課題を片付けながら一段落ついたところで少し休憩。なんとなく時計に目をやれば、いつの間にか時刻は夕方になっていたようだ。辺りが暗くなってきたと感じたのはそのせいだったか。
「そういえば…………」
数日前に顔を合わせた時だっただろうか。次の土曜日の夜は飲みに行ってくるから夕飯は適当に食べてくれるかと兄に言われたのは。
時間的にもう出掛けていてもおかしくはないけれど、玄関の音どころか部屋を出る音さえ聞いていない。聞こえなかっただけなら良いが、もしもまだ家に居るのならそろそろ出た方が良いんじゃないか。余計なお世話かもしれないけれど。
(この生活を始めて一ヶ月、か)
オレは大学に進学するのと同時に兄の住んでいるこの部屋に置いてもらっている。理由は在り来たりで実家からだと大学まで遠いから。たまたまオレの通う大学の近くに住んでいた兄の部屋から通っている。
そのことを兄がどう思っているのかオレは知らない。両親が連絡をし忘れていたようで、最初はかなり驚かれた。迷惑だと言われたことはないが、半ば押しかけみたいになったまま今日まで時間が流れた。
(兄さんは優しいからな)
迷惑だとしても迷惑とは言わないだろう。けれど、本当のことを知ったら兄はどう思うだろうか。それは兄は勿論だが両親だって知らない。むしろ知られてはいけない。ずっと隠し続けると決めている秘密だ。
『進学したら学校まで遠いし真太郎も一人暮らしする?』
『そのことなんですが、兄さんのところに行くのは迷惑でしょうか……?』
『和成のところ? そういえば大学からも結構近かったわね』
オレの提案を聞いた母は少しばかり悩んだ後、良いわねと頷き兄もきっと大丈夫でしょうとあっという間に話はまとまった。兄に確認しなくて良いのかと尋ねると、連絡をしておくから大丈夫と。
その連絡を忘れられた訳だが、兄はこれらを全部両親の考えだと思っているだろう。それで何の不都合もないのだから訂正をするつもりはない。オレが言い出したことだと知ったら、どうしてと疑問に思われるだろう。だから言わない。鋭い兄に余計なことを気付かれないように。
「とりあえず兄さんの様子を見に行くか」
考え事をしている間にも時間は流れている。もし兄がまだ家に居るのなら約束があるのではないかと聞いてみよう。
そう思いながら兄の部屋を訪ね、そのことを指摘してみると兄はすぐに近くの時計へと視線を向けた。表情を見る限り、不味いと思っているのだろう。兄にしては珍しく忘れていたらしい。お節介かとも思ったがこれで正解だったようだ。
「あー……そのつもりだったけどやめたわ」
やめた、というのは今決めたのだろう。今からでは間に合わないのだろうか。それとも体調が優れないのだろうか。普段の兄ならこんなことはまずあり得ないから。
……そう思ったのだが、どうやらそれも違ったらしい。
「体調でも悪いのか?」
「たまには可愛い弟と過ごすのも悪くないかなーって思ってさ」
心配して損した、とはいわないが二メートル近い男に対して可愛いというのは如何なものか。どこをどう見ても可愛いといえるような要素はない。
どちらかというば兄の方が……いや、兄も平均以上ある成人男性だが。これではオレも人のことは言えないが、それでも否定はしておく。
「二メートル近くある男に可愛いはないのだよ」
「えー? オレにとってはいつまでも可愛い弟だぜ?」
一体どこに可愛いと思えるところがあるのだろうか。兄の言うように弟だからというだけで片付けられるものなのか。
間違いなく違うだろう。オレが兄の身長を越えた時には悔しそうにしていた。昔は小さくて可愛かったのにと。とはいえ、オレは中学生になる頃には百七十あった訳だが。
「……そういうことは彼女にでも言ったら良いんじゃないか」
兄に彼女がいるかは知らない。でも、男のオレよりも可愛いという言葉は女性に使うべきではないだろうか。
彼女がいるか知らないからこその質問。その意図は文字通り、兄にお付き合いをしている女性がいるのか気になったから。別に誰と付き合おうが兄の自由でそれについてとやかく言うつもりはない。ただ気になったのだ。
「お前が居るのにどうやって彼女なんて作るんだよ」
それはオレがいなければ彼女を作るという意味だろうか。つまり兄は弟という存在に迷惑しているのかもしれない。弟に、というよりは押し掛けてなんだかんだで一緒に暮らすことになったことに対して。
付け足すように前からフリーだと言われたが、兄だって男だ。オレがいなければ彼女を作って部屋に呼んだりしたかもしれない。そうして幸せな家庭を作っていく。誰もが夢見る幸せだ。
だが、オレはそんな幸せを求めていないし自分には縁のないことだと思っている。兄の幸せは願っているけれど、自分はそうではないのだと。
どうしてそう思うのか。答えは簡単だ。オレが好きになってはいけない人を好きになってしまったから。決して実らない恋。それでも好きになってしまったものはどうしようもない。
だからオレはそういう普通の幸せは手に入らないし、かといって普通の幸せを手にしたいとも思わない。オレを引き取って育ててくれた両親のことを思うと心苦しいが、その人以外に誰かを好きになることは考えられない。
「真ちゃんこそどうなの? モテるでしょ?」
「別にモテないのだよ。大体、オレより兄さんの方が……」
「オレだってモテないし」
モテるだろう、と言おうとしたが本人に遮られた上に否定されてしまった。オレは先程口にしたようにモテないのだが、兄はどうしてそう言うんだろうか。まぁ、表面だけを見て言い寄ってくる輩がいることは知っているけれど。
その点、兄は性格的な面を見て好意を寄せられることが多い。人柄もあるのだろう。いつも笑顔で場を盛り上げるようなタイプ。更に小さいことにも気が付いて気が利く。そんな兄は実際バレンタインで大量のチョコを貰っていた。義理だと言っていたが本命だって多かったはずだ。
「つーかこんな話してても悲しくなるだけじゃねぇ?」
彼女もいないのにと言いたいのだろう。オレは大して気にならなかったが、やはり兄は彼女が欲しいのだろうか。
普通に考えれば当たり前のことだが、オレには少し複雑な気持ちでもある。兄には幸せになって欲しいが、その兄を好きになってしまったから素直に頷けない自分がいる。けれど、兄が結婚するとなれば心から祝福するだろう。確かにオレは兄が好きだが、だからこそ余計にそう思う。矛盾していようとオレがの望むのは結局のところ兄の幸せなのだ。
「さてと、夕飯はどうするかな。何か食べたいものある?」
この話は終わりだとでも言いたげに話題を変えられて、とりあえず思いついたものの名前を挙げたら飲んで良いけどそれは夕飯じゃないと言われてしまった。おしるこが夕飯でもオレは全く構わないのだが、兄は甘いものがあまり得意ではないから夕飯というのは厳しいか。
これを口に出していたのならそういう問題ではないと一刀両断されたことだろう。分かっていることをあえて言ったりはしない。代わりに繰り返された質問には何でも良いと答えておいた。それが一番困るのかもしれないが、兄の料理は美味しいからどんなものでも構わないのだ。本当、結婚したら良い旦那になるのだろう。オレとの間には出来ることのない絆で結ばれて。
「兄さん」
部屋を出ようとした兄を呼びとめると短く「何?」とだけ返された。色素の薄い瞳がこちらを見つめる。オレにはない色を持っている兄。オレとは正反対で色んなことを教えてくれたその人。血は繋がっていなくてもオレ達は兄弟だ。それ以前に同性であり兄弟である以上、この人はオレのことを弟としか見ないのだろうけれど。でもそれが普通のことだ。
「……兄さんは、オレがいると迷惑か?」
思わず呼び止めてしまったけれど何を言おうか決めてはいなかった。聞きたいことは幾つかあったがオレはその内の一つを疑問にして兄にぶつけた。この部屋に来る前に考えていたそれを。
兄に迷惑だと言われたことはない。この兄のことだから迷惑だとも思っていないだろう。これはこれで楽しいくらいに考えていそうなものだ。だけど、オレがいることで兄に迷惑を掛けていることがあるのなら。オレは一番初めに話題に出ていた一人暮らしをすることを選ぶ。兄と暮らしたいというのはオレの我儘でもある。それを兄が聞く必要はどこにもない。
「そんなわけないだろ。真ちゃんと一緒に暮らすのは楽しいよ」
予想通りの答えが返ってくる。これも兄の本心ではあるのだろう。とはいえ、ひと月前までの兄はオレと一緒の生活など欠片も考えていなかったはずだ。オレがいるから兄が彼女を作れないというのなら、それも迷惑を掛けているということになるのではないのか。他に思うこともあれど話も通っていなかったこの生活をこの先も続けなくとも誰も文句は言わない。
だから。本当にオレはここにいても良いのか、はっきりさせておきたかった。
「だが」
「真ちゃんはオレと二人で暮らすのは嫌? それなら今からでも一人暮らしとか――」
「オレは兄さんと一緒が……!」
またもや言葉を遮られたが、オレの考えとは真逆のことを言われて思わず反論しそうになった。途中ではっとして口を閉じたが遅かっただろうか。最後まで言い切らなかったし、兄弟として一緒にいたいと思うのはおかしなことでもないだろう。兄弟として、だけではないけれどそこは知られないで良い。弟としてで良いからオレはこれからも兄の傍にいたい。
「…………」
けれど何といえば良いのだろうか。特に深い意味はないのだと弁解するのは墓穴を掘るようなものだ。その結果、沈黙が生まれてしまい逆に気まずくなる。こういう時どうしたら良いのか、その術をオレは知らない。こういう時はいつも。
「真ちゃんはオレのことが好きなんだな」
くすりと笑いながら兄の瞳が真っ直ぐに向けられる。そう、兄はこういう時に上手く言葉を掛けてくれる。周りの空気を読むのが上手い兄だからこそ出来るのだろう。
それに対してオレはいつもと同じように「嫌いではない」と素っ気なく返す。素直じゃないと言われるのもお決まりだ。素直に本心など口に出来る訳がない。これでも嘘は言っていないのだから良いだろう。だが、素直に気持ちを伝えれば何か変わることもあるのだろうか。
「オレは真ちゃんのこと好きだよ」
正反対の兄弟。兄は思っていることを言葉にして伝える人だ。言葉にしなければ伝わらないこともある、というのは分かっている。分かっていてもそれは簡単に出来ることでもない。だから兄のことは凄いと思う。こういうところ以外にも色々と。兄は器用な人なのだ。
そんな兄の好意に素直に答えられない性格的なことだけが理由ではない。家族として、兄弟としての“好き”に対してそれ以上の想いを抱いているオレは何も返せない。
「じゃあ、オレは適当に夕飯作るから出来るまでもうちょっと待っててね」
それだけを言い残して今度こそ兄はキッチンへと向かった。これから二人分の夕飯を作るのだろう。出来るのなら手伝いたいが人には得手不得手がある。料理が苦手なオレが手伝おうとしたところで邪魔にしかならないから大人しく部屋に戻って課題の続きでもやることにする。
自室に戻り机に向かうがペンはなかなか進まない。頭に浮かぶのは兄のこと。兄弟としてこれからもこの関係を続けられたらそれで十分だ。それで良い、そうしなければいけないんだって分かっている。けど。
「兄さん…………」
胸が苦しい。これが恋をするということなのだろう。いつの間にか兄弟としての好きが別のものへと変わっていた。それに気付いた時は戸惑い、何度も自問自答を繰り返した。しかし答えは変わらなかった。そして自覚した。
同時に叶わない恋だと理解したけれど、この感情はそう簡単に消えるものでもなかった。おそらくこの先もずっと、オレはこの気持ちを抱き続けるのだろう。伝えることさえ許されないこの気持ちを。
オレ達は兄弟だから side:M
素直に気持ちを伝える。言葉にして伝える。
そうすれば何か変わるだろうか。
それを実現させた時。
オレ達のこの関係は間違いなく崩れることになるけれど。それでも。
(許されないこの気持ちを告げてみたいと、思ってしまうのはオレがまだ子供だからなのか……)
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