気が付くと、そこは机の上だった。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。
――といっても、頼まれていた分の仕事はとっくに終わらせている。その後で勉強していきたいからと許可を貰って残っていたのだが、自分でも知らずのうちに疲れが溜まっていたのだろうか。本とノートが開いたままの形でそこに広がっていた。
「クロウ君……」
頭を上げてそう呟いた時、何かが頬を伝った。そっと目元にやった手が濡れる。どうやら夢の中だけではなく、本当に涙を流していたらしい。
あれからもう一年近くの年月が流れた。あの頃一緒に机を並べていた仲間達はそれぞれ別の道へ進み、トワもまたNGO――非政府組織を巡りながら忙しい毎日を送っている。当時の一年生達も二年生になり、Ⅶ組の面々は一足早く卒業して自分達の道を歩き始めた。
みんなが前に進んでいる。その中でただ一人、時間が止まってしまった仲間のことを忘れた人はおそらくいないだろう。
『あんま頑張りすぎんなよ』
夢の中でクロウが言ってくれた言葉。頑張りすぎているつもりはなかったけれど、こんなところで眠ってしまったのは体が疲れていたからだろう。本当はもう少しここの資料を借りて勉強したかったところだが、たまには息抜きや休むことも大切だと士官学院時代は友たちに言われていたのを思い出す。
「よし、今日はこれで終わりにしよう」
たまにはそんな日があっても良いだろう。そうと決めてトワは机の上に積んでいた本を片付け始めた。
そういえば、あの夢の中で最後。自分は彼にちゃんと笑えていただろうか。さよならだけはどうしても言えなかったけれど、それくらいは許して欲しい。彼のことに整理を付けて前に進むと決めた今でも、その言葉を口にするのはまだ辛かった。
だけど、たとえ夢でもやっぱりクロウに会えたことは嬉しかった。もしかして、仕事中に疲れて眠ってしまったから注意をしに来たんだろうか――なんて思って、それはただの偶然だろうなと微笑みを浮かべる。
「お疲れ様でした」
部屋を出て擦れ違う人に挨拶をしながら、トワは現在お世話になっている庁舎を後にした。
□ □ □
いつもならこのまま真っ直ぐ下宿先に戻るか、買い物をしながら帰るのが主だ。けれど今日は時間が遅くないこともあり、ちょっと近くの街道まで足を伸ばしてみた。
街道といっても、割と町の近くで魔獣もあまり現れないような場所だ。仮に魔獣が現れたとしても、トールズで武術訓練を受けていたトワなら余程の相手でなければ問題ない。
「わあ、綺麗な夕焼け」
見通しの良い開けた場所で立ち止まり、空を見上げる。太陽は西へ沈み始めており、その周りはすっかり橙色に染まっていた。
「あっ、一番星」
西の空を見ながら思わず呟く。まだ明るくて星は少ししか見つけられないけれど、一際強い輝きを放っているそれは一番星だろう。
こうやって一番星を見つけるのはなんだか久し振りな気がする。大抵帰る時には夜になっているから、空いっぱいに広がる星を見ても一番星を探すことは殆どない。勿論その中から一番星を探せないこともないけれど、それよりも眼前に光る星座を見てしまうことが多いのだ。
(こんな風にゆっくり空を眺めたのは久し振りだなあ)
毎日帰り道でも見ているし、下宿先に戻ってから窓の外を眺めることもある。でも、星を見る為に外に出たのはどれくらい振りだろうか。
(あれから、もうすぐで一年になるんだ……)
もうそんなに経っていたのか、というべきか。それともまだ一年しか経っていないのかというべきか。トワの感覚では前者だった。
毎日毎日、自分に出来ることをしながらNGOを巡り歩いてきた。士官学院を卒業してから幾つか転々としてきたけれど、軍に入るか省庁に入るか。残された時間は数ヶ月。この数ヶ月の間には、自分の道をはっきりと決めなければならない。
(わたしの道、か)
自分の考えを持つ為に、トワが卒業後の進路として選んだのがこのNGO巡りだ。この中で様々なことを経験し、勉強してきたけれどまだその先の答えは出ていない。
だが、数ヶ月も時間があるのだ。その数ヶ月でも得られることは多いだろうし、今ある考えもそれらの経験で変わっていくのかもしれない。
(残された時間でちゃんとその答えを見つけないと)
焦ることはない。せっかく勉強をする為の時間を貰えたんだ。じっくり考えて、その上で自分の考えを持って決めるのだと心の中で続ける。
一年前、帝国の内戦が終わりを迎えた後。トワを含めた二年生は、内戦が始まる前に考えていた進路をもう一度考えさせられた。
帝国の内戦は終止符を打ったとはいえ、帝国が抱える問題は数多い。みんな自分の進路を見つめ直し、そうしてトールズ士官学院を卒業していった。あの内戦は士官学院生だった自分達に大きな影響を与えるものとなった。
「…………」
半分ほど顔を覗かせていた太陽が更に山の向こうへと姿を消していく。今頃みんなはどこで何をしているのだろうか。
ゼムリア大陸を一周する旅に出たアンゼリカは、帝国ではないどこかの国でこの空を見ているのかもしれない。技術工房を巡って技術者としての修業をしているジョルジュは、以前よりもずっと腕を上げていることだろう。他の同級生達も、見えないところでみんながみんな頑張っているんだと思うと自然と力が湧いてくる。
「……そろそろ戻ろうかな」
太陽はすっかり見えなくなってしまった。代わりに頭上に広がる空には星がきらきらと輝き始めている。
空を眺めながらゆったりとした時間を過ごし、今日は良い気分転換になった。これで明日からはまた頑張れる。下宿先に戻ったら今日は早めに寝よう。
そう考えてトワはもときた道を辿る。そうだ、参考書を買いに書店には寄って帰ろうと考えながら。
「トワ!!」
街に戻ろうと歩き始めた時、突然自分の名前を呼ぶ声が聞こえていた。知り合いのいないこの場所でそう呼ばれることがまず殆どなく、名前を呼ばれたことに驚いて反射的に声のした方を振り返った。
……のだが、振り返ってその姿を見付けた瞬間。完全にトワは固まってしまった。
「クロウ、くん……!?」
つい数時間前の夢と同じ反応がトワの口から零れた。信じられない、と大きな目が真ん丸に開かれる。
だが、目の前のその人は固まって動けないトワの方へ一歩、また一歩と近付いた。そして目の前までやって来たその人は記憶の中と、夢の中と全く同じ姿をしていた。
「ええっ!? クロウ君、だよね……!?」
どうしてここに、と混乱する頭でトワが尋ねるよりも先にクロウは自分よりも小さなその体をぎゅっと抱きしめた。そのことで更に混乱したトワは「ふええっ!?」と言葉にならない声を上げてしまった。
「…………悪ィ」
え、とトワはクロウの方へと視線を向けた。しかし、抱きしめられている為にその表情までは見えない。絞り出すような声で告げられた謝罪は、何に対するものなのだろうか。
「クロウ君?」
「謝ることじゃねぇのは分かってる。けど、謝らせて欲しい」
そう言って口にしたのもまた謝罪で、自分を抱きしめる腕が強くなっているのを感じた。
彼は、トワの友達の一人であるクロウで間違いないのだろう。約一年前、帝国の内戦で命を落としたはずの友人がどうして今目の前にいるのかは分からないけれど、彼が本物のクロウであることはなんとなく分かった。
「……クロウ君、わたしは謝られるようなことなんて何もされてないよ? だから、顔を上げて」
ぽんぽんと手を乗せるのはいつも彼の方だった。でも今日はトワがその背中をとんとんと叩いた。
何度かそれを繰り返すと、クロウはゆっくりと体を離した。その表情はまだ辛そうだったけれど、謝られることがないのは本当だからそんな顔はしないで欲しい。
「トワ、俺は――――」
「クロウ君は謝ることないよ。だからそんな顔しないで?」
夢の中でも似たようなやり取りをしたなと、言ってから思い出す。夢で見たクロウも辛そうで、苦しそうな表情をしていた。あの夢の中でクロウが考えていたことは分からないけれど、クロウがこちらに謝りたいことが予想できないわけじゃない。
世間では《蒼の騎士》として知られている彼だが、帝都でのオズボーン宰相を狙撃したシーンを見ていた士官学院生達は彼が帝国解放戦線リーダー《C》であることも知っている。クロウが何か謝りたいのだとしたら、それら二つの肩書きを持って行動していた時のことなのだろう。
「もう全部終わったんだよ。帝国の内戦も。アンちゃんもジョルジュ君も、みんな元気にやってるよ」
卒業してからは連絡を取る機会が少なくなってしまったが、それでも彼女達がこの世界のどこかで元気でやっていることは分かる。ここに来る前にお世話になった場所でアンゼリカに会った時は相変わらずだったし、別の機会に会ったジョルジュは技術者として様々なことを勉強している様子がとても楽しそうだった。
帝国の内戦が終わって、それと同時に何もかもが元通りになったというわけではない。内戦が始まる前から帝国内では水面下で貴族派と革新派がぶつかり合っていた。今だって表面上は平和でもその裏では何が起こっているか分からない。
けれど、クロウの言うそれはもう全部終わったのだ。それだけははっきり言える。
「…………敵わねぇな」
ぽつり、呟いたクロウは僅かに視線を落とした。困ったように眉を下げ、手持無沙汰の左手は頭の後ろにやった。
「……帝都であったこと、お前も大体は知ってるんだよな」
目を合わせないように遠くを見つめた彼は、唐突にそう語り始めた。それが何を指しているのかすぐに理解したトワはこくりと頷く。一年前、帝国の内戦における最終決戦となった時のことだろう。
「あの時、俺はオルディーネと共に致命傷を負った。助からないってことは俺自身も分かってた」
別に悔いはなかったけどな、とクロウは笑う。
テロ組織のリーダーとして動いていた彼にとって、目標は既に果たされていた。内戦中に各地の戦場に姿を現していたのは、自分が引き金となって始まってしまった戦争を終わらせる為だった。自分が撃った鉄血と同じ場所に負った致命傷を見て、これも因果応報だなと冷静に考えられたほどだ。
「この世に未練はない。俺自身そう思ってたけど、どうやらそうでもなかったらしくてな」
夢を見たんだ、と彼は言った。あれを夢と言って良いのかは分からないけれど、今クロウがここにいる現実を考えれば夢という表現で合っているのだろう。
「その夢で、お前に会った」
え、と思わず声が出てしまった。おそらくただの偶然だろうが、トワも数時間前の夢の中でクロウに会った。いつもより早く庁舎を出てここにやってきたのも全てはその夢を見てからだ。そうしたら、ここで本物のクロウに会った。
「わ、わたしも見たよ! クロウ君に会う夢!」
「えっ?」
今度はその言葉にクロウが驚かされる。トワが自分の夢を見ていたとは思わなかったのだろう。
だがそんなクロウについさっきその夢を見て、それでここに来たらクロウに会ったのだとトワも戸惑いながら続けた。それを聞いたクロウは更に目を見開き、慌てて「ちょっと待て!」とストップを掛けた。
「お前も俺の夢を見たのか……?」
「う、うん。ただの偶然だと思うけど、さっきの今だからビックリしちゃった」
偶然、とクロウは何故かその言葉を繰り返した。
同じタイミングでお互いの夢を見るなんてかなりの確率だろう。そんな愚然もあるんだとただただトワは驚いたのだけれど、どうやらクロウはそれを偶然とは捉えていないらしい。
だが、こんなことは偶然としか言いようがないだろう。かなり確率の低いことでも有り得ないと言い切れることではない。それともまさか、同じ夢を見ていたのではないかというほぼゼロに近いことを考えているのだろうか。それこそ有り得ないと思うが。
「えっと、クロウ君……?」
話が中断してしまったのは、お互いが相手の夢を見ていたという事実が明らかになったからだ。どうしたら良いか分からずに名前を呼ぶと、それに気付いたクロウは「一先ずそれは置いといて」と脱線した話を強引に戻した。
「その夢でお前と話をしたんだ。死んだはずの俺がどうしてと思ったけど、お前と直接会うのは士官学院を制圧して以来だったからな」
自分で裏切るようなことをしたとはいえ、罪悪感とかそういった感情が胸を占めた。だけど、結局あれから会えずに終わってしまったから正直嬉しさもあった。
勝手な奴だなと自分でも呆れた、とクロウは話す。そんなことはないと首を振ったら、眉を下げたまま小さく笑みを浮かべられた。
「あの時、最後にお前に会いたいと思ったんだ」
あの時――クロウが最期を迎えた時。もう一度会いたかったと、それは勝手なことを考えた。それが無理だということは分かっていたけれど、そう思うだけなら自由だろうと思った。
それがどうしてか気付いたら不思議な場所にいて、そこにトワがいた。そこで会った彼女は記憶の中の彼女と同じで、これは夢か何かなんだろうと理解して色々なことを話した。どんな形であれ、最後にトワに会えて良かったと本気で思った。
「夢でお前に会った俺は、本当にこれで終わりなんだと思った。今度こそ未練も何もないと思ったんだけど、最後の最後で俺はお前に手を伸ばしちまった」
そして、気が付いたらここにいた。
赤紫の瞳がトワを見る。それが彼が今ここにいる理由ということなのだろうか。最後にトワに手を伸ばしたから――その行為の意味するところが掴めなくて、トワは赤紫の双眸を見上げた。
「どうして……?」
「見てられなかったんだ。俺がお前を無理に笑わせてるんだって思ったら止まらなかった」
何かを押し込めるような顔をして、泣かないように必死で涙を堪えて、なんとか見せられたような笑顔に胸が痛んだ。その上で最後に「またね」なんて言われたら、そこで「さよなら」なんて出来なかった。
気が付いたら名前を呼んで、彼女に手を伸ばしていた。なぜなら――。
「大切だったんだ、俺にとっても」
学院生だった自分はフェイクだと言っていた彼がそう言った。夢ではなく現実で、学院生だった時の彼自身を漸く認めくれた。
真っ直ぐにそう伝えた彼は、そこまで言ってそっと視線を逸らす。
「……まあ、それで生き返って真っ先にお前のとこに来たってワケだ」
これがクロウが今ここに居るに至る経緯らしい。正しくは生き返ってではなく、オルディーネの力のお蔭で生きているのだと加えて。
「死んだと思ってたヤツがいきなり現れて驚いただろうけど、そういうことだから生きてるらしいんだわ。気付いたら生きてるわあれから一年経ってるわで俺もまだ理解が追い付いてねぇんだけどな」
普通では考えられないことでもそこに騎神が関わっているのなら話は別だ。クロウでさえ分からないという騎神のことなどトワにはさっぱり分からないが、彼の操る《蒼の騎神》がその力を長い時間を掛けて《起動者》であるクロウを助けてくれた。そんなオルディーネには感謝の気持ちでいっぱいだ。
「そうだったんだ。でも、クロウ君はこれからどうするの?」
「暫く旅に出るつもりだ。色々と考えたいこともあるしな」
「考えたいこと?」
疑問形で尋ねると「ああ」と肯定が返される。クロウはすっと視線を空に向け、無数に広がる星々を見ながら続ける。
「これからのこととか、色んなモンを見て自分なりの答えを見つけようと思ってる」
何をすれば良いのか。何をするべきなのか。
その答えが出ないから、旅に出てその答えを探してくるのだとクロウは言う。各地で様々なものを見て、多くのことを知って。そうした上で自分の道を見つけたいと。
どうやら、彼はもう自分の進む道を見つけているらしい。この先のことを考える為に旅に出る、という目の前にある幾つもの道の中から選んだ一本を。
そこまで決まっているというのなら、トワにやれることは一つだけだ。
「そっか。じゃあ暫くは会えなくなるんだね」
「そういうことになるな。大陸を見て回って、その答えが見つかったらまた会いに来る」
それがいつになるかは分からないけれど、その時が来たら必ず。
「今度は、絶対に守るから」
――この約束を。
そう言ってこちらを見たクロウは小さく笑みを浮かべる。つられるようにトワも微笑んだ。今度は、なんて言われなくてもちゃんと信じているというのに。
「クロウ君が会いに来てくれる時には、わたしも自分の考えを答えられるようにしておくね」
「おう、楽しみにしとく」
お前ならすぐに見つけられるだろうけどなと、何でもないように続いたそれが心に響く。
数時間前はそれをちゃんと見つけないとと焦っていたというのに、彼の一言できっと大丈夫だと思えるのだから不思議た。その一言で力が湧いてくる気がする。彼の何気ない一言はいつも温かくて、じんわりと胸に広がるのだ。
「わたし、待ってるね」
いつかやってくるその日を。自分が選んだ道の先で。
「ああ。待っててくれ」
約束したその日を。その時は……。
いや、それはその時が来てからにしよう。一年後か、二年後か。いつになるか分からなくとも、その日は必ずやってくるのだから待てば良い。
このままずっと、こうして話をしていたいけれどそういうわけにもいかない。流石にそろそろ下宿先に戻った方が良いだろう。名残惜しいけれど、これが最後ではないのだからと別れを切り出す。
「それじゃあ、そろそろ行くね」
「心配要らねぇだろうけど、気を付けろよ。何なら送って行ってやろうか?」
「もう、子供じゃないんだから大丈夫だよ」
ここから街までは十分もあれば辿り着く。そこから下宿先までもそう時間が掛かる距離ではない。夜だから暗いとはいえ、そこまでしてもらう程のことではない。
――そう思って断ったのだが。
「いや、そうすりゃもう少し一緒に居られるだろ?」
予想していなかった返答に「あ」と声が出てしまった。慌てて「ええと」と次の言葉を探していると、すぐ傍からククと笑い声が零れてきて思わず顔を上げる。
「そんなに笑わなくても……!」
「悪ィ悪ィ。送ってくからそれでチャラにしてくれ」
な? と聞かれたら、断る理由もなく。
まだほんのり顔が熱いけれどよろしくお願いしますと頼むしか答えはなくなっていた。その返事を聞いて歩き出したクロウの隣をトワもまた歩き始める。
前と変わらない距離感、さり気なく合わせてくれる歩幅。何でもないやり取りをしながら彼と歩く時間がこんなにも幸せだと気が付いたのはいつのことだっただろう。
いつかやってくる未来のその日。またこうして一緒に歩けたら……いや、この先も彼と並んで歩けるように前に進んで行こう。
そしてこれからも、彼と一緒に。
fin
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