春分の日を迎えた二月。暦では春だろうと体感的にはまだ冬。寒さが残っている季節だ。
学校でも風邪やインフルエンザに気を付けるようにと教師達に注意をされる。気を付けるといっても、手洗いうがいをしたりとかそういうことしか出来ない訳だけど。それでもやらないよりはマシなのだろう。
だが、それで絶対に病気を防げる訳ではない。当然だ。本人がどんなに気を付けていようと風邪になる時はなる。
……正直自覚はなかった。今朝、学校に行こうとしたところで母さんに呼び止められて初めて気が付いたレベルだ。
「和成、アンタ顔赤いけど大丈夫なの?」
言われても最初はよく分からなかったけど、言われてみれば少し暑い気もした。でも気のせいでも片付けられるくらいだ。元々気付いていなかったぐらいなのだから。
しかし、母さんは一応熱だけ測ってから行きなさいと言って譲らなかった。オレ自身は全然平気だったし、早く行かないと緑間も待っていると思ったけれど体温計を渡されたら断れない。けど、これで熱がないとはっきりすれば大丈夫だろうと思ったのだがこれが意外なことに熱があったのだ。
適当に誤魔化そうかと思っていると体温計を奪われてしまい、熱だと知られたオレはそのまま学校を休むように言われた。学校を休むということは、リアカーで登校することも出来ない。オレが部屋に戻って最初にやったのは緑間にメールを送ることだった。
『真ちゃんゴメン! 熱があるから今日学校休むわ。また明日迎えに行くから』
簡単な文章に絵文字や顔文字を追加して送信ボタンを押す。送信完了の文字を見て、オレはメールを打つ為に上げていた手を下したと同時に携帯もそのまま手放した。どうせすぐには見ないだろう。歩いて行くにしても時間には余裕がある。緑間なら大丈夫だ。
きっと緑間はオレのメールを見て体調管理がなっていないとか思うんだろう。風邪を引いたから否定も出来ない。でもいつから風邪だったんだろう。緑間にうつしてなければ良いけど。
「部活どうしようとか思うより先に緑間の心配してるってどうなんだよ、オレ」
そこまで考えたところで自分の思考に突っ込みを入れた。緑間だってオレと同い年の高校二年生なのだから、登下校のことやクラスでも一人で平気かなとか心配されるような年ではない。心配せずとも大丈夫に決まっている。いや、でもオレが居なかったらアイツ一人で飯食うのかな。なんかそれは寂しいよな。
って、そうじゃなくて!それよりもオレが気にするべきなのは部活の方だろう。主将が風邪でダウンしましたってどうなんだ。引いてしまったものはしょうがないけれど。とはいえ、そっちも緑間という優秀な副主将が居るのだからオレが気にすることなんてないか。
(なんか寝転がったら体が怠い気がしてきた。熱があるって認識したからかな)
怪我をしても気付かない内は痛みがないけれど、気付いた途端に痛くなる。それと同じだろうか。病は気から、なんて言葉もあるぐらいだ。あまり風邪だとかそういうことは考えない方が良いのかもしれない。
(あー……ヤバい、寝そう)
今日は休めと言われているから寝ても問題ないし、むしろ寝るべきだろう。でも一応もう少しくらい起きてた方が良いのかなと思う部分もある。さっきメールを送ったばかりだし。返事が来たとしても内容くらい予想は出来るけれども。
それでももう少しだけ起きていようと思うのに、意識は徐々に遠のいていく。
□ □ □
あれから結局オレはどうしたんだろうか。遅い来る眠気に勝てずそのまま寝てしまったんだろう。そういえば携帯、と思ってベッドの上の方に手を伸ばす。
『分かった』
その辺に放置してあった携帯を確認すれば、受信メールにはそれだけが書かれていた。予想通りの内容に思わず笑って、一言くらい心配してくれても良いのになんて思う。
そのまま画面の右上に表示されている時間を確認すると、現在はお昼を過ぎた頃らしい。食欲はないけど何かしら食べた方が良いんだろうなと思いながら、重たい体を起こして台所へと向かう。冷蔵庫を開けてあるもので昼飯を済ますと、薬を飲んで部屋に戻る。
台所に行った時に声を出して気付いたけど、喉にもきているようだった。段々と症状が酷くなっている様子からして、朝の時点ではまだ引き始めだったらしい。熱も朝より上がっている。ちょっとした体調の違いにすぐ気付くなんて母親は凄いなと思いながら右手には携帯を持つ。
(平気だろうけど、心配になるんだよな)
本人に言っていたなら余計なお世話だとか、人の心配をする前に自分の体調の心配をしろとでも言われそうなものだ。今はクラスにも部活にも馴染んでいるけれど、出会った頃のことを思い出してはちょっとだけ心配になる。
オレなんか居なくても緑間の生活にはこれっぽっちも支障をきたさないだろう。でも、いつもオレがアイツの隣に居るからオレが居なくなった今はどうしているのかとどうしても考えてしまう。
(オレはアイツの母親かよ)
きっと小学校に上がる子供の親は、友達が出来るかといった心配をするのだろう。それとあまり大差ない考えをしている気がした。オレは母親とは程遠い存在だけれども。
こうやって気にしていても仕方がないし、さっさと治して明日はいつも通りに迎えに行けるようにしないとな。今のオレがやるべきことはそれだ。何かメールでも送ろうかと思ったけれど、どうせ返事はないだろうからやめた。そして、オレはもう一度瞼を閉じた。
□ □ □
次に目が覚めた時は、さっきよりも部屋の色が変わっている気がした。それもそうだ。昼に寝たオレは夕方まで目を覚まさなかったのだから。太陽が傾いて部屋に橙色の光が差し込んでいる。
とりあえず時間を確認しようとしたところで思わず固まった。あれ、オレまだ夢の中に居るのかな。そうでもなければこの状況に説明が――――。
「起きたのか」
「え、真ちゃん? 本物?」
まだ頭が動いていないオレはそんな質問をしてしまった。すると緑間の手が伸びて来たかと思えばそのまま頬を軽く抓られた。
普通に痛い。痛いけど、オレ病人だって分かってる?言えばお前がくだらんことを言うからだと言われた。
くだらなくなんてないだろう。起きたら目の前に緑間が居ましたってどういう状況だよ。誰だって驚くに決まっている。
「つか、本物ならなんでこんなトコに居るの? まずどうやって入ったの? あと部活は?」
次々に質問を並べて咳き込めば、順番に答えてやるから落ち着けと怒られた。起きたのならまずは飲み物を口にしろとペットボトルを渡されて、大人しくそれに口を付けた。ゴクンと一口だけ飲んだそれはスポーツドリンク。わざわざ買ってきてくれたんだろうか。
「監督が研究会で居ないから放課後の部活はなくなった」
「へぇー……シュート練は?」
「今日の分は終わりだ。家にはお前の妹が入れてくれた。それと無理に喋るな」
「喋らないと話が出来ねーだろ」
「余計なことは言わなくて良い。お前の家に来たのはプリントを届けるように頼まれたからなのだよ」
プリントって小学生かよ。そんなに急ぎのプリントでもあるのか。そう思ったりもしてみたけど、緑間から渡されたのは別に今すぐに必要なプリントでもなかった。でも教師に頼まれたのなら届けなければいけないか。短くありがとうとだけ述べると、それだけだからお前は寝ていろと寝かされた。
言いたいことは色々あるけれど喋るなと言われてどうすれば良いんだ。オレ的には余計なことでもないんだけど、緑間には余計なことと思われそうなだけに言うのを迷う。気にせず話せば解決することだが、思ったより自分の声が酷かったからそれも戸惑われる。でも、喋らなければ何も伝えられないからと口を開いた。
「真ちゃん、今朝はゴメン。明日はちゃんと迎えに行くから」
「別に構わん。オレのことは気にせずにちゃんと休め」
「プリントもありがと。でも、うつると困るから帰って良いよ」
「言われなくても長居はしない。お前も気が休まないだろうしな」
そんなことはない、と勢いよく否定しようとしたところでまた咳が出る。何をやっていると呆れながらも緑間は優しく背中をさすってくれた。お蔭ですぐに落ち着いた。
だけど、これはもう完全に風邪だ。昼の時点で分かっていたけれど、ちゃんと休んで明日には治るんだろうか。意地でも治すけど。
「……風邪を引くと人恋しくなるというが、お前もそうなのか?」
翠の瞳が真っ直ぐにこちらを見る。そういえばそんな言葉もあったな。でも、人恋しいかと聞かれれば答えはノーだ。今日一日寝ていて一度もそう思ってはいないから。
けれど、正しく答えるのならノーも不正解なんだろう。緑間が傍に居てくれて、どこかほっとしている自分がいるから。その温かさに安心する。これは、どちらかといえばイエスの答えになるのだろう。
「分かんない。でも、真ちゃんは安心する」
今のオレに出せる答えはそれが精一杯だ。こうして話をしていてもまともに頭が動いてくれる気配がない。だけどオレの答えはそれで間違いないと思う。
それを聞いた緑間は「そうか」とだけ言ってペットボトルを渡してくれた。それを飲んでまた寝転がると、テーピングの巻かれていない右手がそっと頬に当てられた。冷たい手が気持ち良い。熱は測ったのかと聞かれたから、朝と昼に測ったとだけ答えておいた。その次は薬は飲んだのかって、なんだか凄い心配されているみたいだった。
それにもちゃんと飲んだと言って、うつらないうちに帰るように促すと「お前が寝たら帰る」と言われて驚いた。でもそんな真ちゃんの優しさが心地よくて、オレは気が付いたら眠りに落ちていた。
□ □ □
夜。夕飯は食べれるかと母さんがやって来た時には、当たり前だけど部屋に緑間の姿はなかった。食事を置いて部屋を出た母の姿を見送って、オレは一度部屋を見渡した。ペットボトルと一緒に置かれていたコンビニの袋にはゼリーなどの消化の良さそうな物が幾つか。それと、小さなメモが一つ。
『さっさと治せ。お前が居ないと練習に支障が出る』
と達筆な字で書かれていた。間違いない、これは緑間の字だ。あの緑間のことだから、オレが寝るまでは本当にここに居たのだろう。風邪がうつってなければ良いけれど、今のオレにそれを知る術はない。メールをしたって『寝ろ』ぐらいしか返ってこないだろう。
それなら明日会った時にお礼と一緒に聞いた方が良い。きっと風邪なんて引く訳がないとでも言われるんだろうけど。まぁそれはそれで良いだろう。
「ありがと、真ちゃん」
本人は居ないけれど言いたくなって小さく呟いた。
明日の為にもちゃんと食べて薬を飲んで、そうしたらさっさと寝ることにしよう。エース様の練習に支障を出させる訳にもいかないからな。
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