22.



 お前は今幸せか。
 そう尋ねた時、緑間はきっと思い出していたのだろう。思い出して、だからこそそんな質問を投げ掛けた。

 この世界のどこかで幸せに暮らしていてくれさえすればそれで良い。

 離れた土地で生きていた二人がお互いのことを考えてはただ一つ願ったのはそれだ。自分がそう思っていたから相手もそう思っている筈だと考えた訳ではない。自分達が似ていると思ったこともない。自分のことより相手のことを考えては何度もぶつかった。自分を大事にしろと怒り怒られ、静かな夜で家族の寝顔を見ながら話した気持ちは同じだった。
 本当の家族が居なくたって、本当の故郷なんてなくても元気にやれているなら良かった。
 そう話したあの頃。共通していたその思い、だから今もおそらく同じなのではないだろうか。そう思ったからこそ問う。ずっと気になっていたそれを。


「…………幸せだと答えれば、お前の気は済むのか」


 こんな言い方をしてしまうのは、そうではないと分かった上で聞いているから。それならどうして聞いたのかって、他に言葉が見つからなかったから。本当の気持ちを答えて欲しいと思っているのだろうが、例えここで嘘を吐いたとしても高尾は追及しないだろう。嘘だとは気付くだろうが、それが今の緑間の答えならと受け入れる。そういう奴だ。
 実際、高尾はこの言葉に思ったままに答えれば良いとだけ言った。それがどんな答えだとしても今の緑間が出した答えがそれなのだと思うだけ。ここで嘘を吐くとしたら距離を置きたいから、精神的にか物理的にかは分からないけれど。本当のことを言ってくれるならそれだけ近い関係、親しい間柄で居られているのだろう。
 だから、どんな言葉でも良い。緑間の気持ちを知りたい。それが質問の本当の意図。そんなつもりで尋ねた訳でもなければ、なんとなくでお互いそれを理解しているだけだけれども。


「オレは今、不幸ではないけど幸せとは言い切れない。周りの人達はみんな優しくて恵まれた環境だと思う。幸せだった。でも今は幸せだって言い切れないんだ」


 どうしてか分かる?
 問うた本人が先に答えたのは伝えておきたかったから。言葉にしなければ伝わらない、自分達にはそれが足りなかったと気が付いたからもう間違いたくない。


「お前が居ないから。オレは幸せだって言えない」


 それだけで変わるのか。高尾にとってはそれだけでも変わるのだ。記憶を思い出していなかったとしても大切な仲間の一人が居なくなったら幸せなんて言えない。思い出したから余計に言えない。
 ひと月前、故郷で幸せだと答えたのは本心だ。故郷で過ごしていた日々も幸せだった。あの時もあの時で同じ海賊である仲間達と過ごす日々を幸せだと思っていた。あの頃とは違うけれど、これも一つの幸せの形だと。そう思えるくらいには今の仲間のことが好きなのだ。

 それでも今は言えない。バレると分かっている嘘なんて吐く理由がないし、ここで自分が嘘を吐くなんて出来ない。それに、ちゃんと話すと決めたから本心を口にする。


「真ちゃん、教えて」


 どんな答えでも良いからその答えが欲しい。緑間の気持ちを知ったら、それがどんなものであろうとも受け入れて自分の中で決着をつけるから。


「……全く、何でも良いと言っているようには見えないな」


 嘘でも本当でも、思ったままに答えてくれれば良いとそう言った。だが、とてもじゃないがそんな風には見えない。いつまでたってもそういうところは変わらない。そう思ってはいるのだろうが、無理して笑っているのを見れば本当はどんな答えが欲しいかなど一目瞭然だ。
 緑間はそっと高尾に手を伸ばす。躊躇するように一瞬止まった手は、結局高尾の頭に乗せられた。


「オレはお前が笑ってくれさえいれば幸せだ。ずっと思っていた。アイツ等やお前の為なら、オレはどんなことだってするのだよ」


 なぜ海軍に居るのかと高尾は聞いた。海軍は正義ではない、その通りだ。だから高尾を助けたあの時、赤司に言った。海軍は間違っていると。
 海賊である高尾と出会った時に帝都へ向かうつもりだったのは、言うまでもなく生きているのなら海軍に戻らなくてはならないと思ったからだ。だが、冷静に考えてみればこれは海軍を離れる丁度良い機会でもあった。好きで居る訳でもない海軍に戻って間違っていると思う仕事を淡々とこなす。望んでも居ない立場を捨てるには、このまま海軍には戻らないことが手っ取り早かった。

 どうしてそんな場所に身を置いていたのか。宮地にも話したようになりたくてなったのではない。軍の上層部になることも、そもそも軍に入ることも。全部あの男が決めたことに緑間はただ従っていた。大切な人達を守る為にはそれしかなかった。
 あの後、高尾と別れた後で海軍と遭遇した。高尾が一人別行動を取ったのは、海軍の連中を引きつける為。自分が囮になって引きつけるからと言い出した奴に一人では危険だと止めたのだが、このままじゃ全員捕まって終わりだと言われて否定出来なかった。昔からすばしっこかった高尾は、その役目は自分が適任だと言った。続けてもし海軍が追い付いたとしたら緑間が居た方が良いと。あの中で一番強かったのは緑間だったから。それに、最年長の自分達が他の奴等を守らなければいけないと思っていた。


「じゃあ、お前が海軍に居るのは…………」

「強いといってもオレ達の中でだったからな。なんとかしてアイツ等だけでも逃がそうと思ったのだが、そんなオレにアイツは提案してきた」


 腕は悪くない。その力を国の為に使ってみる気はないか?君が来てくれるのならこれ以上手は出さない。
 何を言っているんだと思った。けど、戦ったところで負けは見えていた。実力が違いすぎる。たかが子供一人の言葉でそんなことが出来るのかと疑った。それに気付いた奴は、もし約束が守れなかったらととんでもないことを言い出した。本当にそんなことはしないだろうと思ったが、そんなことを言えるくらいの自信はあると分かった。
 だから、その提案を飲んだ。家族を守る為に。


「軍に入ってからアイツ等には会っていないからどこで何をしているかも分からない。だが、お前達からすれば海軍は敵でしかないだろう。そんな組織に居るオレのことなど忘れてしまえば良い。オレはお前達を裏切ったのだからな」


 自分達にとっては海軍は正義なんかじゃない。そんな世界に居るというのは裏切りのようなものだ。かつての仲間達に会う資格なんてない。それでも元気にやっていて欲しいとは願っていた。それくらいしか、自分に出来ることはなかったから。
 だが、それは違う。緑間の話を聞く限り、軍に入ったのは仲間を守る為だろう。高尾を除く全員はそれを知っているだろうし、知らなかったとしても本当のことを聞いたら裏切ったなんて思わない。知らなかった高尾も裏切られただなんて思っていなかった。何か理由があるんだろうと、だからどうしてだと問ったのだ。そして、やっぱり理由はあった。


「オレもみんなも、お前のことを裏切ったなんて思わねぇよ。少なくともオレが逆の立場だったら同じことをしたと思う」

「……相変わらずだな。お前はいつも――――」

「お互い様だろ? 真ちゃんがオレに対してるのと同じこと、多分オレも思ってるよ」


 似た者同士、だと感じることがあるとすればそれは本人達ではなく第三者から見てだ。どちらかといえば性格は正反対。それでも一緒に居て過ごしやすい、そんな相手。その昔、食料を盗みに入る時に考えた作戦に異論がなかったのは同じ考え方だったからだ。そういった面での考え方にそう違いはないのだろう。
 生まれは違っているが、同じような境遇で一緒に育ってきた二人。共に過ごしながら相手のことをそれなりに理解し、同じような行動を取っている自分達の考えていることとは何かを考えるのはそこまで難しいことではない。


「オレの幸せは真ちゃんが居なければ成り立たない。真ちゃんの幸せがオレにあるなら、一緒に行こう?」


 やっと見つけたんだ。本当は無理にでも連れて行きたいところだが、それは何の意味も持たない。自分のエゴで緑間を連れ回すことは出来ない。
 だけど、もし。緑間の幸せが高尾にあるのなら、高尾の幸せは緑間にあるから一緒に来て欲しい。双方の願いは一致しているのだ。素直にそれを選び取るのなら答えは自然と一つに絞られる。だが、人それぞれ違った考え方を持っているのだからそうすんなりといくものではないと知っている。

 それでも自分を選んでくれれば良いのに。

 なんて、我儘は心の奥にしまっておく。もう成人もしていて子供ではないのだ。子供だった時にそんな我儘を言ったことがあったかは定かではないけれど、この年になれば流石に色々と覚える。
 むしろ子供の頃から色々と見えていたような気がするけれど。そう思っていたのは誰だったか。時折やけに大人びたことを言っていた気がする。そんなことまで考えるな、お前だってまだ子供だろうと、そう言っていたのはいつのことだったか。


「お前は、オレが居なくてもやっていけるだろう」

「さあ、どうだろうな。そりゃ、真ちゃんにはオレなんて必要ないかもしんないけど」


 別に卑屈ではないけれど、自分一人が居なかったところで相手の世界が変わるとは思っていない。実際、それでも世界は動いていて、これまでと違う生活にも馴染んでいった。どんなことがあってもなんだかんだで人生はやっていけるものだ。
 それとこれとは違うだろうと言ってくれる人はこの場には居ない。それは違うと否定する気にはどちらもならなかった。それならさっさと行けとも、もう勝手にしろとも言いはしない。

 本当は、全部分かってる。
 自分がどうしたいのかも、相手が何を望んでいるのかも。

 足りないのは言葉と勇気。それから、信じることと自分の気持ちに素直になることだろうか。ただ純粋に笑って過ごしていたあの日々のように。


「真ちゃん、帰ろ?」


 一緒に。もうこの手を離したりしないから。
 ただ傍に居たい。緑間の隣は本当に居心地が良くて、それだけで心が落ち着く。

 ねぇ、もう名前では呼んでくれないの?


「……だから、どうしてお前はそんな顔をするのだよ」


 そんな顔ってどんな顔だよ。
 聞くより前に今度は抱き締められた。ぎゅうと、力一杯に。さっきは背中に腕を回すことを躊躇したけれど、今はどうでもよくなってしまった。こうしてやれば高尾は安心するのだと、昔からの経験で知っているから。そんな顔をするなと行動を通して伝える。


「また海軍に追われるかもしれないぞ」

「今更だろ。オレだって昔よりは強くなったから、今度は一緒に戦わせて」

「オレは最初からそのつもりだったのだよ」

「…………うん、ごめん」


 目の前に守りたいモノがあって守るなという方が無理な話だ。あれこれ考えてみたところで最終的に辿り着く場所は変わらなかった。それなら下手に考え過ぎてお互い心残りをしたまま別れるより、行く先々に障害物があろうと納得のいく方を選ぶのが良いに決まっている。考え過ぎてはいないけれど、納得もせず別れたあの日のことを思い出せば残るのは後者しかない。
 ごちゃごちゃ考えたけれど考えたところで自分の気持ちは何も変わらない。それで誰も得しないのならその選択肢は削除するべきだ。何より、この友人を一人にはしておけない。そう思った。


「昔より分かり易くなったな」


 取り繕おうとしたところで緑間は気付いていたけれど、それでも昔より感情が表に出るようになったように見える。ただ単にこちらの観察力が上がったのか、高尾の方が隠すことが下手になったか。
 誰のせいだよという声が聞こえてきた辺り、本人は緑間のせいだと言いたそうである。オレが何をしたと言うんだと返しても答えは変わらず。何年振りに会ったと思っているんだとか、色んなこと考えてたら感情がぐちゃぐちゃになって上手く取り繕えなかったんだとか、そんなこと言える訳がない。高尾にだってプライドはあるのだ。どんなプライドだ、と緑間が聞いていたなら突っ込んでいたかもしれない。


「真ちゃん」

「何だ」

「名前、呼んで」


 自らも背中に回した腕に力を込める。
 深い意味なんてない。ただその声で呼んで欲しかっただけ。自分ばかり名前を呼んでいるなんて昔から、ここ数ヶ月一緒に過ごしている時だってそうだったけれども。たまには呼ばれたい、と思ったりして。


「これで良いのか、和」


 お前は何を確かめる為に名を呼んで欲しいと言ったのか。理由を求めたところで呼ばれたくなったからと答えられるだけだろう。
 けれど、本当はもっと根本的なところ。高尾にとってはそれなりの意味を持つ頼みであることは、力のこめられた腕で察した。それが何だろうと緑間は自分に出来ることをしてやるだけだ。自分よりも小柄な体は、確かに腕の中に在る。


「……なんか昔に戻ったみたいだな」

「あれから十年以上も経っている。お前も成長はしたのだろう?」


 どちらともなく体を離す。見上げた高尾は当たり前だと笑った。もう何も出来ない子供じゃない。体も心も成長している。わざわざ説明しなくても一緒に居たのだから分かっている。
 最年長だったからという理由で自然と一緒だったあの日々。説明係から戦闘の相性も良いからもうセットで良いだろうと共に居ることが多かったこの毎日。いつだって傍に居て、なんとなくお互いのことを理解して。おそらく世界中の誰より気を許せる相手で、頼り頼られることが出来る人。
 すっと腰から剣を一本抜き取ると高尾はそれを緑間に投げ渡した。自分も守りながら守られるのならまだしも、守られるだけなんて納得いかないだろうから。


「適当に持ってきたモンだけど斬れれば問題ないよな?」

「それ以外の用途に使うつもりはないのだよ」


 緑間が高尾を助けに来た時。必要最低限の物だけしか持っていなかったのは、高尾を助けて自分はこの場に残ると決めていたから。助けるのに必要な物以外は持っているだけ邪魔になるだけ。
 高尾が緑間の元へと来て、その分の剣も持っていたのは共にいきたいと思ったから。勿論、緑間がそれを選んでくれたらの話だけれど。それを選んで欲しいという思いと、きっと選んでくれると信じたい気持ちとが混ざり合っていた。どちらにしてもがさばる物ではないからと持ってきていた。

 同じ場所にやって来ているのに前回と今回とでは状況も立場も全く違う。考えていることもやはり違っていて、この関係だってなんといえば良いのかも分からない。
 それでも。自分達の関係の根本にあるものは何も変わらない。変わる筈もない。


「真ちゃん、オレまだお前に話したいこと沢山あるから」

「奇遇だな。オレもお前には話したいことがあるのだよ」


 それならば、さっさと終わらせてしまおうか。
 交錯した二つの色。強い光を持つ瞳にふっと笑みを零して、今度はその手を取って進むのだ。