桜舞う季節が去り緑の茂る季節、五月。辞めていく者が後を絶たなかったけれど、この辺りまでくれば随分と落ち着いた。一年生もウチの練習に少しは慣れてきたことだろう。今月からはインターハイの予選も始まる。オレ達の作り上げたチームで戦う夏が始まる。
それと同じくらいの時期。秀徳高校では合唱コンクールが行われる。どうしてこの時期なのかは知らないが、学校行事一つ一つに理由など求めても仕方がない。
オレは昼休みに音楽室を借りると言った緑間についていき、白く長い指が鍵盤の上を走る様子を傍で静かに見ていた。
「いつも思うが、面白いのか?」
「面白いぜ。それに真ちゃんの音、結構好きだし」
音楽室を借りているのは勿論合唱コンクールの為だ。ピアノが得意な緑間は三年間、ずっとクラスの伴奏を担当していた。放課後はバスケの練習、家に帰ってからピアノの練習、それに宿題。どうやって生活しているんだとはとっくの昔に思った。
それなら休み時間に音楽室とか借りれないのか、という話になったのは一年生の時だ。放課後は吹奏楽部が使うけれど昼休みならと貸して貰えることになった。どのみちオレ達も放課後は部活があるから、借りれるのが昼休みで丁度良かった。
「どうせ分からないのだろう」
「分かるって。真ちゃんの音なら当てられる自信がある」
「どういう自信だ」
そういう自信だなんつっても意味が分からないだろう。オレにも分からない。でも、緑間の音なら当てられる自信があるのは本当だ。
音というのは同じ曲を弾いても奏者によって全く違う音が奏でられる。緑間が弾く音を聞くのは合唱コンクールのあるこの時期だけだけど、心地良いその音はオレの中にしっかり刻み込まれている。だから間違わない。
「真ちゃんって、絶対こっちの道も行けるよな」
「無理だろう。オレはとっくにピアノから離れているのだよ」
それにしては毎度滑らかに弾いている。その理由は練習をしているからだけではない。緑間自身がピアノを続けていないながらもピアノを弾いているからだ。本人曰く趣味の範囲らしい。趣味というよりは特技という方が近いらしいが、どっちにしろ素人のオレから見れば世間でも通用するのではないかと思う。
そう簡単な世界ではないという緑間の言葉は事実なのだろうが、少なくともオレは緑間の音が好きだ。お金を払っても良いと思うくらいに。
「勿体ねーな」
こんなに弾けるのに。オレが言っても、緑間はこれだけでプロになれるのなら苦労しないと言いながら楽譜に何かを書き込んでいく。それはそうなんだろうけど、やっぱり勿体ない。
バスケにピアノ。勉強もスポーツも出来て、選択肢は無数に広がっている。この間も進路希望調査のプリントを配られたけれど、緑間はその数えて切れないほどの選択肢から何を選ぶのか。確か提出は今週末だった。ちなみにオレは未だに白紙。進路なんて言われてもすぐには決められない。自分のやりたいこともまだ分からないしな。バスケは続けられたら良いけど、どうだろう。好きなのとそれを職業にするのは違うから。
「なぁ真ちゃん。オレもピアノ弾いてみたい」
「……弾けるのか?」
「弾けないから弾いてみたいんだよ。あ、猫踏んじゃったなら弾ける」
要するにただの初心者だ。猫踏んじゃったも楽譜を見て覚えたとかではなく、教室で誰かが弾いているのを聞いて自然に覚えたんだと思う。ピアノは習っていなくてもこれだけ弾けるっていう人は結構いるよな。オレもその内の一人だ。
それだけだから、他の曲なんて弾いたこともない。楽譜は一応読める。難しいことまでは分からないけれど、音楽の授業で習うレベルでなら。だからドレミも分かるには分かるけれど、それだけだから弾けと言われても弾けない。
「オレは合唱コンクールの為に音楽室を借りているのだよ」
「知ってるけど、見てたらオレも何か弾いてみたくなったっていうか。ほら、二人で弾くようなのもあるだろ?」
「連弾か。だが、それはお前も弾けなければ出来ないだろう」
「だから教えてよ。簡単なので良いから」
その為に音楽室に来たのではないけれど、緑間が弾いているのを聞きながらちょっとだけ弾いてみたいと思ったんだ。難しい曲なんて弾けないし、簡単な曲だって碌に弾けないだろうけど。先にも言ったように、オレの知識は授業で得られる程度のものだ。幼稚園のピアニカでやったキラキラ星くらいなら片手で出来ないこともない気がするけど、ただの男子高校生なんてそんなものだろう。
初めから駄目元で言ったことだが、練習するのだから駄目だと断られてしまう。分かっていたから「じゃあまたいつか教えてよ」と言って緑間の指を追う。どうやったらこんな風に動かせるんだろう。オレには未知の世界だ。
「大体、どうしてオレがお前に教えなければならない」
「オレの周りでピアノ弾けるのが真ちゃんだから」
それ以外の理由なんてない。親もピアノなんてやっていないし、妹ちゃんも同じく。オレが知っているのは緑間くらいだ。あとは中学の時の合唱コンクールで伴奏を担当していた子とかぐらいで、親しいという程の間柄でもない。教えて貰うとすれば緑間しかいない。
仮にここで教えて貰ったとしても、どこかで弾く訳でもないしそれで終わりだ。それがきっかけで色々挑戦したいなんて思うことはあるかもしれないけど多分ない。緑間のピアノを聞く方ならいつでも良いんだけどな。
「あ、真ちゃんはこの間の進路希望出した?」
「まだだ。お前は出したのか?」
「いや。ぶっちゃけまだ全然考えてない」
そうかと返した緑間に「お前は?」と聞けば同じような答えが返って来て少し驚いた。提出していないにしても緑間ならあれこれ調べたり考えたりしているのかと思ったから。調べていない訳ではないけれど、まだはっきりと将来のことは決められていないらしい。まぁ、そう簡単に決められるものじゃないよな。
クラスメイトにもお前はどうすると聞かれるけど、まだ考えてないと言えば大抵だよなと同意が返ってくる。進路を考えなければいけない年とはいえ、この先の人生に関わる選択をすぐには出来ない。考えないとなと思いつつも、今度の練習試合について先に考えてしまったり。そんな感じで日々が流れていく。
「バスケは続ける?」
「どうだろうな。続けられたら良いとは思うが」
この道のプロになる選択肢はある。そりゃ、これだけ打ち込んでいるんだからそのまま続けられたら楽しいだろう。オレも緑間も中学から部活はずっとバスケだ。少なくとも今はバスケなしの生活が考えられないくらいにバスケ漬けの毎日を送っている。これが来年になったらぱたりとなくなるとは考え難い。
「中学ン時はさ、バスケ続けられれば良いくらいにしか考えてなかったんだけど今はそうもいかないよな」
「それでも良いんじゃないか。プロにならなくてもバスケの強いところで続けても良いだろ」
「まぁね。そうするなら結果を出さないとだけど。オレ等の結果ってウィンターカップベスト四だよな?」
「今のところな。ベスト四でも進路には十分だろうが」
「どうせなら優勝しましたって言いたいな」
全国大会でベスト四なら大した成績だ。それなりに良い大学も選べるだろう。成績については置いておいての話だけど。それでも、ここまできたら優勝という結果を残したい。
勿論、その結果を出すつもりでいる。ベスト四という成績もオレ達が一年生だった時の結果だ。三年になってあの時よりも実力をつけた今、それ以上の結果を出すんだ。この三年間で一番のチームを作って。
「進路考えるよりバスケのこと考えてるんだけど、ヤバいかな?」
「前から勉強よりバスケのことしか考えていないだろ。授業くらい真面目に受けろ」
「受けてるって。暇な時に戦略考えてるだけで」
授業中に暇な時間などあるものか。どれも必要なことなのだからちゃんと聞けって、明らかに授業とは関係ない話をし始める先生も居る。って言ったけど、お前はそんなこと関係なしに授業を聞いてないだろって流石に失礼じゃないか。否定はしないけど。いつも授業中にノート二冊広げてるから。
キンコンカンコーン、とチャイムの音が聞こえる。昼休み終了五分前を知らせる音だ。ここから教室に戻るから今日の練習はこれでお終い。
「あ、次って移動教室だっけ? 前の授業の時そんなこと言ってた気がするけど」
「移動教室だ。さっさとしろ。遅れるのだよ」
楽譜とピアノを片付けた緑間は先に教室を出て行く。オレもそれを慌てて追い掛けて、通り掛けの職員室に鍵を返してから教室に。教科書や筆記用具を持ったら今度は理科室に。始業のチャイムが鳴る前には無事に席に着いた。
始業のチャイムと同時に教師がやってきたところで「起立、礼」と日直が号令を掛けて授業が始まる。ノートが二冊なのはここだけの秘密ってことで。
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