涙が流せるということ
ぼんやりとした意識が徐々に覚醒していく。それに合わせるようにゆっくりと瞼を持ち上げれば、目の前には不思議な空間が広がっていた。
「どこだ、ここ」
思わずそう呟いたが、単純に考えればあの世というやつなんだろう。自分は既に死んでいるし、大体白いだけで何もないこんな空間が現実にあるとも思えない。とはいえ、あの世というのはこれほど殺風景なものかとも思うが、あの世がどのような場所かなど知らないのだからこういうものなのかもしれない。
けれど、全くないこの場所にいきなり放り出されてどうすれば良いのか。適当にやっていけば良いのだとしてもこれは流石に少々悩む。
「……まあ、もう死んでるわけだしな」
ごちゃごちゃ考えても仕方がないか、とだだっ広いだけの空間を見つめる。本当に何もない場所だけれど、あの時負ったはずの傷は塞がっているらしい。服も最後に着ていたものではあるが血で汚れてはいないというのがまた不思議だ。けれど誰もあの世でまで痛い思いなどしたくないだろうし、そういうものなのかもしれないなとなんとなく思う。
とりあえず、これからどうしようか。そう考え始めた時、突然目の前に強い光が集まり始める。あまりに強い光にクロウは反射的に腕で目元を覆った。何もないだけの空間かと思ったけれど、そうではなかったのだろうか。この光は何なのか、何が起こるというのか。これから起こり得る可能性を考えては次にとるべき行動を頭の中に幾つも思い浮かべる――が。
(は…………?)
光が収まっていくのを感じて現状を確認しようと目を開くと、そこには見覚えのある姿が現れていた。亜麻色の長い髪を後ろで束ね、同年代の中でも小柄なその女の子はいつだって沢山の人の為に動き回っていた。
(トワ……?)
一年と半年ほど通っていた士官学院の生徒会長。そこに現れたのは間違いなく彼女だった。けれどどうして彼女の姿がここにあるのか。まさか自分と同じで死んだわけではないだろう。しかし、それなら彼女がここにいる理由は何なのか。
考えても考えても答えは見つからない。そもそもここはあの世なんだよな、と何もない空間の方に視線を向けて考える。だがその疑問に答えてくれる人は生憎この場にはいない。
いやでも、もしかしたら姿だけそっくりで本物のトワではないという可能性は十分に有る。むしろそちらの方が可能性は高そうだ。何にしてもこのままでは状況は変わらないのだから何かしらの行動に出てみるしかない。
「よう」
まずは話をしてみようとこちらから声を掛けると、黄緑色の瞳が大きく開かれる。何が何だか分からない、そう言いたげな様子にどうしたものかと思いながらも、一先ず久し振りだなと当たり障りのない言葉を続けた。
すると、彼女はこちらの存在を確認するかのように「クロウ、くん?」と名前を呼んだ。信じられないといった表情のトワに苦笑いを浮かべながら、疑問形で尋ねられたその問いに肯定を返した。
「元気にやってるのか?」
「う、うん。今は士官学院を卒業してNGOを巡りながら勉強してるんだ」
無難な問いを投げ掛けてみると、少々意外な答えが出てきて驚く。自分の中では士官学院の生徒会長を務めていた彼女だが、今はその士官学院を卒業しているという。もしかしたら俺が思っているより時間は進んでいるのかと考えて、そもそもその考え自体もおかしいんだよなと現状を思い返す。
「そうか」
たったこれだけのやり取りでは殆ど情報も得られない。けれど、一つだけ分かったことはある。彼女は姿だけではなく、中身もクロウの知っているトワで間違いないということ。死んだ自分には合わない表現だが、強いていうならこれは夢みたいなものだろうか。それなら彼女がここにいることにも納得出来る。
勿論夢というのは間違った表現なのだろうけれど、自分に害を与えるような状況でないのなら今はそういうことにしておこう。夢でも何でも彼女に会えたのなら、今はその事実だけで良い。
「士官学院、か……」
先程トワの口から出たその言葉。つい二ヶ月ほど前までは自分も在籍していたというのに、それは随分昔のことのように感じる。決して戻ることの出来ない、失われた日々。初めから捨てるつもりで乗り込んで、自ら手離したその場所はいつの間に自分の中で大きな存在になっていたのか。
「クロウ君もわたし達と同じ、士官学院生でしょ?」
クロウが捨てたはずの場所のことをトワはさも当然のようにそう言った。他人事のように呟いたそれを確かに聞き取って、自分もその一員だと言ってくれる。
けれど、それは違うとクロウは否定する。全ては計画の為でしかなかった。自分はただ士官学院生という肩書を利用しただけ。彼女が言っているクロウ・アームブラストというのは偽りの姿でしかなかった。真実はとっくに彼女も知っているだろう。
「トワ、俺は」
士官学院の仲間なんかではない。俺はテロ組織のリーダーでお前達の敵だ。全ては偽りで、初めっから騙していたんだ。そう言おうとした俺をトワの言葉が遮る。
「クロウ君は、わたし達の大切な友達だよ」
言ってトワはクロウの手をぎゅっと握った。その手はとても温かく、このよく分からない空間でも温度は感じるものなんだなとどこか的外れなことを思う。この温かさを、温かい場所を俺は自ら手放したっていうのに、彼女は自分をそこに繋ぎ止めようとしてくれる。
彼女の綺麗な手と違って、俺の手はとっくに血で汚れてるっていうのに。おそらく彼女は気にしていないであろうそれはクロウ自身が許せない。それなのに。
「誰が何て言おうと、わたし達にとってクロウ君はとても大事な人だから。……だから、そんな顔しないでよ」
そんな顔、と言われても自分ではどんな顔をしているのかなんて分からない。だけど酷い顔をしてるんだろうなとは思った。
「……トワ、俺はお前に慰められる資格なんかないんだぜ」
トワが本気でそう言ってるんだってことは分かる。けど、俺は自分のやってきたことを後悔なんてしていない。自分で選んで、自分で決めて進んできた道だ。最初から捨てるつもりで、自分の意思で士官学院の連中を裏切った。
「俺は最初から自分の計画の為だけに士官学院に入ったんだ。あの時だって――」
そう、あの時だって俺は躊躇なんかしなかった。通商会議に目の前の彼女が付いていくことになると知っていて、ガレリア要塞にある二門の導力砲を放とうとしていた。全ては鉄血を討つために、その為ならどんなことでもする覚悟で。
「クロウ君」
またしてもトワに言葉を遮られる。多分、トワはクロウがどんなことを言おうとしたのか察したのだろう。その内容までは分かっていないだろうが、咎めるような強い声がそれを物語っている。
「わたしには、クロウ君が何を抱えているのか分からなかった。今もクロウ君が何に苦しんでいるのか分からないし、きっと全部を分かってあげることなんて出来ないんだと思う」
でもね、とトワは続ける。優しげな微笑みを浮かべて、彼女は柔らかな声で言うのだ。
「もしわたし達のことで苦しんでることがあるなら、それは間違いだよ。わたし達はクロウ君に苦しんで欲しくない。クロウ君には笑っていて欲しい。わたしのことをからかったり、アンちゃんと喧嘩したり。ジョルジュ君とみんなで技術棟に集まって笑い合っていた時みたいに」
何でそんなことが言えるんだ、って思う。トワは俺がしようとしていたことの全貌を知らないからそう言えるだけだ。結局あの作戦は失敗に終わってしまったが、あれがもし成功していたとしたらとっくにトワはこの世から居なくなっていたはずだ。ただ士官学院を裏切っただけじゃない、俺はお前のことを殺そうとした。お前にそうやって優しく声を掛けられるような人間じゃないのに。
「最初はクロウ君の言うように嘘だったのかもしれない。だけど、わたし達が過ごしてきた毎日が全部嘘だったなんて、わたしにはとても思えないよ」
真っ直ぐにこちらを見つめる黄緑。握っている手に少しだけ力がこもった気がした。そして何故かトワの方が泣きそうな顔をして言うんだ。
「ごめんね、何も気付けなくて。でも、もういいんだよ?」
どうしてトワが謝るのか。嘘を吐いて騙し続けてきたのはこっちだ。裏で色々なことをしながら何食わぬ顔でお前等と一緒に過ごしてた。全部が嘘で偽り、士官学院での俺はフェイクに過ぎなかったのに。全てが嘘で、偽りの筈だったのに。
……けど、本当は分かっていた。ただの足場にするはずの場所がそうでなくなっていたことくらい。それでも俺にとっての一番は鉄血を倒すことで、そんな俺の元には同じ目的を持った仲間が何人も集まっていた。俺には俺のやるべきことと責任があった。それらは全部俺の罪で、彼女が苦しむことではない。
「……ったく、何でお前が謝るんだよ。どっちかってーと、謝らなきゃいけないのは俺の方だってのに」
「クロウ君が謝ることなんて何もないよ」
そんなことはないと否定するより先にトワに止められる。彼女の人差し指がそっと唇に触れたのだ。小さく笑みを浮かべた彼女は言う。
「わたし、クロウ君のこと信じてるからね」
その言葉に驚く。こんな俺のことを彼女はまだ信じると言うのだ。
トワは同じ士官学院生だった頃のクロウを本当に仲間だと思ってくれている。だからたとえ何度クロウ自身が否定しても彼女はそれを否定して、学院生だった頃のクロウを認めさせようとする。
「……本当、バカだな。俺のことなんてさっさと忘れちまえば良いのによ」
忘れた方が良いんだ。ただのテロリストのことなんて。
けれどトワは忘れないと答える。大切な友達だから、そう言って笑う彼女の笑顔になんだか違和感を覚える。どこか無理をして笑顔を作っているような、でもそれは俺がどうこうという話ではないんだろう。じゃあ何でそんな顔をするんだと考えて、俺はもう一つ見て見ぬ振りをしてきたことを思い出す。
(ここが現実な訳はないけど、今俺がこうしてトワと話をしてるのは……)
あの世かは分からない、しかし現実でないことだけは確かな不思議なこの空間。そこに現れた学院生だった頃の友人。
内戦で命を落とした自分とは違って彼女が死んであの世で話をしているという可能性は低い。しかしここに彼女が居る理由を考えるとするならば、それは俺がトワに会いたいと思ったから。俺がトワに会いたいと思う理由は一つ、そして本当はその想いが同じであっただろうことも気付いていた。終わりの分かっている学院生活の中で絶対にそれに触れないと決めていたけれど、彼女がもし俺の考えていたような気持ちを持っているとすれば。
(もしかしたら、全部俺の想像の世界なのかもしれないけど)
そうだとしたら尚更。現実の彼女が本当にそう思っていたかはともかく、そうだったら良いのにと思ったことも確かにあったのだ。すぐに自分はこの場所を捨てるつもりなのに何を考えているんだと思い直していたのだが、仮にそうだとしたらこの彼女のどこかぎこちない笑顔の意味も分かる。
「クロウ君に会えて良かった。わたし、ずっとクロウ君に会いたかったんだ」
くるりと背を向けて彼女は言う。ありがとう、そう言った彼女に俺もお前に会えて良かったとクロウもまた同じ言葉を繰り返す。
考えてみれば死んでしまった自分が今更取り繕う必要なんてない。目の前のトワが本物でないとしても、トワの姿をしている彼女に言えなかったことをちゃんと伝えよう。それはただの自己満足に過ぎないが、俺にはトワに言わなくてはいけないことが幾つもある。
「ありがとな。それと今まで心配かけて悪かった。約束も守れなくてごめんな」
一緒に士官学院を卒業する。俺が生きていたとしても叶わなかった願いだろうが、死んでしまった今となっては絶対に叶うことのない願いだ。心配は相当かけていたと思う。内戦が始まる切っ掛けを士官学院の連中はヴィータの特殊な力で見ていたというし、西部で俺が何をしていたかも帝国時報に取り上げられたこともあった。士官学院を制圧した際に少しだけ話をしたこともあったけれど、俺は全部気付かない振りを貫き通した。俺の正体が《C》だと知っても彼女達は何も変わらなくて、だからこそ俺も本当のことを言う。
「けどお前等と、お前と過ごした学院生活は結構楽しかったぜ」
失った青春を謳歌しちまったなんて初めて後輩と対峙した時に話したがあれは嘘ではない。ゼリカのヤツが踏み込んできて、それを切っ掛けに計画の為の足場というだけの場所が崩れ始めた。普通に学院生活を楽しむようになって、そうして過ごしてきたあの場所には嘘だったとは言い切れないくらいの記憶が残ってしまった。そう、俺はトワ達と過ごす学院生活が楽しかったんだ。
単純なことなのに俺は自分がテロリストのリーダーであることからそれが認められなかった。認める訳にはいかなかった。でももう良いだろう。時々自分の本分を忘れそうになるくらい、俺は士官学院という場所を楽しんでいた。そこで多くの人と出会い、徐々に打ち解けていくにつれて互いのことが分かるようになっていった。勿論、目の前の彼女のことだってよく知っている。
「あんま頑張りすぎんなよ」
この友人とどこかの後輩はすぐに頑張りすぎるところがある。体調管理はこちらが気にする必要もないのだろうけれどちゃんと息抜きもしてもらいたい。学院生だった頃はクロウやアンゼリカが時々連れ出していたが今はそうもいかない。だから頑張れではなく、頑張りすぎないようにと声を掛ける。頑張れなんて言わなくてもトワは頑張りすぎているほどだ。どちらかと言えば止めてやる方が大切なのだ。
「ありがとう、クロウ君」
そんな俺の言葉にトワはお礼を述べた。俺達に残された時間は僅かしかない。脳が知らせるその警告を聞きながら、彼女もまたそれを分かっているのだろう。くるっとこちらを振り返った彼女は黄緑色の瞳を優しく細め。
「またね」
そう言って彼女は光の中に消えて行く。その背に手を伸ばし、声を上げようとして踏み止まる。だけど今は躊躇をしている時ではない。
消えゆく彼女に手を伸ばしながら彼女の名前を呼ぶ。だがその瞬間、世界は再び真っ白に覆われるのだった。
→