1.



 ザァ……ザァ……。
 心地良い水の音が耳に届く。緩やかなそれが波の音だと気付くのに時間は掛からなかった。徐々に覚醒していく意識。それにつれて、この場所が揺れていると感じた。揺れているといっても地震とはまた違った揺れ方をしている。
 ゆっくりと瞼を持ち上げると見慣れぬ天井が目に入る。ここはどこだろうかと考えようとした時、すぐ傍から「あ、起きた?」と声が降ってきた。聞き覚えのない声に反射的に警戒をするが、男は小さく笑うとそんなに警戒をすることはないと話した。それでも自分の状況が分からない以上、普通は警戒するものだとは思ったのだが、向こうもそれに気付いたのか大丈夫だと口を開いた。


「お兄さんどこの町の人? 近くまでで良ければ送ってくぜ」


 危害を加えるつもりとかはないから安心して。あと、ここ船の上だから。
 そう続けられて漸くこの揺れの正体を理解した。海の上ならば揺れて当然だ。波の音が近くにあったのも納得である。
 最低限、この場所が船であることと海に出ていることだけは分かったけれど、まだ男のことは何も知らない。送って行くと話すぐらいなのだから危害を加えるつもりがないのは本当だろう。むしろ状況からして助けられたと考えるのが妥当だ。


「お前は?」

「オレは高尾和成ってんだ。この船のクルーだぜ。お兄さんは?」

「……緑間真太郎だ」


 お互いに自己紹介を済ませると扉の向こうから「おい高尾、いつまでサボってんだよ」と怒気を含んだ声が響く。緑間が意識を取り戻していたからいいもののまだ寝ていたらどうするのだろうか。おそらく声の主は気にしていないだけなのだろうけれども少しは気にして欲しいものである。
 とりあえず今行くとだけ返事をして高尾は一度緑間に向き直る。


「聞こえてただろうけど、オレ呼ばれたからちょっと行ってくる。何かあったら適当に誰か捕まえて」


 それだけ言って高尾は部屋を後にした。一応、緑間のことは他の船員も知っているらしい。用事があるのなら部屋を出て見掛けた人にでも尋ねろということらしいが、特にこれといった用事はない。いつ戻って来るかは定かではないものの、いずれ高尾はここに戻って来るつもりのようだった。それなら下手に動き回らずにここに居るのが良さそうだ。たかが船の中を歩いたところで迷うこともないだろうが、他の船員の邪魔になっては迷惑だろう。状況がまだ掴み切れていない今、ここで大人しくしているのが一番である。
 待っている間、ぐるりを部屋の中を見渡してみる。必要最低限の物しかないのは船の上だからだろう。船という限られたスペースの中で置けるものは限られている。そういえば、この部屋は何の為のものなのだろうか。船に客間なんてものはないだろう。どんな船なのかによって間取りは違うだろうが、観光用の船でもない限り空いているスペースさえ期待出来ない。だが、一人で考えたところで答えなど当然出る筈もない。疑問は後で戻って来るであろう人物に投げ掛けることにして、ぼんやりと時間が過ぎるのを待つ。

 暫くして戻ってきた高尾の手にはお盆が、その上に食器が幾つか乗せられていた。何も食べてないんだからお腹が空いているだろうということらしい。別にそんなこともなかったが、せっかくの厚意を無駄にするのも悪い気がして緑間は素直にそれを受け取った。
 船にある物で作ったから簡単なものだけどと説明された料理は、それでも主食に汁物と主菜もあるのだから十分だろう。というよりも、船の上かつ短時間でこれだけ用意したのなら十分過ぎるくらいだ。
 いただきますと挨拶をしてから一口食べると、隣からどうかと感想を求めらた。悪くはないと答えると、それを聞いた高尾は良かったと安堵した。何でもこれを作ったのは高尾だったらしい。普段は料理人が作るのだけれど、今は他の作業をしているから代わりに自分で作ったとのことだ。


「あまり人に作らないから心配だったんだ」

「そうなのか。これだけ出来れば十分だと思うんだが」

「ありがと。足りないかもしれねーけど今はこれで我慢してくれよな」


 数時間もすれば夕食になる。その時には料理人が作ってくれるからと高尾は言った。そこまでして貰って良いのかと尋ねれば、当たり前だろと当然のように返された。いや、高尾にとっては当然のことなのかもしれない。何の見返りも求めずに人助けをする、なんて誰にでも出来るようでそうそう出来ることでもない。世が世だからかもしれないけれど、このご時世にそういう人は少ないのだ。
 食事を終えると高尾は一度食器を片付けに行った。置いておいても邪魔な上に後で洗うのも面倒だからということらしい。それくらい手伝うと言ったのだがやんわりと断られてしまい、結局また部屋で高尾を待つことになった。


「この船はどこに向かっているんだ」


 今度は数分で戻ってきた高尾に緑間は先程考えていた疑問を尋ねた。聞きたいことは色々とあったけれど、一度に聞くことも出来ないからまずは質問を一つ。高尾も聞かれることは分かっていたのだろう。すぐにここから一番近い港町の名前を挙げた。そこで何をするのかという問いには仕事をするとだけしか答えて貰えなかったが、部外者に対しての答えとしては妥当である。
 次に高尾から緑間に対してどこの町の人なのかという質問が飛んできた。最初にもされたその質問にまだ答えていなかったかと思い出して、けれどどう答えるべきなのか迷う。後ろめたい理由がある訳ではない。だが、即答出来ないくらいの理由はあった。
 数秒ほど時間を要した後、緑間は素直に答えることを選んだ。別に隠すことでもなければ、このご時世珍しいことでもない。所詮はああそうなんだ程度に流される話だ。


「生まれた村はもうなくなった。今は帝都に住んでいる」

「あっ、悪い。嫌なこと思い出させちまったな」

「構わん。どこにでもある話だ」


 正直なところ、どこにでもある話だとしても自分の故郷を失うのは辛い。それでも、この世界では珍しくもない話なのだ。自分の身の回りにも同じように故郷を失くしている者は居る。悲しかったとしてもそれを乗り越えて生きていかねばならないのだ。緑間もそうやって割り切って生きている。
 どこにでもあるありきたりな話だというのに、それを聞いた高尾は急に静かになった。同じ世界に生きているのだからこれくらいの話は高尾にとっても珍しくはない。珍しくないというよりは、その反対。


「……そんなあっさり言うなよ。よくあることでも、やっぱ悲しいもんだろ」


 高尾には緑間の気持ちが分かるのだ。なんせ、高尾自身も同じ境遇で生きてきたのだから。
 自分も同じだと話した高尾に驚きながらも緑間はすまないと謝罪した。それに高尾は謝ることではないと返し、まるで先程と立場が入れ替わったようだった。
 お互い、自分達の境遇については分かっているのだろう。珍しくもないことをいつまでも引きずってはいられない。悲しいとは思うけれど、生きているのだから前を向いて歩いていくしかないのだと。時々立ち止まって振り返ることがあっても前に進むしかないのだと知っている。


「なんかしんみりしちゃったな。今は帝都だっけ? ここからだと結構かかりそうだな……」

「この先の港町までで良い。後は自分でどうにかするのだよ」


 一人では何も出来ないほど子供ではない。海の上では何も出来ないが町まで行けばそこからはどうにでもなる。ここまでしてもらっているのだからこれ以上頼るのは流石に悪い。高尾はそんなこと一切思っていないけれど、自分の為だけに帝都にまで行って貰うのは申し訳ない。気にすることないのにと高尾は笑ったが、そっちが気にしなくてもこっちが気にするのだ。


「分かった。じゃあ、次の町までよろしくな」

「あぁ」


 よろしくというのはどちらかといえばこちらの台詞なのだが気にすることでもないだろう。これから港町に着くまでの短い時間だけれど、共に航海をする仲間だ。夕飯の時にでもみんなのことを紹介するからそれまでは部屋で自由に過ごしていれば良いと話す。
 言い終えたところで、それよりその語尾は何と笑い出す。そこまで笑うことではないだろうと突っ込んだが、だって……とだけかろうじて口にしたものの笑いは止まりそうもないようだ。何も言っても無駄かと溜め息を吐いて放っておくことにする。

 海の上での出会い。次の町に着くまでの時間を共にする仲間となった二人。



 まだ真っ白なページ。これからどのような冒険が待っているのだろうか。それはこれから少しずつ彩っていこう。

 まだ見ぬ世界、まだ見ぬ出会い。この旅は始まったばかり。