涙が流せるということ
あの日、卒業も近いからと今までに貸していたものを返しに来た彼。何故か友人の分まで返しておいて欲しいとまとめてものを押し付けられたけれど、本当はあの時。彼は何を考えていたんだろう。
次に彼に出会った時、彼はもう士官学院生としてそこに立ってはいなかった。帝国解放戦線リーダー《C》として、貴族派の一員として制圧した士官学院に姿を現した。そこでほんの少しだけ会話をしたけれど、あんなに近くにいたはずなのに彼の存在がとても遠くに感じた。
そしてオーロックス砦で話をしたのを最後に、二度と彼に会うことは叶わなくなった。
「あれ……?」
きょろきょろと辺りを見回す。だが、やはりこの景色には見覚えがない。
否、見覚えがないとかそういう話ではない。ここには何もない。ちょっとした家具も、天井も、青い空も夜に輝く星もない。ただ広いだけの不思議な空間。
「もしかしてこれ、夢……?」
というより、夢以外に考えられないだろう。床でも地面でもないそれを爪先でトントンと叩いてみれば、ここが平らでその上に自分が立っているということが確認出来た。
しかし、立ち止まったままもう一度ぐるりと周りを見てもやっぱり何もない。ただここが白っぽい光のような不思議な空間であること以外の情報が一切ない。さて、どうしたものか。
「夢なら覚めたら戻れるんだろうけど」
それにしても何もないなと、トワは目の前の空間を見つめる。
夢というものは曖昧で、現実に有り得ないようなことまで起こる。いきなり食べ物に襲われたり、何故か空を飛んでいたり、何かの本で読んだ世界に紛れ込んでいたり。そんな非現実的なものから親しい友人達と一緒に技術棟で話をしていたり、時にはトリスタの街まで出掛けていたりするような現実的なものまで。
(夢なら、何か良いことでもあれば良いのに)
何が起こるか分からない、何が起こっても不思議ではない夢の中。起きたら忘れてしまうのかもしれないけれど、どうせ夢を見るのなら悪いことよりも良いことが起きてくれたら嬉しい。
そんなことを考えていた時だった。
突然目の前の不思議な空間に強い光が集まった。
「わわっ」
その光があまりに眩しくてトワは思わず目を閉じた。一体何が起きるのだろうか。まさかあの光から突然魔獣が出てきたりして追い回されたり、なんてことは流石に考えたくない。けれど有り得ない話ではないのが夢の怖いところだ。
そうこう考えている間にも徐々に光が収まってくのが分かる。反射的に目を庇うように出した手を下ろしながら、状況を確かめる為にトワは恐る恐る瞼を持ち上げる。
「えっ…………」
今、ここで起こったことを確認しようと目を開いた瞬間。トワの口から知らずのうちに声が零れた。
だって、そんな。まさか。頭の中に浮かぶのは信じられないという言葉の数々。どうして、何で、ここが夢だからか。いやでも、本当に……。
「よう」
トワがぐるぐる考えている様子に苦笑いを浮かべながら、目の前の人物は「その、久し振りだな」と記憶の中と変わらぬ声で話し掛けてきた。
「クロウ、くん……?」
「……おう」
確認するように問えば、しっかりと肯定された。
やはり見間違えではない。白銀の髪を揺らし、赤紫の瞳を真っ直ぐにトワへと向けるその人は、同じ士官学院生だった大切な友人――クロウ・アームブラストだった。
「元気にやってるのか?」
「う、うん。今は士官学院を卒業してNGOを巡りながら勉強してるんだ」
まだ整理出来ていない頭をなんとか動かしながら、トワはクロウの質問にそう答えた。夢なら何か良いことでも起きれば良いと思っていたけれど、まさかクロウに会えるとは思いもしなかった。たとえ夢だとしても、彼とはもう一生会えないものだとばかり思っていたから。
一方クロウは、トワの言葉を聞いて「そうか」と小さく笑みを浮かべた。それから「士官学院か……」と呟かれたそれをトワは聞き逃さなかった。
「クロウ君もわたし達と同じ、士官学院生でしょ?」
正しくは士官学院生だった、だけれど。トワもクロウも、トールズ士官学院の生徒だったはずだ。
だが、そのトワの言葉にクロウは「それは……」と返答に詰まった。確かにクロウは士官学院生としてトワ達と共に時間を過ごしてきた。だが、それらは全てフェイク。つまり偽りだったのだ。
クロウにとって本分はテロ組織のリーダー、士官学院生であったのも鉄血を討つという己の計画の為。同じ士官学院生として過ごした時間があったのは真でも、それはクロウ本来の姿ではない。今だってクロウは士官学院の制服ではなく、貴族連合の一員であり《蒼の騎士》と呼ばれていた時の格好をしている。
「トワ、俺は――――」
「クロウ君は、わたし達の大切な友達だよ」
ぎゅっとトワはクロウの手を握った。
自分よりも大きな、男の人の手。この手に何度助けられたか。ARCUSの試験導入の時だけではなく、普段の学院生活の中でも彼は何かと人のことを気に掛けてくれた。時にはトワの生徒会の仕事を手伝ってくれたこともあった。
「誰が何て言おうと、わたし達にとってクロウ君はとても大事な人だから」
世間の大半は彼を貴族連合の《蒼の騎士》として見るだろう。帝国の内戦下でも活躍していたという彼を知らない人はこの帝国に殆どいないのかもしれない。
けれど、トワにとっては違う。トワだけではない、アンゼリカやジョルジュ。リィンやⅦ組のみんな、他の同級生をはじめとした士官学院生にとっても、彼は同じ士官学院に通う仲間だった。
「だから、そんな顔しないでよ」
何かを言いたそうにしながらも開きかけた口を噤んで、赤紫の瞳が揺れる。眉間に皺を寄せながら苦しげな表情をして。
多分、彼は本当に苦しんでいるのだろう。これまでも沢山苦しんできて、おそらく今も現在進行形で苦しんでいる。
「……トワ、俺はお前に慰められる資格なんかないんだぜ」
全部自分が決めてやったことだ。それを後悔なんてしていない。自分の意思で仲間を裏切った。否、元々クロウにとっての仲間は帝国解放戦線の方だった。だから、あの時だって――。
「クロウ君」
あの時だって、とクロウが口にした言葉を遮るようにトワはその名前を呼ぶ。クロウの言う“あの時”が何を指しているか分かったわけではないけれど、どんなことを言おうとしているのかはその表情を見れば分かる。自分達はそれだけの付き合いをしてきたのだ。
「わたしには、クロウ君が何を抱えているのか分からなかった。今もクロウ君が何に苦しんでいるのか分からないし、きっと全部を分かってあげることなんて出来ないんだと思う」
仮にクロウがそれらを全て話してくれたとしても、クロウの苦しみを全て理解することは他人であるトワには出来ない。出来ることといえば、精々その話を聞いてあげることぐらいだ。
それで少しでもクロウが楽になれるのなら話なら幾らでも聞く。相談にだって乗る。でも、そういうことではないのだ。クロウはそんなことを望んでいないし、無理に聞き出すことでもない。
「でもね。もしわたし達のことで苦しんでることがあるなら、それは間違いだよ。わたし達はクロウ君に苦しんで欲しくない。クロウ君には笑っていて欲しい」
士官学院の仲間を裏切り、こちらに刃を向けたことか。それとも、自分の目的の為に関係のない人達まで巻き込む作戦を決行したことか。
彼が今、苦しそうな表情を浮かべる理由にはこれらのことが混ざっているのだろう。けれど、そんなことは誰も気にしていない。士官学院のみんなも、トワも。それはトワにとって、そんなことと片付けられる程度のことでしかない。だからそのことで苦しんでいる部分があるのなら、もう気にしないで欲しい。
「わたしのことをからかったり、アンちゃんと喧嘩したり。ジョルジュ君とみんなで技術棟に集まって笑い合っていた時みたいに」
今にして思えば、出会った頃のクロウは士官学院がただの潜入場所に過ぎなかったからあんな目をしていたのだろう。どこか一線引いているような態度も全部、クロウには他の生徒と別の目的があったからだったのだろう。
だが、トワは知っている。クロウが徐々に変わっていったことを。それをクロウは嘘だと言うけれど、トワにはとてもそうは思えなかった。
「最初はクロウ君の言うように嘘だったのかもしれない。だけど、わたし達が過ごしてきた毎日が全部嘘だったなんて、わたしにはとても思えないよ」
たった一年半とちょっと。二人が共に過ごしてきた時間なんてそれだけでしかない。しかし、それでも分かるのだ。
「ごめんね、何も気付けなくて。でも、もういいんだよ?」
握っている手に自然と力がこもる。そのまま真っ直ぐにじっとに見つめていると、耐え切れなくなったらしい赤紫がそっと視線を外した。
「……ったく、何でお前が謝るんだよ。どっちかってーと、謝らなきゃいけないのは俺の方だってのに」
「クロウ君が謝ることなんて何もないよ」
そんなことは、と否定しようとするクロウの唇にそっと人差し指を当てる。クロウが何を言おうとしているのか、分かっていたから先に謝ったのだ。そして謝ることは何もないと伝えた。
何せ、本当にトワは彼に謝ってもらうようなことをされた憶えはないから。クロウが思い浮かべているそれは謝る必要のないことだと。なぜなら、トワは今ここにいる。
「ねぇ、クロウ君」
内戦中も、内戦が終わってからも色々なことがあった。話したいことが沢山あった。またみんなで笑い合える日が来ると信じていた。
けれど、それはもう叶わない。目の前にいる彼は夢の中の登場人物であって、現実では既に亡き人となってしまった。話したいことが沢山あるのに、その話をする時間がない。
「わたし、クロウ君のこと信じてるからね」
学院生活の全てが偽りだと言ったことこそ嘘なのだと。内戦中は敵として対峙したこともあったけれど、自分達には確かに絆があったのだと。
そもそもARCUSの戦術リンクはお互いの信頼がなければ成功しない。最初こそ失敗していたそれが成功するようになったことで、もう答えは出ているようなものだった。ただ、クロウがそれを認めないだけで。
「……本当、バカだな。俺のことなんてさっさと忘れちまえば良いのによ」
「忘れないよ。だって、クロウ君はわたしの――」
わたしの、わたしの大切な友達だから。
トワはそう言って笑みを浮かべた。その時胸の内に走った小さな痛みには気付かない振りをした。
(これはわたしの夢。だけど)
夢の中のことを起きてからも覚えている可能性は低い。夢なのだから、何を言ったって目の前の彼に迷惑は掛からない。夢の中の彼は迷惑に思っても所詮は空想世界。現実には何ら影響もないことだ。
それは分かっているけれど、それでもトワは己の気持ちを隠して笑う。たとえ夢の中の相手でも、大切なその人が困らないように。自分の夢ならそれこそ都合よく動くのかもしれないが、そうだとしてもその言葉を口には出せなかった。
「クロウ君に会えて良かった」
くるりと背を向けて、遠くの白い空間を見つめて話す。こんなにも普通に話しているのに、これは二度と現実にならないやり取りなんだ。そう思ったら泣いてしまいそうで、それが見られたくなくて背を向けた。
「わたし、ずっとクロウ君に会いたかったんだ」
たとえ夢でも会えて良かった。そして数年前のあの日、彼と出会えて良かった。
話したいことは沢山あって、けれどそれはもう有り得ないことのはずだった。彼が何を思い、何の為に行動していたのか。トワが知っていることはあまりにも少ない。でも、それでも、もう一度彼に会いたかった。
「ありがとう」
夢の中で会いに来てくれて。わたしの願いを叶えてくれて。本当にありがとう。
「……俺も、最後にお前に会えて良かった」
ありがとな、と言った彼の声はとても優しかった。いつも、今までずっと聞いていたその声。いつだって一番近くに在った……。
駄目だ、やっぱり泣いてしまう。泣かないで、最後は笑って終わりにしたかったのに。
「心配かけて悪かった。約束も守れなくてごめんな」
ああ、クロウ君はこれを言いに来たのかな。そのことも謝らなくて良いのに、だけど彼はそう思っていてくれていたんだと分かって胸がじんわりと温かくなる。
「けどお前等と、お前と過ごした学院生活は結構楽しかったぜ」
その言葉が心に響く。つう、と一筋の雫が頬を伝った。
やっと、彼がフェイクだと言った学院生だった頃の自分を、否定し続けた彼自身をやっと認めてくれた。やっぱり彼は、トールズ士官学院生のクロウ・アームブラストなのだ。飄々として掴みどころがなくて、すぐに賭け事をしようとしたりするけれど本当は優しくて、強くて頼りになるわたしの……特別な人。
嫌だ、別れたくない。そう思っても時間はそこまで迫っていた。これが夢だと認識しているからか、それとも別の理由かまでは分からないけれど、ここにいられるのはもう僅かだと脳が知らせている。
別れを、お別れの言葉を言わなくちゃ。最後は笑って、言えなかったその言葉を伝えないと。
そう思っていたところにぽん、と大きな手が頭の上に乗せられた。
「あんま頑張りすぎんなよ」
頑張れ、ではなく彼はそう言った。今までも何度も言われたことがあるそれに驚いて、けれど次の瞬間には自然と笑みが浮かんだ。
「ありがとう、クロウ君」
くるっと振り向けば、柔らかな眼差しでこちらを見つめる赤紫とかち合った。そして。
「またね」
→