3.



 それは、まだ二人が高校生だった頃のことだ。
 自分達が恋人であることは絶対に、誰にもバレないようにしなければいけなかった。けれど、二人で過ごす時間はとても幸せだった。

 だが告白をした時、それを受け入れたあの時。
 二人は互いにそういうことも考えていた。

 確かに自分は相手が好きだ。しかし、この関係を続けている限り、友は素敵な女性と出会って家庭を持つという一般的な幸せを手に入れることが出来ない。相手の幸せを奪ってまでこの関係を続けるのか、ずっと考えていた。
 その疑問に二人はそれぞれ答えを出した上で一緒に居ることを選んだ。それなのに卒業と同時に別れることを選んだのは、やはりこのままではいけないと思う気持ちが生まれたからだ。だから別れた。別れを切り出したのもまた、高尾の方だった。


「何すんだよ、放せって」


 唇が離れてすぐに高尾は抗議の声を上げた。けれど緑間はその手を放さない。本気で嫌なら力づくで振り解けば良いのだ。それをしないのは高尾の意思だ。
 終わりにした。全部終わりにしたんだ。だけど、この手を振り解けないのはどうしてなのか。そんなことは本人が一番よく分かっている。


「高尾、恋は三年しか続かないのだよ。もし三年以上同じ相手が好きなら、その相手にまた恋をしたということだ」

「だから何だよ。んなことオレには関係ない」


 何が言いたいのかなんて聞き返さなくても理解していた。恋が三年しか続かないという話が本当なのだとしたら、自分達は出会ってから七年。高校を卒業してからもまだ相手が好きなのだとすれば、それは緑間の言うようにもう一度同じ人間に恋をしたということになる。この場合、緑間は高尾に。そして高尾も。


「オレ達は出会ってから七年。互いに相手を好きになった時から三年以上経っている。お前が女性と続かない理由くらい、自分で気付いているだろう」


 付き合っては別れを繰り返している友人。その原因を緑間はこれだと思っている。
 一つ恋が散ってしまったらそれを忘れて新しい恋に、そんなのは男女の恋愛でも当たり前のようにあることだ。昔の気持ちを引き摺っていたら前に進めない。上手くいく訳もない。誰が自分を見ていない人と付き合おうと思えるのか。
 女性とのお付き合いで失敗ばかりを繰り返す高尾は、まだ以前の恋を引き摺っているのではないか。そう考えれば、人付き合いが上手く女性からもよく好意を寄せられる男が進展しないのも納得がいく。


「知らねーよ。気付いてたらとっくに彼女と上手くいってんだろ」

「上手くいかないのではない。お前が上手くいかないようにしているだけだ」


 高校を卒業してからの彼の恋愛は本気ではないから。彼女が出来た時に向けている好意に嘘はなくとも、それは高尾の一番ではないから。だからそれに気付いた女性の方から離れて行く。一定の距離でしか付き合わず、深い関係になろうとしないのは高尾の方なのだ。高尾自身がそれを拒んでいる。

 どうしてそんなことが言えるんだよ。何も知らないくせに勝手なことを言うな。
 思ったままの言葉を口に出せば良いのにそれが出来なかったのは、緑間の言葉が全て事実を言い当てているからだ。どこにでもあるような未来像を語りながら、それが正しいんだと主張しながらも結局は形だけ。緑間がその一般的な幸せを手に入れるべきだとは思っているけれど、自分がそうなることは有り得ないと思っているから。


「そんなこと、あるわけ……」


 ないだろって、言えたら良いのに。言えない自分が居ることに嫌になる。
 女性は好きだ。そうでなければ彼女なんて出来ない。けれど、それ以上に好きな人が居る。その人以上に好きになれる人が現れると思えないから自分には普通の幸せを得る未来などないのだと、酒が入った状態でも残っている冷静な部分で考えていた。これで良いんだと言い聞かせて、自分の溢れそうに なる気持ちは全部毎回酒と一緒に飲み込んで。

 どうして年に二回しか会わないのか。
 あんなに親しかったのに。一緒に居ることが当たり前だったのに。

 周りはみんな疑問のように繰り返した。忙しければ会えないのも仕様がないし、恋人でも何でもないただの友達とそう頻繁に連絡なんて取り合わないだろう。おかしいことなんて何もない。
 そうやって答えてはいたけれど、本当はもっと別の理由がある。その理由はとても単純で、一緒に居たら忘れようとした感情を思い出してしまうから。近くに居てはいけないと思ったから必要以上の連絡を取らないようにした。自然と年に二回しか会わないようになったのは、お互いが同じことを考えていたから――ということも互いに分かっていた。分かっていても気付かないフリをし続けていた。それが暗黙の了解だった。


「酒の席では信じられないというのなら、そうでない時にお前に伝える。だからもう逃げるな」


 いや、逃げないでくれ。
 そう話す緑間の声が段々と弱々しくなっていくのと同時に掴まれた手の力も弱まっていく。命令形だった筈が頼むような言葉へと変えられ、辛そうな顔をしているのを見てチクリと胸が痛む。自分がコイツにこんな顔をさせてしまったのかと徐々に落ち着いてきた頭で考えながら、さっきまで回っていたはずの酔いなんて醒めてしまったなと思う。

 告白をしたのも別れを切り出したのも高尾の方から。別れようと言ったのは緑間が嫌いになったからではなく、はっきり言ってしまえば今でも好きだ。緑間の言うことはどれも的を射ているけれど、それでも自分達は別れるべきだと思ったからよりを戻すという選択肢はない。これが最良の選択なのだと信じて疑わなかった。離れなければいけないのだと、自分に言い聞かせて。
 普通に友達としてもやっていけるものだと思ったのはどちらだったか。けれどもっと一緒に居たいと、触れたいと頭の片隅で思ってしまったのはどちらだっただろうか。青春時代の綺麗な思い出は宝箱にしまっておこうと、そう思おうとしたのはいつだったか。もう忘れてしまった。


「高尾、オレは」


 約束を破るのはルール違反だ。約束なんて大層なものをした覚えもないけれど、暗黙の了解というものはあった。酒のせいで忘れてしまったなんて言い訳は卑怯かもしれない。それほど酔っていないことなど知られている上で破ったことなど分かりきっている。
 けれど、今だけは忘れていたことにして欲しい。ただの甘えと取ってくれても構わない。今、この一時だけ。ちゃんとした約束など端から存在していなかったのだからと都合の良いように考えて。


「……真ちゃん。オレはお前が嫌いになったから別れようなんて言ったんじゃない」


 嘘ばかりを重ねた上に出来上がった暗黙の了解を作り上げたのは高尾だ。それを察した緑間がそこに踏み込まないでくれたからこそ成り立っていた暗黙の了解を都合の良いように使っていたのはこちらだ。別れ話を切り出した時も高尾の気持ちを緑間が汲んでくれたからこそ、言い争いになることもなくすんなりと終わることが出来た。甘えていたのはいつだって。


「誰もが手に入れられる幸せを、お前も手にする権利がある」

「勝手なことばかり言うな。お前はオレの名前に傷を作りたくなかったとでもいうのだろうが、誰がそんなことを頼んだ」


 それは自分勝手なエゴだ。一般的な幸せが自分にとっての幸せだとは限らないことはお前自身も分かっているだろう。それなのに、人の幸せを勝手に決めつけるな。
 正しいことを言っているのは緑間だと、高尾も分かっている。分かってはいるけれど、ここで自分の意見を曲げることも出来なかった。ここでそれを曲げてしまったら、別れた意味がなくなってしまう。だからそれを押し通すように続ける。


「だって、あの“緑間真太郎”だぜ? お前の明るい将来を潰したくなかった」


 キセキの世代、ナンバーワンシューター。十年に一人といわれるほどの天才、秀徳高校のエース。勉強も運動も出来る秀才で、天才と呼ばれていながらも誰より努力をしていることを知っていた。
 近すぎたんだろうか。緑間のことをすぐ近くで見ていたから、自分がその隣には並べないと思ってしまった。並んではいけないと、彼の足枷になるようなことはしたくないと。緑間自身がそう思わなくとも世間が彼を見る目を知っていた。見えていた。気付いてしまったら、そこには居られなかった。


「ごめん、真ちゃん。逃げたのはオレだ。でも、オレ達の選択は間違ってなかった」

「……それは、これからも友達のままでいるということか」


 緑間の問いかけに高尾は静かに頷いた。もう自分達は子供ではないのだ。あと一年もしないうちに社会に出る。この選択が正しくて、この道を歩きながらも自分達は普通に生活出来ている。それなら横道に戻ることなんてないだろう。だからこれ以外の選択肢は高尾の中に残っていなかった。
 いつまでも昔を引き摺ってばかりいられない。頭では分かっていても心はそう簡単にいくものではない。それでも、緑間だって分かっているはずだ。あえて道を踏み外すようなことはするべきではないと。


「オレ達は終わったんだよ。もう元には戻れない」


 人いう生き物は不思議なものだ。一つの社会的概念にとらわれ、それに外れるものへは冷たい目を向ける。当たり前だ。それが社会から外れているのだから。犯罪に手を染めればそれなりの処遇が待っているし、人はそれを許さない。極端に言えばそういうことだ。
 たまたま好きな相手が同性だった。たったそれだけのことがこの社会には許されない。何も悪いことはしていないというのに、同性に恋をしたことこそが悪だとでもいうかのように社会の風当たりは厳しい。そこには普通の生活も当たり前の幸せもない。ただ好きになった相手が同性だっただけなのに、世の中は不思議なことばかりだ。


「最近は就活とか色々あって疲れてるだろ? 少しはオレのことも頼れよ。友達なんだからさ」


 話を収束させながら友達だとはっきり言葉にする。それが高尾の答えなのだと緑間にも分かった。友達でいることを彼は望んでいる。それなら自分の我儘に付き合わせることは出来ない。短く「すまなかった」と謝罪すれば高尾は困ったように笑いながら首を横に振った。

 お互いに相手の気持ちを分かった上で気付かない振りをしたまま四年が経った。正確には三年と三ヶ月、頼れと言っても頼らないだろうし頼りたくても頼ろうとしないだろう。
 そんな二人が次に会うのは四ヶ月後。いつもと同じように誕生日の数日前に連絡を取り合って誕生日に会う。それはこの先もずっと変わらないのだろう。恋人や家族が出来たなら話は別だが、少なくとも二人が独身である間はずっと変わらない。


 どちらともなく離れた後、そっと触れ合った手と手。
 重なり合ったそれをどちらも自分から離そうとはしなかった。