「はぁ…………」
溜め息を吐くと幸せが逃げるなんていうけれどそんなことはどうだって良い。そもそも幸せなんてどこにあるのだろうか。別に何か悩んでいる訳ではないけれど。
何の変哲もない毎日を過ごしていたオレの生活はたった一人の人物によって大きく変わった。
(断る理由はないけれど、なんていうかな……)
何の変哲もない平凡な日常に変化が訪れたのはひと月ほど前のことだ。オレは大学に進学したのと同時に家を出て一人暮らしを始めた。理由は至ってシンプルで実家から大学まで遠かったから。それから社会人になった今も変わらずに一人暮らしをしていた。
そんなオレの元に突然やってきたのはオレの弟――といっても血は繋がっていないが、それでもオレにとっては大切な家族だ。その弟の両親は彼が幼い頃に交通事故で亡くなり、遠い親戚だったオレの両親が引き取ってから一緒に暮らしていた。過去形なのは、オレが家を出て一人暮らしをしていたからだ。
「母さん達からすれば丁度良かったんだろうな」
独り言を呟いてまた溜め息。
その弟がオレの元にやってきた理由も単純なものだった。進学先の大学が実家からでは遠く、しかし偶然にもオレの家からは結構近い場所にあった。それなら大学に通う間だけでもオレの元に行けば良いということになったらしい。
らしいと曖昧に表現したのは、オレがそれを聞いたのはその弟がやってきてからの事後報告だったからだ。母さん曰く、言ったつもりだったらしい。そういうことだから暫く宜しくと軽いノリで電話を切られたのは記憶に新しい。
「でも、大学生なら一人暮らしでも良かったんじゃねーのかな」
オレだって同じ理由で一人暮らしを始めた。きっと弟がこれを機に一人暮らしをすると言い出したのなら両親は止めなかっただろう。そういえばどうしてオレのところに来るという流れになったのだろうか。一番の理由は場所だろうけれど、わざわざここに来る必要があったのかは疑問である。
そんなことを考えていたところでコンコンと控えめなノックが聞こえる。ここにはオレと同居人である弟しか居ないのだから、それが誰のものなのかは必然的に分かる。
「どうしたの、真ちゃん」
「兄さん、今日は出掛けるんじゃなかったのか?」
言われて思い出す。近くの時計に視線を向けて時刻を確認するが、今から行けばなんとか間に合いはするだろう。だが、正直そういう気分でもない。
……などというのは良くないんだろうが、どうせ大学の頃の友人に飲みに誘われているだけだ。予定が空いているかと聞かれた時点で分からないから行けたら行くと返事をしていたし、やっぱり都合が悪くなったと連絡しておけば大丈夫だろう。
「あー……そのつもりだったけどやめたわ」
「体調でも悪いのか?」
「たまには可愛い弟と過ごすのも悪くないかなーって思ってさ」
冗談交じりに言えば可愛いという部分を速攻で否定された。男に対して使うものではないという言い分はもっともだが、兄弟に対して使うなら有りじゃないだろうか。それでも二メートル近い男に対してはおかしいと突っ込まれたけれど、オレにとってはいつまで経っても可愛い弟なのだからしょうがない。
血が繋がっていなかろうがオレ達は確かに兄弟だ。本当の家族じゃないにしても、家族というものは血の繋がりが全てではない。オレは真ちゃんを可愛い弟だと思っているし、真ちゃんもオレのことを兄と慕ってくれている。どこにでもいるような普通の兄弟と何も変わらないのだ。
「……そういうことは彼女にでも言ったら良いんじゃないか」
「お前が居るのにどうやって彼女なんて作るんだよ。まぁ前からフリーだけど」
仮に彼女が居たとしても弟と暮らしているこの部屋には呼べないだろう。心配しなくてもお付き合いをしている相手なんていないけれど。
これまでの人生で恋愛経験がないとは言わないが、真ちゃんがこの部屋に来る前から彼女なんて居ない。最後に付き合ったのは大学生だった頃だろうか。大して覚えていないのはオレにとってそれだけのことだったから。こういうと相手の人に失礼かもしれないが、だから別れたともいう。
それもそうだ。他に好きな人が居るというのに付き合ってまともな恋愛など出来る訳もない。今までも何度か付き合ったけれど続かなかったのは全てそれが理由だ。
だったら最初から付き合わなければ良かったんじゃないかと思うかもしれないが、オレは想い人に気持ちを伝えるつもりもなければこの恋が実ることは絶対に有り得ないと知っている。やってみなければ分からないという問題でもない。
最初から分かりきっている失恋。だけど、やっぱりその人が好きだから違う恋をしてみようとしても上手くいかないんだろう。
「真ちゃんこそどうなの? モテるでしょ?」
「別にモテないのだよ。大体、オレより兄さんの方が……」
「オレだってモテないし、つーかこんな話してても悲しくなるだけじゃねぇ?」
女性に人気があったとしても彼女がいないのもまた事実。進んでするような話ではないだろうと笑って流す。本当のところは彼女というものに興味はないから悲しくもないけれど、こんな話をいつまでも続ける理由もない。
でも、今は彼女がいなくてもいつかは綺麗なお嫁さんを見付けるんだろうな。それが世間一般的に幸せなことだし、弟に幸せになってもらいたいと思うのは兄として当然だろ。ただ、複雑な気持ちでもあるけれど。
「さてと、夕飯はどうするかな。何か食べたいものある?」
何でも良いと言われるのも困るけど、おしるこが食べたいと言われるのも困る。買い置きしてあるからそれを飲むのは構わないけど、一日にそう何度も飲むのはあまり体によろしくないだろう。そんなことくらい言わなくても分かっていそうなものだが、意外とそうじゃないところもあるんだよなこの弟は。
とりあえずおしるこは飲んで良いからと言って先程の質問を繰り返す。すると案の定何でも良いという答えが返ってきたので諦めて冷蔵庫の中を見て適当に考えることにする。
「兄さん」
部屋を出ようとしたところで呼びとめられて「何?」と振り向くが、その次の言葉がなかなか出てこない。珍しいなと思いながらも、何か言いづらいことでもあるんだろうかと考える。兄弟でも言いづらいことの一つや一つくらいあるだろう。隠し事だって何もない訳じゃない。
「……兄さんは、オレがいると迷惑か?」
予想外の言葉にきょとんとした。どうして急にと思ったが、親が連絡をし忘れていたということを真ちゃんも知っていたんだった。もしかしてずっと気にしていたのだろうか。そうだとしたら悪いことをした。
そりゃあ突然来られた時には驚いたけれど、オレにとって真ちゃんは大切な弟だ。迷惑だなんて思う訳がない。そう、迷惑とは一度だって思ったことがない。
「そんなわけないだろ。真ちゃんと一緒に暮らすのは楽しいよ」
「だが」
「真ちゃんはオレと二人で暮らすのは嫌? それなら今からでも一人暮らしとか……」
「オレは兄さんと一緒が――!」
不自然に詰まった言葉。思わず「え」と声が漏れる。
そうだ。結局オレはどうして真ちゃんがウチに来るという話になったのかを誰からも聞いていないんだった。オレが住んでいる場所は親は当前、弟である真ちゃんも知っていた。けど、一人暮らしの話にならなかったのは……。
考えたところで正しい答えなんて分からない。でももし、もし真ちゃんが一人暮らしよりもオレのところに来ることを選んだなら。いや、それもただ単に丁度良かったからなのかもしれないけど。
「…………」
都合の良いように考えてばかりでもしょうがないけれど、どんな理由であれ真ちゃんがオレを選んでくれたのならそれは嬉しい。さっきの言葉に偽りはなく、また二人で過ごす日々は楽しいものだ。お互いに会社や学校があるから擦れ違うことも多いけれど、誰だって好きな人と一緒に居られることは幸せだろう。
「真ちゃんはオレのことが好きなんだな」
くすりと笑って言うと嫌いではないと彼らしい台詞が返された。素直じゃないなと茶化すのもいつも通りのやり取りだ。
「オレは真ちゃんのこと好きだよ」
こんな風に“好き”を伝えるのもいつものこと。昔からずっとそうだ。可愛い弟のことが好きだった。いや、今だって大事な家族である弟のことは好きだ。
でも、いつからかオレの“好き”は弟に対するそれだけではなくなっていた。それがいつだったかなんて覚えていないけれど、真ちゃんはオレにとって特別な存在であるのは間違いない。
勿論、伝えるのは兄弟として。家族としての“好き”だけだけど。
「じゃあ、オレは適当に夕飯作るから出来るまでもうちょっと待っててね」
今度こそ部屋を出てオレはキッチンに向かう。冷蔵庫の中身を確認しながら今日の献立を考えると、早速夕飯の準備に取り掛かることにする。
兄弟としての境界線を越えたこの気持ちを伝えるつもりはない。だけど消えることのないこの気持ちはいつまでもオレの胸の中にある。
それはきっと、この先も変わらないんだろう。それでも普通の恋をしてみようとも思ったことはあったが、何度も失敗してもう無理だなと悟った。別にそれでも良いか、なんて思っていることは流石に親には言わないけれど。
(少しの間とはいえ、二人で暮らすことになるなんてな)
思っていなかったし驚きもしたけど、真ちゃんが来てくれて何の変哲もなかった毎日に変化が訪れた。ありきたりな日々に鮮やかな色がついたように今は楽しく生活をしている。
これまでも年に何回かは実家に帰って顔を合わせていたけれど、同じ屋根の下で暮らすのは何年振りになるだろう。お互いに変わったところもあるけれど根本的なところは何も変わっていない。
「好き、って言えたら良いのにな……」
好きと言えたなら、こんなに苦しい思いをすることはないんだろうか。
……どのみち叶わない恋なら同じことか。かといって自分か相手が女だったらとか、兄弟じゃなかったらとは思わない。弟として好きであるというのもまた事実だから。
オレ達は兄弟だから side:T
今はこの時を大切に過ごそう。兄として傍に居られるこの時間を。
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