今日は部活はオフ。職員会議がある為、部活は全て休みになったらしい。それなら体育館で練習をしようかとも思ったのだが、体育館は整備で使用厳禁。練習も出来ないとなれば他に特にやることもなく、放課後に学校に残る理由なんて一つもなかった。それならば、必然的に変えるという流れになる。そのつもりだったのだが、どうやらそれは叶わないらしい。
「真ちゃん、ちょっと放課後付き合ってよ」
クラスも部活も同じ、いつも一緒に居る男はそんなことを言い出した。わざわざ付き合ってやる義理はない。だが、何か予定があるのかと聞かれて素直に答えてしまえば、そのまま決まりだと勝手に話を進められる。強引にでも誘わないと付き合って貰えないことくらい、これまでの付き合いで理解しきっているのだろう。
何かある訳でもないから良いか、と溜め息を吐きながら緑間は高尾の隣に並んだ。どこに向かうのかと思いつつも彼の進む先に足を進めて行けば、突き当りまでやって来てしまった。頭上には『音楽室』と書かれたプレート。迷うことなくその扉を開け、そのまま音楽室へと入った。
音色を響かせ奏でる和
全部の部活動が休みということは、普段は吹奏楽部が使っている音楽室も空いていた。勿論、使われていない音楽室には鍵が掛かっていたのだが、いつの間にか職員室で借りてきたらしい鍵を使って開けられた。教師には授業で忘れ物をしたからといって借りたらしい。実際に二人のクラスは今日音楽室を使っており、教師も特に疑問を抱くことなく鍵を貸してくれたのだ。
適当に教室の端に鞄を置いて、それから向かった先は大きなグランドピアノ。授業では教師が一番初めに開けて準備をする楽器だ。それと同じ手順で準備をしていけば、白い鍵盤が姿を現す。
「忘れ物を取りに来たのではなかったのか」
「それが嘘ってことくらい気付いてるっしょ。オレの目的はこっち」
仮に忘れ物をしていたとすれば一人で取りに戻る。二人揃って忘れ物を取りに行く必要もなければ、先に帰って構わないと伝えるだろう。付き合って欲しいなんて言ってついてきて貰ったのには、それだけの理由があるのだ。そして、それは今し方準備されたばかりのピアノである。
「真ちゃんってピアノ出来るんだよね?」
「何故それをお前が知っているのだよ」
「え? だって、前に真ちゃんが言ってたじゃん」
果たしてそんな話をしたことがあっただろうか。疑問はあるものの、これまで話したことを全て覚えている訳ではない。どこかでポロっと口にしたことがあったのかもしれないと緑間は思うことにした。別に知られて困ることでもないのだ。
教師に嘘まで吐いて放課後の音楽室にやって来たのは、緑間の弾くピアノを聞いてみたかったから。普段はバスケで綺麗な曲線を描くシュートを放つその指が、白い鍵盤の上ではどのような音を奏でてくれるのか。それが気になったから、こうしてオフである今日。音楽室にやってきた。
「真ちゃんのピアノ、聞いてみたくてさ」
素直に理由を話すと、溜め息を吐きながらもゆっくりとその足はピアノへと向かった。椅子の高さを調整するその手つきは、やはり手慣れたものだ。今はバスケに夢中になっているが、ピアノにもそれなりの思い入れがあるのだろう。
極自然な動作で高さを合わせると、今度は椅子とピアノとの距離を調整する。自分に合ったポジションを確認すると、翠の瞳が高尾の方へと向けられた。どうしたのかとその目を見つめ返せば、この状況で尤もらしい質問が投げかけられた。
「ところで、何を弾けば良いのだよ」
「何でも良いけど? あそこに譜面もあるけど、真ちゃんが覚えてるので良いぜ」
あそこ、と言いながら指差したのは教科書や譜面などが置いてある棚のことだ。普段は教師が使う物だが、ちょっとぐらい借りても問題はないだろう。
だが、緑間なら暗譜をしている曲は幾つでもあるだろう。そうでなければ、ここまで何も言わずに準備をしたりはしない。だからこそ最後の言葉である。それに、どうせ聞くのなら本人が弾きたいと思うような曲の方が良いから。これといって曲名を知らないから、という訳ではない。
高尾の返事を聞いた緑間は、そっと長い指を鍵盤の上に乗せた。それから、一本の指が鍵盤を押すのを始めに流れるように指が動いていく。
バスケの時とは違う。綺麗な指がしなやかに鍵盤上を走る。一つまた一つと音が生まれ、新たなハーモニーを生み出している。次々と奏でられる音色は、透き通るような色で心の底にまで響き渡る。
これが、緑間真太郎の音。
「真ちゃんってホント、何でも出来るよな」
あっという間に一曲を弾き終わり、凄いなと感想を述べた後に思わず零れた言葉。成績優秀、スポーツ万能。バスケではキセキの世代という天才に数えられている一人。ちょっと変わっているものの、長身で美人という容姿に至っても完璧。今まで何人の女子が告白したのだろうか、なんてくだらないことは考えるだけ無駄だが。
元の才能もあるのだろうが、その裏にはそれだけの努力があることは知っている。部活が終わった後で居残り練習をしたり、授業だって決して寝たりサボったりなどしない。緑間曰く、人事を尽くしているからこその結果だ。それはもう高尾も知っているし、だからこその結果であることも分かっているのだが。
「天は二物を与えず、ってことわざなかったっけ?」
「オレが人事を尽くした結果なのだよ」
予想通りの言葉が出てくる。これだけ完璧な人間も早々いないが、それでも短所となる部分もあるのだからことわざも間違ってはいないだろう。緑間の短所といえば、その性格だろう。その点でいえば、高尾の方がコミュニケーション能力も高く人付き合いも上手い。
逆に、緑間からすれば高尾だって色々と出来るのだ。一年で強豪校のレギュラー、成績も上位でスポーツも得意。その性格も相まって告白されるのは緑間より高尾の方が多い。勉強面も運動面も緑間が上であるのは事実だが、こうしてみればどっちもどっちである。
「それにしてもさ、よくそんな曲を暗譜出来るよな。もうピアノはやってないんでしょ?」
「時々弾いたりはするが、これくらいは覚えられて当然だ」
「どう考えても当然じゃないから! それを当然にしちゃったら、世の中大変なことになるからな!?」
いくら時々弾いているとはいえ、このレベルの曲を当然と言われては他の人はどうなるのだろうか。一度覚えてしまえばあまり忘れたりはしないけれど、当然とは言ってはいけない気がする。そういうものなのかという目で見られたが、そういうものなのだ。基準を緑間にしたらどうなってしまうのか。多くの人が基準に辿り着かなくなるのではないだろうか。
他にも何か聞きたいとリクエストをしてみれば、緑間は面倒そうにしながらも再び鍵盤と向かい合う。滑らかに動く指からしても、時々弾いているというのは本当なのだろう。朝から晩まで練習三昧だというのに、その合間によく時間を作れるなと考えたところで、作れないことはないかと思い直す。宿題をやる時間を除いたとしても、それ以外の時間が高尾にもあるのだから緑間もあるのは当たり前だ。
「あ、真ちゃん。連弾とかはやったことあんの?」
丁度曲が終わったところで、ふと頭に浮かんだことを尋ねてみる。答えはすぐに返ってきて、それを聞きながらピアノの奥にある棚を開く。連弾や二台ピアノといった二人以上で演奏するものは、まず自分に合った人が居なければ演奏することが出来ない。実力が違いすぎてもいけないし、二人の呼吸が合わなければ弾きこなすことは難しい。緑間の実力は今聞いただけでも十分過ぎる程に分かっている。やはり、連弾などの類はやったことがないそうだ。
沢山並ぶ本の中で幾つかを取り出すと、パラパラとページを捲る。そんな高尾を緑間はじっと見つめた。何をしたいのかは分からないが、楽譜を探しているだろうことは見れば分かる。何かを弾いて欲しいと言い出すのかと思ったのだが、その予想は意外な方向に裏切られた。
「ならさ、連弾やってみねぇ? 面白そうだし」
予想の斜め上をいった言葉に「は?」と思わず間抜けな声が漏れた。この場で連弾をするとすれば、緑間と高尾でという意味なのだろうが、連弾とはそう簡単に出来るものではない。二人のレベルにあったものでなければいけないのだ。いきなりやろうとして出来るような代物ではない。おもしろそうだからで弾けるのなら誰も苦労などしない。一人で弾く以上に連弾は難しいのだ。
しかし、言った張本人はやる気らしい。棚から出した本を一冊が緑間に手渡されたが、目を通したところでどうしろというのか。あまり難しい譜面ではないようだが、これだけの情報で曲を選べと言われても無理な話である。
「高尾、お前はピアノを弾けるのか?」
「ねこふんじゃったとかなら。でも楽譜は読めるから安心して」
それは答えになっているのか。結局どれくらい弾けるのかは全く以って分からない。そもそも『ねこふんじゃった』といえば、ピアノを弾けない人でもこれだけは弾けるというような曲だ。それでどう判断しろというのか。楽譜は読めると言っているのだから、全然知識がないという訳ではなさそうだけれども。
これでは選ぶのは無理だと緑間は開いた本を閉じた。ここに載っているレベルのものであれば、緑間は問題なく弾くことが出来る。あとは本人の好きにさせる。いくらなんでも自分で弾けないものを提案したりはしないだろう。
「上と下。どっちが楽かなって思ったけど、どっちもどっちかもな」
「片方だけが簡単な譜面などないだろう。強いて挙げるなら、バイエルの曲を先生が伴奏として合わせて弾くようなものか」
「それもう連弾じゃねーじゃん。明らかに生徒と先生だろ」
一応これも連弾ではあるだろう。高尾の言う連弾とは違うものであり、言葉の通り先生と生徒で弾くようなものでしかない。そういうのではなく、ちゃんとした連弾がやりたいのだ。
何にしても緑間は言われた譜面を弾くつもりだからどれでも構わない。どのような曲を選ぶのかは少なからず気になるが、弾くとなれば上でも下でもどちらでも良い。おそらく主旋律を弾くのが高尾になるだろうとは思うけれど。上も下もレベルとしては大差はないが、やはり主旋律である上の方が音が取り易いからだ。
「そういえばさ、何でピアノやめちゃったの? バスケの前はピアノやってたんだろ?そっちでも上を目指せたと思うんだけど」
これは素朴な疑問だ。これだけ弾けるのだから、そっちの道で上を目指すことは不可能ではなかった筈だ。けれど、緑間は知っての通り中学では帝光バスケ部で部活動に励んでいた。バスケにも才能があるけれど、ピアノにも十分才能はあるだろう。彼の性格ならば、途中で辞めたりせずに上を目指しそうなものである。だからどうしてなのかと気になったのだ。
「深い理由はない。頭と体を使う丁度良いスポーツだっただけなのだよ」
それが偶々バスケだった。帝光はバスケの強豪でもあり、彼等の世代には天才プレイヤーが何人も現れた珍しい年。ソイツ等を倒す為に今は秀徳でバスケをしているのだ。きっかけなんて些細なことだが、それがここまで続くのはやはり好きだからだろう。ピアノにしても好きだからやめた今でも弾いているのだ。色々な偶然が重なって、選んできた道がこの瞬間ということだ。
これは緑間に限ったことではない。高尾にしても中学でバスケ部に入って、それから今まで続けてきたのだ。バスケ部に入った理由もスポーツが好きだったからという単純なものだった。その中で選んだのが偶々バスケだっただけのこと。どこかで一つでも違う道を選んでいたら、今此処で二人が一緒に居ることはなかっただろう。
「オレはそのお蔭で真ちゃんとバスケが出来るから良いけど、なんか勿体ねーな。ピアノでも絶対有名になれたのに」
「有りもしないことを考えても仕方がないのだよ。それにピアノはいつでも出来る」
「まあ、高校卒業してからやるって手もあるしな」
今後の進路なんてものはまだ考えていない。今は目の前のことに夢中になっているから。いつかは考えることになる進路で何を選ぶかは分からない。バスケを続ける道もあれば、ピアノを取ることも出来る。はたまた、全く違う別の道を進むことも可能だ。将来はまだ真っ白なのだから。
そうこう話している間に高尾は曲を選び終わったらしい。ページを開いたまま緑間に手渡されたそれは、難しくはないが簡単でもない。だが、ある程度は弾けなければ厳しいのではないかといった譜面だった。
「大丈夫なのか……?」
「なんとかなるっしょ。真ちゃんが教えてくれれば」
せめて最初の一言で止めて欲しかったと緑間は思う。付け加えるような二言目に、これを一から教えていくのかと思うとやる気が失せてしまうのは仕方がないだろう。それなら何故これを選んだんだと目だけで訴えれば、冗談だからと笑って隣に椅子を一つ持ってくる。二人の間でピアノの話をちゃんとしたのはこれが初めてなのだから、どこまでが冗談なのかさっぱり分からない。
「幾らなんでも、絶対出来ないような物を選んだりしないから」
「本当だろうな」
「そりゃあ一回で完璧に弾けるとは思わないけど、少しは信用してくれたって良いだろ」
同じ部活の相棒だというのに。しかしそれとこれとでは別だとバッサリ切り捨てられる。酷いと言っても聞いては貰えず、やるのならさっさとしろと怒られた。諦めて、高尾は椅子を調整しながら楽譜を確認する。
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