数週間前。病院では優秀な若い医者が手術を担当した。患者も医者と同い年。そもそも医者がこの道を選んだのは、この患者の目を治すためだった。
手術は無事に成功。それから暫くは包帯を付けたまま生活をすることとなったが、元々見えなかったのだからその点は何の問題もなかった。どちらかといえば、その後の方が問題だった。
光溢れる世界
「高尾」
緑間が声を掛ければ反応を示す。何も言わないのはその先の言葉が分かっているからだ。案の定、次に出てきたのは予想通りの言葉。それに対して「分かってる」とだけ返せば、続いては溜め息が耳に届く。
分かっている。分かっているけれど立ち止まってしまったのだ。
「何を心配しているのだ」
「何も。真ちゃんが担当したのに心配することなんて何もないじゃん」
それなら、とは言わなかった。後は本人の問題だ。まだ気持ちが固まらないのだろう。時間はたっぷりあるのだから焦ることでもない。
心配事はない。けれど一歩を踏み出せないのは、それだけ高尾にとって大きなことだからだ。高校時代、バスケの試合では勝っても負けても涙を見せることはなかった。また次があると声を掛けて、いつだって笑っていた。チームの中でそういう存在だったというのもある。人知れず涙を流すことはあったけれど、少なくともチームメイトの前では泣かなかった。
そんな奴が泣いているのを見るのは大概これに関わることだった。光を失う時、あんなにも辛そうだったというのに今は光を取り戻すことに戸惑っている。
「また見えなくなることはない。あとはお前が覚悟を決めれば良いだけなのだよ」
戸惑っている原因はおそらくそこにあるのだろう。見えるようになってもまた見えなくなったりするんじゃないか。そんなことはないというのに有り得もしないもしもが頭の中には生まれてくる。
もう十年も付き合っているのだから高尾の考えていることが緑間にも理解出来るようになってきた。とはいえ、高尾が緑間を理解出来るよりも少ないだろうが、それでも大分分かるようになったものだ。特に、こういう時に何を考えているかは分かり易い。
「…………真ちゃん、お願いがあるんだけど」
漸く口を開いたかと思えば、いきなりそんなことを言い出した。その頼みが何かは分からなかったが、緑間はその先を促した。出来ることなら何でも聞いてやるつもりだったからだ。
話を促されて高尾は少し迷いを見せたもののその頼みを口にした。
「包帯、取ってくれない?」
この包帯を取るだけの勇気が持てない。それを人任せにしてしまうのは良いのか分からない。だけど、自分ではまだ時間が掛かってしまいそうだった。大丈夫だと分かっているのに手を伸ばすことが出来ない。だからすぐ傍に居た緑間に頼む。否、近くに居たからという理由ではない。相手が緑間だから頼んでいるのだ。
頼まれた方の緑間はといえば、ゆっくりと立ち上がって高尾のすぐ目の前に立った。一番初めにこの包帯を巻いたのも、何度か取り換えているのも全部緑間の仕事だ。いつもと同じ要領で包帯に指を掛ける。そのままゆるゆると解いていけば、あっという間に包帯を取り終える。
「大丈夫だ。オレを信じるのだよ」
ぎゅっと瞑られたままの瞳にそっと唇を落とす。柔らかな感覚が瞼を通して伝わる。一瞬ビクッと反応したが、すぐに力が抜かれる。
そして、閉じられたままだった瞳がゆっくりと開かれていく。急に飛び込んできた光に思わず目を細めたが、そのまま瞼を持ち上げる。
「真ちゃん……?」
「どうした」
「また美人さんになった?」
予想外過ぎる言葉に緑間は深い溜め息を吐いた。そんな緑間を見ながら、高尾はしょうがないじゃんと言い訳を始める。何がしょうがないんだと思いながらも顔を上げて話を聞いてやることにする。
「だって、オレが真ちゃんを最後に見たの卒業式の日だよ? あれから何年経ったと思ってんのさ」
そうだったか、と緑間は記憶を辿る。高校を卒業した時には高尾の方から会わないし連絡もしないと言われた。緑間もそれを受け入れて、ずっと連絡は一切しないまま過ごしていた。卒業式以来、初めて連絡を取ったのは高尾が失明したその日だった。夜中に電話をしてきた高尾に会いに行ったが、その時にはもう瞳に何も映していなかったのだ。
その日を境にまた連絡を取るようになり会うことも増えたが、確かに高尾の発言通りのようだ。緑間からすれば大学生の頃からずっと見ていたからあまり気にならなかったが、数年振りに見た高尾からすればそういうものなのかもしれない。
「だが、その言い方はどうかと思うのだよ」
「オレは事実を言ったまでだぜ。なら、大人っぽくなったなら良い?」
まぁそれなら良いかと思ったところで、そういう話ではないだろうとなった。全く、目が見えようと見えなかろうと高尾は通常運転らしい。数分前までの姿はどこにいったのだろうか。こっちの方が高尾らしくて良い気はするけれども。
「もっと他に何かないのか」
「他? うーん……真ちゃんまた背伸びた?」
「卒業した時と比べれば少しは伸びたのだよ。だが、そういう話ではないと言っているだろう」
確認するまでもなく目は治ったらしい。けれど、他にもっと言うことはないのだろうか。先程から高尾は緑間のことしか話していない。それ以外でと言いたいのにどうも伝わっていないらしい。
「じゃあ例えばどんなだよ。この病室だって初めてだし、オレが知ってるのなんて真ちゃんくらいなんだもん」
比べる対象が他にないと言いたいようだ。別に何かと比べろと言っている訳ではないのだが、この際そんなことはもう良いだろう。とりあえずそこに座れと緑間が指示をすれば、高尾は大人しくそれに従った。
それからは一通りの検査、というより確認みたいなものだ。医者と患者として二人が接するのは、この病院に来てからは毎日のようにやっているやり取り。しかし、いつもとちょっと違うやり取りになる。光の戻った瞳が真っ直ぐに緑間のことを見ている。それが気になりながらもなんとか診療を終わらせる。
「本当に真ちゃん医者なんだね」
「それは一番初めに聞いたのだよ」
緑間が医者になって高尾の目を治療することになった時。当然ながら医者と患者なのだから色々と必要なやり取りが行われた。その時にも高尾は今と同じことを言ったのである。最初は医者みたいだなんてことも言っていたが、本物の医者だと怒られていた。診療をしなければいけないというのにまともに進まなかったのは今の状況とほぼ同じだ。
「ねぇ真ちゃん」
普段からよく喋るが今日はより一層多く話している気がする。気がするのではなく本当に多いのだろうが。今度はなんだと聞き返せば、見慣れた笑みが浮かべられていた。
「3P見せて。勿論、コートの端から」
それは手術をする前日の約束。高尾の目が治ったら3Pシュートを見せるという話をしていたのだ。
もう何年も見ていない、何年も打っていないシュート。
いくら高校時代はコート全てがシュート範囲だったとはいえ、いきなりコートの端から打ってと頼むのは厳しいのではないだろうか。そんなことは高尾自身も分かっている。けれど、緑間は当然のように「分かっているのだよ」と答えた。
「約束だからな! ところで、真ちゃんはいつなら空いてんの?」
目は無事に治ったけれど緑間との予定が合わなければ無理な話だ。忙しいだろうことは知っているから、高尾はいつになるんだろうと頭の中で考え始める。
しかし、緑間は立ち上がるなり高尾の手を掴んで歩き出す。この行動の意味をすぐに理解して、高尾は慌ててストップをかける。どう考えても今は仕事中だというのに抜け出すのは不味い。同じ成人男性だというのに強い力で引っ張られては高尾に勝ち目はない。ひたすら名前を呼び続けて漸く止まってはくれたが、翠の瞳は二十センチも低い場所にある高尾を睨む。だが、それだけ怯んだりはしない。
「何なのだよ」
「何なのだよ、じゃなくてさ! 今仕事中だろ! 抜け出したらマズいじゃん!!」
正論を言っているのは高尾の方なのだが、緑間は何だそんなことかといった感じで再び足を進める。いきなり引っ張られて足が縺れそうになるのをなんとか耐える。とりあえずどうにかしなければいけないと考えているところで、緑間からはとんでもない言葉を聞かされた。
「今日は休みだ。心配はいらん」
休み、という言葉に高尾は素っ頓狂な声を上げた。「そんなの初耳なんだけど」と言えば「今言ったのだから当然なのだよ」と返ってくる始末だ。これは一体どうしたら良いのだろうか。仕事が休みだというのならこのまま外出したところで問題ないだろう。退院手続も何もしていないが担当医は目の前に居るのだ。まぁ大丈夫かという結論を出す。
そのまま二人は近くにあったバスケットコートまで移動した。ボールはちゃんと手元にある。どうしてすぐにボールが用意出来ているのかといえば、例の如くおは朝占いのラッキーアイテムらしい。
「おは朝って凄いよな……。今日のラッキーアイテムがバスケットボールなんて、どんなタイミングだよ」
「言っておくが、それは蠍座のラッキーアイテムだ」
「は? じゃあオレのってこと?」
聞き返せば肯定された。どうして高尾のラッキーアイテムまで持っていたのかは知らないが、高校の時から蠍座の運勢が悪い時にはラッキーアイテムを持ってきてくれたこともあった。今日もそんな感じなのだろうとことにしておく。
「バスケットボールに触るのなんて久し振りだな。さっきはああ言ったけど、とりあえずどこから打つ?」
「コートの端から打つが」
いくらなんでもそれはキツイだろうとあえて尋ねたのだが、返ってきた答えはそのままだった。マジで言ってるのと高尾は思わず聞き返したが、緑間はそれに答えずにコートの端まで歩いて行く。本当にそこから打つ気なのかと思いながら、軽くボールをバウンドさせる。念の為に最後にもう一度「本当に良いの?」と投げ掛ける。だが、やはり返答は変わらない。
「当たり前だ。ラッキーアイテムも持っている。人事は尽くしたから心配はいらないのだよ」
そこまで言うなら良いかと高尾も緑間の言葉を信じることにする。とはいっても、なぜか緑間が外す気はしないのだけれど。
「オレのラッキーアイテムがこれなら、真ちゃんのラッキーアイテムは何なワケ?」
それは純粋な疑問だ。物によっては大きい方が良いといってやたら大きい物を持ち歩く程だったのだ。病院に置き場がないから小さい物にしても、ぱっと見て気付く程の大きさの物ではないらしい。それとも画像とかの類なのか。おそらくは身に付けているのだろうけれど、ラッキーアイテムと思える物が見て取れない。
けれど、いつもなら素直に教えてくれるアイテムを今日は教えてもらえなかった。何でも良いだろうと誤魔化されて逆に気になったけれどまぁ良いかと考えるのをやめる。
「高尾、さっさとボールを寄越せ」
「はいはい。分かってるよ」
バウンドさせていたボールを手の中に収めると、昔の感覚でパスを出す。そのパスは真っ直ぐに緑間の元に届く。そして放たれたシュートは記憶に残っていた軌道と全く同じ。リングになど触れずに綺麗に真っ直ぐネットを潜った。
キセキの世代と呼ばれた男は今も此処に存在している。その超長距離3Pシュートは健在らしい。ブランクなんてこの男にはないのか、そう思ってしまう程に美しい弧を描いたシュートが決まった。
「高尾」
その声で高尾ははっとして緑間を振り返った。つい先程まで緑間のシュートに見惚れていたのだ。秀徳でバスケ部に入部して初めて見たこのシュートを見た時の感覚は今も覚えている。あの時感じたことも思ったことも全部。高尾はこのシュートに惹かれて、緑間真太郎という人を追い掛け続けてきたのだから。
「真ちゃんはやっぱスゲーな! ブランクあるのにホントに入るとは思わなかったぜ」
「オレは人事を尽くしているのだよ」
「それは知ってるって。真ちゃん今からでもプロ目指せるんじゃね?」
冗談交じりにそんなことを話す。バスケから離れていてもその実力は一つ抜き出たままのようだ。この様子では、他のキセキの世代も久し振りだからどうだろうと言いながら皆凄いプレーを見せてくれそうだ。十年に一人の天才と呼ばれるだけのことはある。
そんな奴等と一緒にまたバスケをやったりしたら、それはもう色んな意味で凄いだろう。かつてキセキと呼ばれた実力者の、有名人だらけのバスケ。ただの遊びにしたってかなりの話題性だ。
「マジでまた皆でバスケしてーな。キセキがバスケしてるの見ていたい」
「アイツ等とやるのならお前が居ないと困る」
「そんなにオレのパスが良いの? プレーしてから怒んなよ」
「怒る訳ないのだよ。この前言っただろう」
彼等の高校時代。高尾は相棒を緑間だといっていた。いつからか、緑間も相棒は高尾だというようになった。能力があろうとなかろうと、相棒であることに変わりはないのだ。実際に皆で集まったとしてチーム分けはくじか何かになるのだろうけれど。
それでも、どうせやるのなら二人一緒にと思うのだ。高校以来バスケをしていないのはどちらも同じ。またバスケをすることがあるのなら、二人でやりたいのだ。
「じゃあそん時は宜しくな。皆への連絡は真ちゃん宜しくね」
「どうしてオレがしなければいけないのだよ」
「当たり前じゃん。オレはキセキの連絡先知らねーもん。真ちゃんしか連絡取れないんだって」
高尾の言うことは尤もだ。仕方ないかと溜め息を吐きながら、緑間は今度赤司にでも久し振りに連絡を取ってみるかと考える。ここまできたら皆で、高尾と一緒にまたバスケをやるのも悪くないと思ったから。赤司に連絡を付ければ他はどうにでもなるだろうという見解だ。
そう考えている間に高尾は先程のボールを手に取って弄っている。そんな高尾の傍まで歩いて行けば、向こうもこちらに気付いたらしい。久し振りに近くで見る双方の瞳、慣れているけれどどこか新鮮な身長差。
「真ちゃん、どうかした?」
何も言わない緑間に疑問を浮かべる。数秒の間を置いて動いた緑間の右手は高尾の左手を手に取った。きょとんとしている高尾を気にせず、緑間は漸く口を開いた。
「今日のラッキーアイテムは何かと聞いたな。それは、これなのだよ」
言うなり左手を持ち上げる。それから次に起こした緑間の行動に、高尾は目を丸くした。じっとそれを見た後、がばっと顔を上げて緑間を見た。
「真ちゃん、これ…………」
「ラッキーアイテムだ。それに、約束しただろう」
先程は誤魔化されたラッキーアイテム。これがラッキーアイテムだということは、つまり、そういうことなのだと高尾も理解する。まずこの行動の時点で何となく分かっていたが、最後の言葉のお蔭でそれは確信へと変わった。
それは今回の約束よりもずっと前にした約束。
「これからもずっとオレの隣に居てくれないか、和成」
その約束は、ある約束と同じ日に交わされた。
――オレがお前の目を必ず治してやる。
卒業式が終わった後、一年の教室に二人きりで残っていた時の約束。医学部に進んで勉強をして医者になる。そうしたら必ずお前の目を治す。だから信じていろと。
緑間のその言葉を信じて、高尾は待ち続けていた。その言葉通り、緑間は医者になってついこの間。手術をしてこの目に光を取り戻してくれた。今日、光のある世界をまたこの目で見ることが出来たのだ。
それが高校生活最後の日の出来事だ。しかし、話はそれだけで終わっていなかった。
帰り道、どうしてそこまでしてくれるのかを高尾が尋ねた。その時、緑間はさらっと答えた。
『お前が好きだからだ、高尾』
と。そこで漸く教室のキスの理由も知ることになったのだ。
片思いで失恋だと思っていた恋は、意外なことに両想いだったのだ。高尾に断る理由はなかった。だから、同じように。
『オレも真ちゃんが好きだよ』
そう返した。これで二人は恋人同士になった。
……のだが、色々とあり会うどころか連絡を取ることも全くしなかった。それもまた色々あって普通に会ったりもするようになって今日まで来た。
そして、その日。
実は、目を治すと言った約束とは別の、もう一つ約束が交わされていた。
――お前の目が治ったら、良いんだな。
そう言って交わされた約束。二人が互いに相手を好きで付き合うことは自然な流れだった。けれど、この目はいずれ見えなくなって真ちゃんに迷惑を掛ける。だから、と言おうとしたのを先の言葉で緑間が遮った。
まさかの切り替えしに驚きながらも、それならと高尾も了承した。好きだと、一緒に居たいと思うのは、ずっと叶わないと思っていた願いだったから。
「答えを聞かせてくれないか」
もう一つの約束。それはつまり、プロポーズである。
ずっと好きだった。ずっと隣に居たいと、そう想い続けてきた。一緒に居られるだけでも幸せで、それはあの頃から何も変わっていない。
答えなんて、本当はとっくに出ていたんだ。
「……そんなの、勿論いいに決まってるじゃん。オレの方こそ、真ちゃんの隣に居てもいいの?」
「お前に居て欲しいから言っているのだ。受け取ってくれるな」
左手の薬指に嵌められた指輪を。
「うん。ありがとう、真ちゃん」
浮かべられた笑顔に、緑間もつられるように微笑んだ。
そう、答えは卒業式の日に出ていた。だけど自分の状況を考えて迷惑になるからと拒否をした。心の奥では、あの時からこうなることを望み続けていたのだ。緑間のことを素直でないと高尾は言うけれど、高尾自身も素直ではなかったのだ。
「真ちゃんの隣、他の誰にも譲らないから」
「当たり前なのだよ」
これで約束は全て果たされた。高尾の目は再び光を見ることが出来た。そして、これからもずっと共に。何年も抱き続けてきた想いが、漸く実った。
蠍座のラッキーアイテムはバスケットボール。蟹座のラッキーアイテムは婚約指輪。
おは朝占いが凄いことは高校時代に知っていたけれど、まさかここまでのものだったとは恐るべし。また改めておは朝は凄いのだと知ることとなった。
「愛している」
「……うん、オレも愛してる」
そう言って口付けを交わす。
まだ見ぬ未来はこの先に広がっている。それはきっと、明るく光溢れる世界。
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