僕 3




「先輩はどうやって進路決めたんですか?」


 偶々講義が入っていないからと、久し振りに後輩の様子を見に来た先輩に尋ねる。ちなみに今は部活中だ。とはいえ、休憩時間なのだから何の問題もない。


「そういやお前も三年か。つーか、進路くらい自分の好きにしろよ」

「それが分からないから困ってるんすよ」

「なら教師に相談するとか、家族に相談するとか。色々あるだろ」

「家族も教師もオレにとっては一緒っすよ。それと、相談出来ないから先輩に聞いてるんですって」


 あーコイツの家族はアレだったな、と体育館の端に立つ人物を見た。高尾にとっての保護者であり家族であり、教師兼顧問。確かに相談するのは難しいかと納得する。一番親身に話を聞いてくれるのは間違いないが、だからこそ相談出来ないのだろう。近すぎるってのも考えものか、とぼんやり考える。
 進路相談なんて受けるようなタイプでもないのだが、可愛い後輩の頼みだ。話くらいは聞いてやるくらいはしても良いかもしれない。とりあえず話してみろと先を促せば、高尾はポツポツと口を開いた。


「正直、どうすれば良いのか分からないんすよ。特にやりたいことがある訳でもないし、それなら就職選ぶべきなのかなとか思って」

「ならそれで良いだろ。何に悩んでるんだよ」


 正にその通りだ。しかし、高尾は素直にその選択肢を選べない。何故かといえば、心のどこかでは別の答えを出しているからだろう。やりたいことが何もない、というのは正確には正しくない。高尾自身にも明確ではないが、少しばかり興味があるものがある。
 歯切れの悪い高尾に宮地も何かしら感付いたのだろう。それならそれで言えば良いのにとは思ったが、それが出来ないから相談をされているのかと納得する。面倒なことに巻き込まれた、とはこの時点では思っていなかった。
 …………のだが。


「おい、高尾」

「お願いします、宮地サン! 家事なら全部やるんで暫く置いてください」


 夜いきなり誰が訪ねてきたのかと思えば、それは良く知る後輩で。こんな時間に何の用だよ、常識を考えろ轢くぞ、くらいのことも思った。思うだけに留まったのは、その後輩があまりに思い詰めたような顔をしていたからだ。仕方なく溜め息を一つ吐いて家に上げたのが数分前。何も喋らない高尾に声を掛けたところで交わされた会話がこれだ。


「まずは理由を話せ。話はそれからだ」


 宮地は大学に進んでから一人暮らしをしている。場所は高尾も知っており、だからこそ今訪ねて来たのだろう。だが、いくら一人暮らしをしているとはいえ、理由もなしに泊めてやることは出来ない。何より、あの保護者が黙っているとも思えない。いや、家を出た理由こそがその人物である気もしていたけれど。


「真ちゃんと喧嘩しました」

「だから、その理由をだな……」

「進路のことで喧嘩しました」


 そういえば、母校に顔を出したのは約一週間前だったか。進路相談を持ち掛けてきた後輩を思い出す。その後輩とは勿論高尾のことで、あれから話し合う時間を設けたということは理解した。それを互いに理解し合うことは出来なかったようだが。
 はぁ、と溜め息を一つ。面倒事に発展したんだなとは宮地の心の内だけに留めた。進路のことと一括りにしたところで、その内容までは読めない。どちらかといえば、進路で揉めるようなことがあるとは思えない二人だ。だからこそ分からない。


「で、結局喧嘩の理由は」

「……進路の話です」

「いい加減真面目に答えないと轢くぞ。つーか追い出すぞ」


 本当に追い出すかは話を聞いてから決めるけれど。こうでも言わなければコイツは話さないということを知っているのだ。
 まぁ、元々話す気はあるのだろう。理由も説明せずに置いて欲しいなんて頼むような奴ではない。話す気はありながらも、話すまでの勇気がなかなか持てなかっただけだ。


「真ちゃんと進路の話をしてて喧嘩をしてたのは本当っすよ。ただ、そっから話が拗れて……」


 そう、初めは進路の話をしていた筈だった。それが拗れ出したのはどこからだっただろうか。進路については自由にしろと言われただけあって、特に問題はなかった。
 どうしてそこから拗れてしまったのか。原因なら分かっている。些細な一言を言ってしまったからだ。何故そんなことを口にしたのか。今になって思い返すと、徐々に何が悪かったのかが明白になってくる。それに合わせるかのように、高尾の表示も徐々に暗くなっていく。次第に声まで小さくなる始末だ。


「すみません、宮地サン。オレ、やっぱり帰ります」


 話が途切れたかと思えば、いきなり立ち上がる。思わず「は?」と間抜けな声が漏れる。そのまま帰ろうとし出した高尾を待てと腕を掴んで引き留める。
 帰ってくれるというなら、早く帰れと追い出す。だが、今の高尾は本当に家に帰るつもりなのか。それが分からなかったから引き留めた。家に帰れば必然的に緑間に会う。仲直りをするか、上手いこと会わないようにするかの二択だ。けれど、今の高尾を見ているとそのどちらでもない、第三の選択をするように見えるのだ。家に帰らずに世界のどこかで適当に過ごすという選択を。


「家に帰る気がないなら泊まっていけ。外でのたれ死なれても困るんだよ」

「……先輩って何気に優しいっすよね」

「何気には余計だ」


 一先ず帰るという選択は止めてくれたらしい。それを確認して腕を解放してやる。けれども、それが間違いだったということはすぐに気付いた。


「でも、ここにいたら先輩に迷惑掛けるんで」


 どうやらここに居ることを選んだ訳ではないらしい。先輩騙すとか何様だコイツと、言いたいことなら山ほどある。けれど、今はそれより先にやらなければならないことがある。
 コイツってこんなに面倒だったか。それがこの状況下で宮地が思ったことだ。でも、考えてみればコイツは自分のことをあまり話さない奴だったかということを思い出した。
 強引にこちらを向かせれば、薄っすらと透明な膜が出来ているのが分かる。まさか泣かれるとは思っておらず、宮地はぎょっとした。この後輩の泣き顔を見たのは、WC準決勝以来だ。先にも後にも、宮地が見た高尾の涙はそれだけ。


「迷惑っすよね。いきなり押し掛けた挙げ句泣くとか。泣くつもりなんてのはなかったっすけど」


 つう、と静かに雫が頬を伝う。泣くつもりはないのに、一度零れた雫は二つ。三つと。両の目から流れ落ちる。


「先輩も知ってますけど、オレは真ちゃんと二人で暮らしてきました。オレ、真ちゃんに酷いこと言ったんす。これで真ちゃんに嫌われたら」


 母さんが居て、父さんが居て。妹ちゃんと家族四人で暮らしていた時は毎日が笑顔に溢れていた。そこに真ちゃんや真ちゃんの両親も居て。そんな当たり前にあった存在が一瞬でなくなってしまった。
 それからというもの、高尾はずっと緑間と暮らしてきた。唯一の家族、誰よりも大切な人。ただ一人の……。
 そんな彼に嫌われてしまったらどうすれば良いのか。一番してはいけないことをしてしまったんだと、今更ながらに理解する。高校生だからとかそんなことは関係ない。高尾にとっての緑間という存在は、他の誰とも違う特別な位置にいるのだ。


「……オレ、どうすれば良いんすかね」


 親と喧嘩した。兄弟喧嘩、友人との喧嘩。どれに近いかといえば、やはり兄弟喧嘩だろう。けれど、一般的なそれとは違うような思考に辿り着くのは、一般的な兄弟とは違うからだろう。
 同じ立場ではない宮地に高尾の心境なんてものは分からない。だが、高尾にとっての緑間というのはそれほどまでに大きい存在で。ああ、だから。


「あーもうウッゼーなマジで! そういうのはオレじゃなくて本人に直接言えよ」

「言えてたらこんなことにはなってないですよ」


 確かにそうだろうな。だとしても、オレに言われても困るんだけど。どうしろっていうんだよ。っつーか、アイツもアイツでコイツのこと放っておくなよ。
 そこまで考えたのだが、あの緑間がコイツをこのまま放っておくことはないような気がした。そもそも、飛び出してきたのは高尾の方で。向こうはどうしているのかと疑問を抱いたが、そんなことを考える余裕はない。目の前には珍しく弱弱しい後輩が居るのだから。はぁ、と本日何度目かになる溜め息を漏らしながら、宮地は高尾を見据えた。


「ついでに言うと、誰も迷惑だなんて言ってねーだろ。勝手に決めつけんな。オレがいつ迷惑だっつった?」

「そりゃ……言ってないっすけど…………」

「大体、お前はいつも緑間ってウッセーんだよ。緑間以外にもオレや大坪、木村にチームメイトやクラスメイト。お前の周りにはいくらでも人は居るだろ」


 はっきり言い切ると、高尾は漸く目を合わせた。二人は他とは違う特別な関係だけれど、何も周りに人が居ないという訳ではないのだ。仲間や友達、沢山の人々が居るのだ。困った時には助け合ったり、共に何かを目指したり。何かあった時に頼るのも悪いことではないのだ。
 むしろそれは普通のことで、宮地からしてみれば普段隠している一面を見せられるくらいの相手だと思われたなら嬉しいと思う。いつも笑ってばかりで部内でもムードメーカーのような彼は自分のことをあまり話さないどころか、弱い部分は全然見せない。一緒に過ごしたのは高校生活の一年だけどはいえ、その一年はとても充実していて。だからこそ今でもこうして付き合いがある。


「家には置いてやるから、その代わり家事は全部やれよ」


 そう言って宮地は立ち上がる。こっちはまだ夕飯すら食べてないんだよ、と零しながら向かう先はキッチンである。お前はどうなんだよと疑問だけ飛ばされて、高尾は答えるよりも前に宮地の背に飛びついた。あまりに唐突な行動に宮地は若干よろけ、すぐに後ろを振り返るが。


「先輩、ありがとうございます! 家事はちゃんとやりますから暫くお願いします!」


 だから先輩は戻って、と笑った後輩はいつも学校で見ていたのと同じだった。立ち直るのが早いというかなんというか。怒る気も失せてしまって、不味いモン食わせたら刺すぞなんて物騒な言葉を投げる。キッチンでそれはシャレにならないんすけど!と笑いながら、料理には自信があるから期待してくださいと言って宮地と入れ替わるようにキッチンに立つ。何年も料理をしていれば、自然とレパートリーも多くなるし自信もつくというものだ。
 それから数十分。時間も時間だからとあるもので簡単に作られた夕飯は、なかなかのものだった。素直に美味しいと答えないのは、この先輩らしいところである。
 こうして、珍しい兄弟喧嘩による高尾和成の家出が始まった。