朝、家を出る時には空は青く澄み渡っていた。この時期らしく気温は高く、一月前に衣替えがあったとはいえ、暑いものは暑い。こういう時、私立はクーラーとかあるんだろうななんてぼんやり考える。羨ましいとは思えど、ないもの強請りをしても現状が変わる訳ではないので諦める。
学生の本業は勉強、なんていう文字通り。丁度今は期末テストが行われていた。テストが近付くにつれて当然のように部活の練習時間は減っていく。こればかりはどんな部活の強豪校でも同じだろう。早く部活をやりたいと思いながら過ごしている本日、期末テスト三日目。
君がいればどんな時も
――キンコンカンコーン。
学校中に鳴り響くのは、授業の終わりを知らせるチャイム音。それを合図に号令を掛け終ると、教室の所々から「やっと終わった」という声が聞こえてくる。次いで「問五の答え、何にした?」「あれってAじゃねーの?」といった答え合わせをする者も居る。テストが終わってからのお決まりの光景ってヤツだ。それは担任が教室に戻って来るまで続けられ、その後は形程度のSHRとなりあっという間に終了。ま、テストの時なんていうのは大体こんなもんだろ。
テストも終わってSHRも終わり。部活もないとなれば、学校に残る理由なんてない。普通だったらさっさと帰るところなんだけど、生憎そうもいかない。他のクラスメイト達もどうやら同じようで、視線は全て窓の外へと向けられている。
「真ちゃん、どうする?」
「どうするも何も、帰るのだよ」
そりゃそうですよね。テストも終わったんだし、オレだって帰るつもりだったし帰りたいよ。
だけどさ、皆が躊躇しているようにこの状況ではすぐに帰ろうなんて選択肢を選べないワケで。だって、窓の外では風は強いわ雨は凄いわでそれはもう大変なことになっている。更には遠くで雷の音も聞こえるしで天気は最悪だ。今朝見た筈の太陽はどこに消えたんだって言いたい。
「帰るったって、この天気だよ? そりゃあ、いつまでも学校に残ってるワケにはいかないけどさ」
ここまで大降りだったら傘なんて意味ないだろう。そもそも、朝は天気良かったし傘なんて持ってないけど。どうやらそれはオレだけではないらしく、この場に居る殆どが同じようだ。大体、今日雨予報なんて出てなかったよな。なんて、天気予報は見てないけど周りの話からして出ていないらしい。例え傘を持っていたとしても、この雨では帰るのを躊躇する気持ちも分からなくない。
とりあえず、傘の有無を尋ねてみれば答えはノー。それで帰るつもりだったってことは、適当に傘を買えば良いとでも思ったんだろうな。大多数はそう考えるものだし。
「通り雨だったら時期に止むだろうけど、この空を見る限り。どうなんだろうね」
「早く帰るに越したことはないだろう」
おそらくそれは正論だ。空は暗い雲に覆われて、通り雨程度ではなさそうだ。どちらかといえば、まだ強くなっていきそうな勢いすらある。遠くで聞こえていた音も次第に大きくなっているような気がしなくもない。これで自転車で帰る馬鹿はいないだろうけど、一歩外に踏み出そうと思える人も少ない。現に教室から人数は殆ど減っていない。
諦めて教室を出た奴等は、玄関から出て来るなり走って校門を駆け抜けていく。それにつられるように、ちらほらと下校をしていく。この場に留まっていても埒が明かないのは一目瞭然だ。皆諦めて雨が弱くなるかもしれないのを待つか、今帰るかの二択しかないと判断したんだろう。目の前のエース様はどうやら後者を選んだらしい。
「どこ行っても傘なんて手に入らないだろうな。つーか、この雨に傘って逆に必要なさそうだし」
結局あれから教室を出て、二人並んで廊下を歩いている。さっきの二択は、オレも後者を選ぶ。雨なんて別に気にしないし、さっさと帰ろうという考えに辿り着くから。同じように玄関に向かって歩く生徒は、男子の方が多そうだ。濡れたからってどうってことはないからな。
ただ、気がかりなのはやはりこの天気だ。なんでよりによって下校時間に合わせるように降って来るかな。どうせならあと一時間くらい遅くしてくれれば何の問題もなく下校が出来たというのに。
「今日はリアカー乗って帰れないから、明日は使えないな」
「お前が取りに行けば問題ないのだよ」
「ちょ、いくらなんでもそれは酷すぎねぇ!?」
ただでさえ漕ぐのはいつもオレなのに。……それはジャンケンで負けているからだけど。
ともかく、それは流石に酷いだろうと抗議すれば呆気なく「冗談だ」と返ってきた。予想外の切り替えしに驚いたものの、すぐに思考を再開して「冗談でも酷いっつーの」と口にした。本気で言ってはいないだろうとは思ったけど、すんなりそう言われるとも思っていなかった。
そんな話をしている内にも下駄箱までなんてすぐで、上履きを仕舞って外履きに履き替える。教室でも窓越しに見ていたけど、実際に見てみるとこれはまた凄まじい。校庭なんて水浸し状態。
「改めて見ると凄いね。この中帰るんでしょ、オレ等」
ザーザーなんてもんじゃなく地面に打ち付ける雨は激しい。此処まで来てから、やっぱりとためらっている姿も見受けられる。この中を帰ろうと意を決した筈なのに、意識がそがれるのも無理はない。チラリと隣を窺えば、眉間には皺が寄せられている。
「真ちゃんちに着くまででも、走れば結構あるよな。走るしかないけど」
「この雨では仕方がないのだよ」
「オレんちはそれより走らなきゃだしさ。真ちゃん、雨宿りさせてよ」
「何故オレがそんなことを…………」
どうせそう返答されるだろうことは分かっていた。わざわざ人を家に上がらせる理由なんてないしな。いくらオレの家の方が遠くたって、そのまま走って帰れば良いだけだし。十分濡れるのも二十分濡れるのもどちらも同じようなものだ。大体、人の家に寄るより真っ直ぐ帰った方が良いというのは分かり切っていることだ。そこから何十分という距離でもないんだから。
「だって、こんな雨ん中ずっと走るのは辛いじゃん」
「馬鹿なことを言うな」
それでも試しに引かずに尤もらしい意見を主張してみたけど、答えは変わらず。これで風邪を引いたらどうするんだよ、なんてな。オレ以上に風邪を引いたりしたら困るのは、ウチのエースである緑間の方なんだけどさ。どちらにしても、この程度で風邪を引く程やわじゃないし自己管理だってしているから心配無用である。
「さてと、早いとこ走って帰りますか」
昇降口で突っ立たまま居ても邪魔になる。そろそろ覚悟を決めてこの雨の中に飛び込む。当然、この雨なのだから屋根のある場所から出た瞬間に一気に制服は水を含み、あっという間に全身ずぶ濡れだ。オマケに風も吹いているんだから、やっぱり傘はあっても意味がなさそうだ。傘を差している人も居るけど、オレ達のような学生は傘を差さずに走っている人の方が多い。
雨のせいで視界が悪くなるってことはないけど、時々白く光る空はあまり見たくない。それが何かって、勿論さっきからずっとゴロゴロと鳴り響いている雷だ。音は徐々に大きくなってもまだ遠いのか、一面が光る程度しか視界に捉えることはない。
それも束の間。教室に居た時より少しずつ近付いていた音と共に建物の間には稲妻が走る。光の速度の方が速い為、遅れて雷鳴の轟く音が響き渡る。
「ッ!?」
近くに落ちたであろう音と、光。雨も風も止むことはなく、音と光も変わらずに五感に届いてくる。外で直に聞くなんてことはあまりないが、体中に響いてくるのが分かる。
「…………高尾?」
オレよりも数歩先で真ちゃんが振り返る。急に立ち止まったオレを不審に思ったんだろう。オレは慌てて「何でもない」といつものように笑った。走って真ちゃんのもとまで走ると、続けて「さっさと帰ろうぜ」と先を促した。何やら不満そうな表情を浮かべられたものの、普段と変わらないオレの態度に漸く足を進める。
何とか誤魔化せた、かな。これでもポーカーフェイスには自信がある。真ちゃんが声を掛けてくれるまで、自分でも立ち止まっていることに気付かなかった。あーあ、だから嫌なんだよ。教室を出る時の選択肢、普段なら迷わず後者を選ぶけど今日だけはちょっと悩んだんだよな。
……と、そんなことばかり考えていてはダメだ。オレは真ちゃんよりも一歩前に出て後ろを振り返った。
「ねぇ真ちゃん、次の信号までどっちが早く着くか勝負しようよ」
「こんな時にすることではないだろう」
「ただ走るだけでもつまらないっしょ? ほら、負けた方が勝った方に何か奢るってことで!」
答えを聞くよりも先に勝手に始める。強引にやらない限り却下されるのは目に見えてるから。案の定、後ろで溜め息を吐いたのが聞こえたが、そんなことは気にしないで走る。ずっと走っているのだからこのまま次の信号までの勝負ということになる。歩いてたのに行き成り走ろうぜと言った訳じゃないから、まぁ大丈夫だろう。
そのまま信号機まで辿り着く頃には、肩で呼吸をしていた。少し前に信号は過ぎたばかりだった上に、雨で服が重くなっているし走り辛いことこの上ない。いくら部活で鍛えていても、こうも悪条件だと多少なりと辛いものがある。
「身長高いとリーチもデカいから良いよな」
「それは関係ないと思うのだよ」
結果はどうだったのかというと、結構僅差で真ちゃんの勝ち。これだったら勝てるかもとか思ったんだけどな。真ちゃんの言うように、走るのが速いかどうかに身長は関係ない。小さくても速い人なんて幾らでも居るからな。
負けたものはしょうがない。何か奢らないとな。といっても、オレが真ちゃんに奢る物なんて何になるかは分かり切っているんだけど。尋ねれば予想通りの答えが返ってきた。それに「了解」と返事をして、信号が変わるのを待つ。そこからは勝負事なしで、家に向かってただひたすら走る。時々話し掛けたりちょっかいを出してみたりしたけど、さっさと走れと怒られた。
そうこうしながらオレ達は真ちゃんの家まで辿り着いた。走れない距離ではないとはいえ、この天気の中で走るのは、なかなかの運動になった気がする。
「もう全身びしょびしょだな」
家の前で立ち止まって向かい合う。相変わらず雨は体に打ち付けられる。今更ここで少し話をしようが変わらないだろう。だからといって、長話をするつもりはない。そんなことをして本当に風邪を引かれたりなんてしたら大変なことになってしまう。
「それじゃぁ、真ちゃん。また明日な!」
それだけ言ってくるりと体の向きを変える。
オレもさっさと帰らないとな。そう思いながら一歩を踏み出す。
→