面白そうだからと連弾をしようと高尾は提案した。弾けるのは『ねこふんじゃった』程度なら、と言っていたけれどその実力は定かではない。高尾が見付けだした譜面は難しくもないが簡単でもない譜面。
 大丈夫なのかと思わず尋ねた緑間になんとかなるだろうで始めようとする高尾。二人の間でピアノの話をちゃんとしたのはこれが初めてなのだから、どこまでが冗談なのかさっぱり分からない状態だ。出来ないような物は選ばないという言葉を信じて、連弾を始めることにする。




かせ 





 やるのならさっさとしろと緑間に怒られ、高尾は諦めて椅子を調整しながら楽譜を確認して位置を決めると、慣れた手つきで指を鍵盤に運ぶ。
 その動作を見ながら、高尾がピアノを弾けるというのは本当らしいと緑間も理解する。先程は『ねこふんじゃった』とかなら弾けると言っていたが、遊びで弾くだけではこうもすんなりとはいかないだろう。選んだ曲といい、何かが頭の奥に引っかかっている。その何かは、一番初めに抱いた疑問そのもの。


「高尾、オレはやはりお前に言っていないと思うのだよ」


 何をとは言わなかった。けれど、その声に振り向いた瞳がいつかと同じ色をしていた。どうしてそう思うのかと問われても、記憶にないからとしか言いようがない。忘れているだけなのではないかと最初に出した結論と同じことを言われても、そうではないことはその瞳が物語っている。
 幾つかの問答が繰り返された後、やってきたのは静寂。その静寂もすぐに破られた。


「バレちゃった?」

「お前の発言がおかしかったからな」


 そうだったかと考え直してみるが、自分自身では答えは見つからない。だが、聞いている方からすれば所々にヒントが散りばめられていたのだ。もしかしたら話したのかもしれないと思えることもあったが、それにしては妙に違和感があったのだ。
 もし話していたとしても趣味の話か昔やっていたという話。あのくらいの曲をちょっと聞いた程度で、有名になれるだろうと“絶対”という言葉を使って普通は言えない。普通なら“きっと”ぐらいが丁度良いだろう。そんな物言いは人によって違うだろうから何ともいえないが、感じた違和は正しかったようだ。


「確かに真ちゃんから直接聞いたことはないけど、有名だったからな」


 誰が、とは勿論。緑間が。何で有名かって、目の前にあるピアノでだ。
 中学校ではキセキの世代と呼ばれる一人としてバスケ界にその名を馳せた天才プレイヤー。しかし、それよりも前。二人が小学生だった頃は別の業界でその名は有名だった。それがピアノだ。
 音楽界では天才ピアニストが現れたと一躍有名になったのだ。当時はまだ小学生で、これからの将来が楽しみだという話にもなっていた。今やキセキの世代No.1シューターと呼ばれている彼だが、昔は将来有望なピアニストと騒がれていたのだ。


「ピアノをやってれば名前は自然と耳に入って来たぜ。演奏するのは聞いたことなかったから、聞いてみたかったのは本当」

「お前もピアノをやっていたのか」

「まあね。オレはごく普通の生徒だったけど。同い年に凄いピアニストが居るっていうのはよく聞いた。ソイツに会ってみたいとか、同い年なんだからいずれは追い付いてやるなんて考えたこともあったな」


 結局、ピアノは小学校までで止めてしまったけれども。ピアノを習っている間には決して交わることはなく、いずれは有名ピアニストにでもなるだろうと思っていたソイツはバスケの天才プレイヤーになっていて。それだけでもやめてしまったんだと驚いたというのに、高校に入ったら同じ学校ときた。
 バスケでも天才には適わず、絶対に倒してやると思っていたのが今では一緒に上を目指している。世の中何が起こるか分からないとは正にその通りだ。


「真ちゃんには負けてばっか。っていうのも、やってるのが同じモノばかりだからね。勉強にしても何にしても、まだ一度も勝ったことないんだよな」


 どういう運命の巡り合せか。同じことを続けていて追いつけないというのではなく、違う土俵に移っても勝てないという現実。だからといって、今は同じ部活の仲間であり友であり。そのようなことは考えなくなったが、負けたくないという気持ちは相変わらずだ。バスケでも認めさせてやると本人に宣言したように、勉強でもいずれは抜いてやると口にしている。それも二人の成績が共に優秀であるが故だ。
 まだ高尾が緑間に勝ったことはないが、二人は高校生。成長過程なのだからチャンスは幾らでもある。いつかと同じ色をしている、と感じたのは間違いではなかったようだ。高校で二人が出会った頃、同じような色をした瞳を見た覚えがある。あの時と同じ色をしていたのだ。


「だが、お前はそこで終わるような奴ではないだろう」


 言えば口角を持ち上げてニヤリと笑みを浮かべた。高尾が諦めたりなどしない人間だということは緑間もこれまでの付き合いで分かり切っているのだ。「当然!」と答えた笑みの裏には、絶対の自信があるのだろう。今はまだ無理でも、いつかは必ずと。


「なんか話が逸れちゃったけどさ。楽譜も準備したんだから連弾しようよ、真ちゃん」

「あまり練習に付き合ってやるつもりはないぞ」

「上等だぜ? すぐに弾きこなしてやるから見てろよ」


 一回で完璧に弾けないだろうけれど信用して良い。数分前の言葉に偽りはなかった。動き出した指は滑らかに鍵盤の上を走る。一音一音、間違うことなくピアノから音が生まれていく。二人の奏者がいてこそ奏でることの出来る和音。
 最後の小節まで辿り着くと、ゆっくりと鍵盤から指を離す。くるりと緑間を振り向いた高尾は「どうだった?」と尋ねた。教えてくれればなんとかなるだろうと言っていたが、初見でこれだけ弾けているのなら教える必要などどこにもないだろうと心の中で緑間は呟く。


「本当に弾けたのだな」

「ひっでぇな! オレだってピアノやってたって言っただろ。自分で出来ないような物を選んだりしてねーよ」


 確かにそうは言ったが、実際どれくらい弾けるかは未知数だったのだ。例えが『ねこふんじゃった』で、このレベルの譜面を軽く弾けると誰が分かるだろうか。別に疑っていた訳ではないが、これまでの発言はすべて真実だったのだと緑間は改めて感じた。少しは信用しろと言ったのも納得だ。


「連弾はオレもやるの初めてだったんだよな。発表会でも連弾をやるのなんてほんの一部だろ? そもそも自分と合った相手がいないと出来ねーし」


 二人で行う演奏。決して一人では奏でることの出来ない音を生み出す。自分と同じくらいの実力を持ち、呼吸を合わせて弾かなければ綺麗な音にはならない。緑間にその人が居なかったのと同じように、高尾の周りにも連弾をするような相手はいなかった。二人のレベルはそれぞれ違うけれど、自分の通っている教室でその相手を見つけられなければなかなか難しいのだ。


「前からちょっと興味あったんだよね。実際やってみて面白かった。一人で弾いたんじゃ絶対に出せない音を出せるっていうのがなんか新鮮だった。真ちゃんは?」

「悪くはなかったのだよ」

「なら良かった。まぁ、オレのレベルに合わせてもらったから真ちゃんには物足りなかったかもだけど」


 元の実力は緑間の方が上だ。持っている実力よりも低いレベルの曲くらいなら弾けるのも当然だが、理想をいうなら自分に見合ったレベルの曲の方が楽しいだろう。
 そう思ったのだが、緑間はその言葉を否定した。確かにこの曲は初見ですんなり弾くことの出来るレベルだったけれど、ピアノというのは難しい曲が全てではない。それは難しい曲の方がやりがいもあれば聞く方も感嘆の声を上げるだろう。けれど、どんなピアニストでも意外と昔習ったバイエルレベルの曲を気に入って時々弾いたりすることもある。楽しいか楽しくないかは、同じ曲でも奏者によって感じ方も弾き方も十人十色なのだ。


「これは良い曲だと思うのだよ」


 一言だけそう告げれば、高尾は一瞬目を大きく開いた。それからすぐに目を細めると、柔らかな笑みを浮かべる。


「じゃあまた暇な時にでも一緒に連弾する?」

「やってやらんこともない」

「素直じゃないね、真ちゃん」

「お前に言われたくはないのだよ」


 オレはいつも素直でしょ、なんて言いながら楽譜を片付ける高尾を横目に緑間もピアノを閉じる。部活がないからといって、いつまでも放課後の学校に残れる訳ではない。二人がこうして過ごしている間にも時間は流れ、そろそろ完全下校の時刻になろうとしていた。
 一番初めの状態まで戻すと鞄を手に音楽室を出る。職員室に鍵を返しに行った高尾を待つこと数分。お決まりのジャンケンをした後に二人は家路に着く。


「次のオフも音楽室の鍵借りちゃおっか」

「あまりやり過ぎると怪しまれるぞ」

「なら真ちゃん家は? 時々弾いてるならピアノあるってことだろ?」


 どうせ断られるだろうと思いながらそう口にしたのだが、意外なことに「そうだな……」と肯定を示す答えが返された。断られたら一回くらい良いじゃんと頼んでみようかと考えていただけに、この返しは予想外だ。高尾がなんて返そうかと考えている間にも、緑間は更に言葉を続けた。


「その代わり、今度はお前が弾け」


 そんな言葉が後ろから投げ掛けられて、思わず「へ」と間抜けな声が漏れた。弾けというのはピアノのことを指しているのだろうが、どういう意味だと視線だけ緑間に向ける。ここで後ろを振り向けば、ちゃんと前を見て漕げと怒られるからだ。


「オレはお前が弾いているのを聞いていないのだよ」


 言われてそういうことかと納得する。それは、高尾が音楽室に行って初めに緑間に言ったことと同じ意味なのだろう。素直に言えば良いのにと思いつつ、素直に言われたら言われたで困るのだけれど。


「言っとくけど、オレも小学校までしかやってないからな」

「それはオレも同じだ。人に弾けと言うのならお前の音も聞かせろ」

「分かったよ。そん時は、お前にオレの音を気に入らせてやるから覚悟してろよ」

「一応、期待しておくのだよ」


 一応は余計だっつーの、とペダルを漕ぐ足に力を入れる。
 楽器一つでも奏者によって響かせる音は全部違う。緑間には緑間の音が、高尾には高尾の音がある。同じ曲、同じピアノ、同じように弾いてもどこかしらに必ず違いは出ているのだ。連弾で綺麗に音が和を奏でた辺り、二人の音の相性は悪くはなさそうである。バスケで相棒をやっているだけあって、こちらでもその相性の良さは発揮されているらしい。

 高尾の音を緑間がどう感じるか。また、緑間の音を高尾がどう感じたのか。
 それは、次に二人がピアノを前にした時に分かるだろう。その時が来るのは、まだもう少し先の話である。










fin