思うんスけど」
そのまま伝えると、シルバーは溜め息を一つ吐いた。ゴールドの言い分が分からない訳でもない。分からないものを教えるために、この場にシルバーも一緒に残っているのだから。
どこが分からないんだと尋ねれば、全部と答えられるのには呆れてしまったが。別にゴールドも冗談で言っているのとは違うのだけれども。
「しょうがないじゃないっスか。一人で全部解けとか、無茶だと思いますよ?」
「……だろうな」
補習で残しているのだから、解けなくても怒ってばかりでも仕方ない。シルバーが端から問題の解説を始める。シャーペンで説明を書き加えながら、分かり易いようにと丁寧に解説をしてくれる。
それを聞きながら、漸く止まっていた手を動かし始める。淡々と問題を解いていくと、途中でゴールドはピタリと止まった。シルバーは不思議そうに見た。すると、ゴールドが銀色を見て口を開いた。
「あのさ、センセー。オレがもし次のテストで全教科八十点以上取ったら何かくれませんか?」
「八十点以上ってな…………」
突然のゴールドの提案に、シルバーはどうしようかと悩む。なかなか答えを出さないシルバーに、ゴールドは「それじゃぁ」と再び声を発する。
「何点取ったら良いっスか? 九十点か、百点か。百点は厳しい気がしますけど」
より高い点数を提案してくる。ここで補習を受けていて、全教科百点は相当厳しいものがある。そんな点数を取るのは、学年トップだって難しいと思われるくらいだ。
それでも引き下がる気のない様子を見る限り、何点かを設定しなければいけないのだろう。今は補習を受けているくらいの点数で、それだけ点数が取れたのなら十分な結果といえる。暫しの間考えて、仕方ないとシルバーはやっと答える。
「全教科九十点以上取ったらな」
「ハードル高いっスね……」
「何か貰うのであればそれくらいやってみせろ」
厳しいなとゴールドは呟く。
けれど、その表情は苦ではなく。口の端を上げて笑っている姿は、面白がっていると言った方が正しいだろう。
「約束ですよ、センセー」
「取れたらの話だからな。そしてこの問題をさっさと解け」
「オレ、絶対に全教科九十点以上取りますから」
そう誓って、再び問題に取り組む。
いくらなんでも九十点以上は難題だっただろうか。
けれど、他の生徒には何もしないのだ。そうなると、それくらいは取って貰わないと何かするのもどうしようかと思うところだ。
それで設定したハードルが九十点以上。
シルバーは、この点数をゴールドが取るのは大変だろうと分かっている。中間テストの結果を見れば、容易いことではないのは分かる。
本当に九十点以上を取れるとは、正直のところ思ってはいなかった。赤点ではなく、どれも六十点以上くらい取れれば十分だろうと思っていた。
期末テストが終わるまでは。
「どうっスか、センセー?」
約束をしていた期末テストが終わって、一学期の終わり。終了式の日を迎えた。どの教科も今日までにテストを返却するように、各授業や担任を通して全てテストは生徒に行き届いた。
終了式にHRと、全ての行事が終わった。放課後の教室に、ゴールドとシルバーの二人は残っていた。ゴールドが広げているのは、期末テストの答案用紙の数々。
「まさか、お前が…………」
答案用紙に書かれた沢山の丸。シルバーも自分の科目の採点をしながら、ゴールドの点が約束の点を取れていることは知っていた。知っていたけれど、それが全部の教科であるとは知るはずもなく。
いざテストの答案用紙が揃ってみれば、見事なまでの赤い丸に右上の点数は約束の点数に達している。
「オレだってやれば出来るんスから」
そう言って笑うゴールド。九十点以上をきっちり全教科で取ることが出来たのだ。これで、約束の何かを貰えるという条件はクリアだ。
テストを見ていたシルバーは、視線を上げてゴールドを見る。中間テストから、この期末でここまでの成績を出すことが出来たのだ。その努力は認める。そして、約束も当然守る。
「約束、だったな。何が欲しいんだ?」
「オレの欲しいものっスか?」
それは……。
そこまで話すと、ゴールドはシルバーにキスをした。驚くシルバーにニヤリと笑みを見せた。
「オレはセンセーが欲しい」
は、とつい声を漏らしたシルバー。コイツは何を言っているんだ。考えるだけ頭が痛くなりそうだ。
けれど、ゴールドの次の言葉は更にそれを上書きするようなもので。
「オレはセンセーのこと、好きですから。何のために補習を受けてたと思ってるんスか」
最初に言った言葉も聞き流せるようなものではない。けれどそれ以上に、次に出てきた言葉はどういうことなのか。
何のために補習を受けたか。補習とは、赤点を取らないようにするために行っているものだ。だが、ゴールドの言い分ではまるでわざと受けたかのように聞こえる。
「何のためって、補習はお前の中間の成績が悪かったから」
「あんなの真面目にやってないだけですよ。まぁ、センセーは新任だから知らないとは思いますけど」
シルバーは、今年から教師になった、所謂新任教師なのだ。それで知らない、と言われるのはどういうことなのか。尋ねれば、ゴールドは悪戯を思いついた子供のように笑って答える。
「本当はオレ、成績いいんスよ。真面目にやればの話ですけどね」
去年の新入生の中で、授業もちゃんと受けない問題児がいた。教師達も困っていたのだが、いざテストを受けさせてみると、どの教科も成績優秀という結果が残った。それ故に、教師達も授業中に注意はしてもテストで結果を出されては何も言えなくなっていたのだ。
その問題児というのはゴールドのことで、新任のシルバーがそれを知っている訳でもなく。中間テストの時には、補習を受けるためにわざと悪い成績を出した、というのが真実だ。
「それで、約束だからセンセー貰いますね」
「おい、ちょっと待て」
なんスか、と不機嫌そうにシルバーを見る。
けれど、シルバーだって約束だからとまさかこんなことを言われるとは予想外だ。それ以前に、中間の成績はわざと出したものだとまで言っているのだ。それで約束がどうと言われても、というのがシルバーの心境だ。
「本当は出来るのにやらなかったのは、お前だろ。それで約束も何もあるか」
「でもセンセーは約束しましたよね?」
「それはそうだが……」
いくら約束をしたといっても、事実、ゴールドは手を抜いていただけのこと。それで何かをあげる必要はあるのだろうか。それも欲しい物が欲しい物だ。約束とはいえ、それは有効なのかどうかを考えさせられる。
「オレはセンセーとの約束をちゃんと守りました」
「だが、それはお前がわざとやっていたんだろ」
「だけどセンセーは約束しました。約束は守らないといけないと思いますけど」
「……約束は守るとしても、オレを欲しいというのはどうなんだ」
知らなかったとはいえ、約束は約束。ゴールドの言うことも一理あるのだ。だから、シルバーもそこは守ることに決める。
けれど、その内容もまた問題だ。シルバーがゴールドに尋ねると、ゴールドは思ったことをそのまま口にする。
「そのまんまっスよ。オレはセンセーが好きだから、センセーが欲しいんです」
それが既に分からないのだが。シルバーがそう思っていることなど、当の本人には理解されていないだろう。
ゴールドからすれば、好きだから。そのために成績を落として補習まで受けて、約束までして手に入れようとしたのだ。ゴールドはただ、シルバーのことが好きなのだ。
好きといっても、二人は教師と生徒。それ以前に男同士という壁があるのだけれど。ゴールドにとっては、そんなものは関係ない。
「色んなややこしいことなんていいでしょ? オレはセンセーされいれば、それで十分です」
真っ直ぐに伝えられる気持ちは、純粋に。金色は銀色を見つめている。
その瞳に、シルバーもどう答えるべきかと悩む。でも、悩んだところでもう答えは出てしまったのだ。ただそのためだけにここまでするような問題児に、何と答えるか。補習をしながらシルバーはゴールドの性格を、ゴールドのことを分かったから。
「約束、だからな。ただし、次からは真面目にテストを受けろ」
シルバーが言えば、ゴールドの表情は一気に明るくなる。嬉しそうに「分かりました」とテストのことも了解する。
それからもう一度、シルバーに口付けを交わして。
「大好きっスよ、センセー」
眩しいような太陽はここでも光っている。
光はいつまでも輝きを。
fin