特別な関係の君と僕 4
おはようございます、と挨拶が飛び交う職員室。校庭には登校する生徒の姿がちらほらと見受けられる。八時を過ぎれば朝練のない生徒も徐々に登校をしている。
そんな窓の外にある風景から視線をずらし、隣の席を瞳に写す。淡々と仕事をしているのは相変わらずだが、長い付き合いであれば多少の変化にも気が付くものだ。
「真太郎」
名を呼べばチラリとこちらに視線を向けて「何だ」と短く返される。すぐに手元に視線は戻されたが、話を聞く気があるのなら構わない。手元のプリントも今すぐにやらなければいけないことではないが、この男が余裕のある行動を選ぶのはいつものことだ。かくいう赤司の手元にも同じような書類が幾つか並んでおり、早めに終わらせておこうと作業をしている最中だった。
「それはこちらの台詞だ。高尾と何があったんだ」
「別に、ただ喧嘩をしただけなのだよ」
これはまた珍しい、と赤司は思う。全く喧嘩をしない訳ではないが、この二人は元々喧嘩をすることが少ないのだ。赤司が把握していないというのではなく、本当に喧嘩の少ない兄弟で大喧嘩なんてものも数える程しかしたことがない。今回のそれがその一つであるということくらいは、これまでの会話で赤司も把握している。
喧嘩の原因は何なのかと緑間に尋ねれば、些細なことだとだけ返された。その些細なことで大喧嘩になっているのなら些細とも言い切れないのではないか、とは思ったがそれだけだ。些細かどうかなんてことはどうでも良い。もう一度何があったのかと繰り返せば、渋々ながらも緑間は昨晩のことを口にした。
「成程。それで彼が出て行ったまま帰ってこないという訳か」
一通りの話を聞き終えて漸く現状を理解するところまで辿り着く。
昨日、緑間と高尾は喧嘩をした。進路の話からどうしてあんな風に拗れていったのか。結果的に高尾は家を飛び出してしまった。それから暫くは緑間も一人で色々と考えていたのだが、飛び出したきりの高尾のことが心配になった。部活が終わって帰ってきたからの出来事だから、外は既に真っ暗。高校生が出歩くにしても遅い時間。補導されるならまだ良い。もしも何かあったら、と考えたら気が気ではなくなった。
帰ってくるものだと何の疑いもしなかったあの頃。行き先も告げられていて、何の心配もしていなかったあの日。ちょっと出掛けてくると言われて心配するほど過保護ではない。あれは事故だと分かっているから。だが、こんな時間に喧嘩で飛び出していったとなれば話は別だ。これで心配をするなという方が無理である。
「つまり、お前は昨日の夜から高尾には会っていないのか」
「そういうことになるな」
連絡を取ろうにも取ることは叶わなかった。携帯に連絡をした時にコール自体は鳴っていたから、高尾が意識的に出なかっただけとも考えられる。ただ気付かなかっただけという可能性もあるが、月から太陽に入れ替わるだけの時間があって気付かないということはまずないだろう。
そんな話をしていると机上の電話が鳴り出す。この時間に掛かってくる電話といえば、生徒の欠席連絡が殆どだ。誰が取っても良いのだが、ぱっと見回したところ他の職員は別の電話の対応をしていたり電話から離れていたりですぐに取れそうな者は居ない。
これも仕事なのだからとすぐ傍にある電話に赤司は手を伸ばした。案の定、それは生徒の欠席連絡。クラスと名前、それから欠席理由を聞いてガチャっと電話を切る。朝の職員室でよく見られる光景である。
「まだ時間はあるな。真太郎、場所を変えよう」
移動をするなら初めからすれば良かったのだが、職員室でも大丈夫な程度かと思っていた。だがこれは別室で話をした方が良さそうな雰囲気だ。この場で出来るのは周りに聞かれても問題ない程度の範囲なのだから。ちゃんと友人の話を聞いてやる為にも、場所を変えるのが最良の選択だと赤司は考える。
緑間の方も特に異議はないようで、赤司の言葉にすんなりと席を立った。それを確認するなり、二人は職員室を後にした。どこか空いている教室はないかと歩き、誰も使っていなかった会議室に入って再び向き合う。
「それで、昨日は眠らなかったのか」
「連絡をしたりしているうちに、気付いたら朝になっていただけだ」
「それは眠らなかったということだろう」
結論を言えば眠っていないことになる。だが、寝ないつもりだった訳ではないと緑間は弁解を示す。言葉通り、気が付いたら外には太陽が昇っていただけだ。
高尾のことが心配になって連絡は入れたが、予想通り繋がることはなかった。今さっき喧嘩をした相手から連絡が来ても受け取らないなんてのは容易く想像出来る。何か事件に巻き込まれたりということはないにしても、喧嘩をしていようが二人が会うのは避けられない。学校でも家でも一緒なのだ。会わないようにしようとしたってほぼ百パーセント無理だ。それにどうにか連絡を付けてでも話さなければならないことは幾つもあって、電話にメールとしてみたが無反応。こまめに連絡を取ろうとはしているものの未だにそれは出来ない。この調子だと、当分は碌に会うことさえ不可能だろう。
「とりあえず、高尾のことは心配する必要はない」
きっぱり言い切った赤司に、緑間からどういう意味だと鋭い視線が飛んでくる。相手が赤司なだけに、どうでもいいという理由で発言していないというのは分かっている。だからこそ尋ねる。何の根拠もない発言をする人物でないということも知っているから。
「さっきの連絡は高尾からだ。本人にも聞きたいことはあったが、ボクはまず真太郎の話を聞きたかったからね」
突然爆弾発言、なんてのも稀な話ではない。連絡をしてきたということは、今日は欠席をするということなのだろう。それ以外にわざわざ学校に連絡をする理由はない。どこに居るかは緑間は勿論、電話を受けた赤司も知らない。だが、ちゃんと連絡を入れるあたりどこか知り合いの家に転がり込んでいるのかもしれない。少なくとも何かに巻き込まれたりという心配は不要なようだ。
会議室に二人きり。特に隠すこともなく、緑間は昨晩から今朝までの出来事を赤司に話した。といっても、先程話したことは省いてだ。高尾が出て行って、それから。
「アイツがオレに会いたくないならそれでも良い。だが、この現状はどうにかしなければならないのだよ」
「そうだな。高校三年生で進路を決めなければいけない時期だ。加えて、彼はバスケ部の主将でもあるからね」
そんなことくらい、賢い彼なら当然分かっているのだろう。昨日の今日で整理がついていないだけだ。適当な欠席理由も緑間と話している途中だったお蔭で、赤司はすんなりと分かったと頷いた。これがもし緑間と話をしていなかったとしても、一緒に暮らしている高尾が自ら連絡を入れてくる時点で何かあったと分かる。電話に出たのが赤司で良かった、と緑間は心の中でこっそり思う。
仮に他の教師が出ていたとすれば、何があったのかと散々聞かれることになっただろう。現に赤司にも聞かれている訳だが、赤司には昔から相談したりと良く知っている仲だ。遅かれ早かれ話をすることになったのだから構わない。
「……赤司、オレはアイツを正しく育ててこれたのか」
小学校低学年の頃からずっと面倒を見てきた。この疑問は、これまでにも何度も抱いたことのある疑問だ。自分なりには精一杯やって来たつもりだ。だが、それが正しかったのかまでは緑間には分からない。
以前、似たような疑問を緑間は赤司にぶつけたことがある。自分も学生という力のない立場でありながら、それでも必死に大切な彼を守ってきた。だけど、自分では実際にどうなのか分からないのだ。以前に赤司に尋ねた時には大丈夫だと言ってくれた。今回も迷ってしまった友人に赤司は同じ言葉を投げようとしたが、それより先に緑間が続ける。
「和成も今年で十八になる。独り立ちしても良い年齢だ。もう、アイツは子どもではないのだからな」
当時はまだ一人で生きていくには厳しい年齢だった。だが、今はもう違う。高校生でも一人暮らしをしている人だって居るくらいの世の中だ。この生活もここらで終わりにするというのも有りかもしれない。特別な関係とはいえ、一生一緒に居るような間柄という訳ではない。ある意味、これは丁度良い機会なのではないかと緑間は思う。二人が一緒に暮らしていく理由なんて既にないのかもしれない。
『なぁ真ちゃん』『ねえねえ真ちゃん!』『真ちゃんあのさ』
隣でいつも笑ってくれる存在。その存在に緑間は随分と助けられてきた。だが、ここが終わりだというのならそれまで。緑間が何より望んでいるのは、高尾の幸せなのだから。
「お前達がそう決めたなら良いが、話をせずに決めつけるのは良くないぞ」
「分かっているのだよ。尤も、和成が帰ってこなければ話すことも出来ないがな」
会わないことには話もなにもない。電話にしたって、出てくれなければいけないのだから。高尾が話をしても良いと思ってくれるまで待つしかない。こんな話をしたらまたややこしいことになりそうな気がしないでもないが、いずれはしなければいけない話だ。避けて通ることは出来ない。
悲しげに揺れた翠の瞳を見つめる。唯一の家族の存在が緑間の中でどれだけ大きいかということを赤司は理解している。けれど、こんな表情をする友人を見るとチクリと心が痛む。そんな思いをしてまで彼を大切にするのかと思いながらも、彼だから大切にしたいのかと答えはとっくに出ている。
「真太郎、どうしてお前は彼にそこまで入れ込む」
「家族だから、という回答では不満か?」
「そんなことはない。だが、お前が振り回されているのを見ているとどうもな」
振り回されているなんて思ったことはない。引き取ったのは緑間の意思であり、一緒に暮らすことにしたのは高尾の意思だ。確かに色々と悩むこともあるが、緑間は高尾が居て良かったとは思えど、間違いとは一度たりと思ったことはない。
赤司からしてみれば、それは緑間の優しさだろうと思っている。その優しさに甘えて育った彼を否定はしない。彼だって色んな悩みを持ちながら生きてきたのだろう。それでも、何かと高尾に対して感情を抱いてしまうのは、緑間の友人として彼を傍で見ているから。
「彼がお前に会いたくないからと帰らないのなら、真太郎がボクの家に来るかい?」
何を言っているんだ、とは声には出さなかった。けれど表情には出てしまったらしく、赤司は小さく笑みを浮かべて続ける。
「それならどこにいるかも分からないより安心出来るだろう。ボクの家には部屋も空いているから心配は要らないよ」
「オレは子どもではないのだから大丈夫だ。別に暮らすことになったとにしても自分でどうにか出来る」
「それはまだ分からないだろう。少なくともその間、どこか住居があった方が良くないか?」
赤司の言うことは一理ある。どこに居るか分からないよりは、家に居てくれる方が安心出来る。会いたくないというなら、赤司の世話になってでもその選択を選ぶのがベストだろう。住む場所を貸してくれるというのは有り難い。勿論、その間の代金は払うつもりだ。赤司が必要ないと言っても、緑間の気が済まない。
だが、これはあくまでも一つの選択肢に過ぎない。それを選ぶのが良いような気も実際にしている。けれど、緑間にも数ある選択肢から一つを選ぶ権利くらいある。幾つもの選択肢がある中で、緑間が出した答えは。
「有り難い話ではあるが今回は遠慮する。いずれ一度は帰ってくるのだろうから、オレはそれを待つだけだ」
それがいつかなんて分からない。けれど、高尾は必ず一度は家に帰ってくる。居ない時を見計らって来るかもしれないが、どっちにしろ一度は話をする為に緑間の前に現れる。何も言わずにこのまま消えるということだけは有り得ない。
となれば、緑間に残された選択肢は家で高尾を待つことだ。ここで緑間が家を離れれば、高尾はまた余計なことを考えてしまうだろう。だから、緑間は家を出ない。ずっと一緒に暮らしてきたからこそ、彼の性格も分かりきっているから。
「それなら良いだろう。だが、ボクはいつでも真太郎を歓迎するよ」
「お前の家に世話になるとしたら、色々と気を遣いそうなのだよ」
そんなことはないさ、と赤司は言うが、向こうは赤司財閥という大きな家だ。気を遣うなという方が無理な話である。友人として心配してくれているだけだということは緑間にも分かっているけれど。今回はその気持ちだけ受け取っておくことにする。何だかんだで、この友人は自分の周りには居る友に甘いのだ。
「早いところ解決すると良いな。お前の仕事に支障が出ても困る」
「オレがこの程度のことで支障を出す訳がないだろう」
「どうだろうな」
何やら含みのある言い方だ。どういう意味なのかと問いたかったが、明確な答えは出ない気がして止める。
実際、緑間は仕事に支障など出さないだろう。彼の学生時代を見てきた赤司には言い切れる。だからこそ、こんな言い回しをした訳だ。あまりに抱えすぎてしまった時、彼の中の歯車が完全に狂ってしまう。そうなれば支障も出てくる。そんなことは殆どないけれども。
「さて、そろそろ戻ろうか。HRの時間になるからな」
現在時刻は、八時二十五分。意外と話し込んでいたらしい。三十分になれば朝読書の開始だ。高校生にもなってと思う生徒も居るだろうが、本を読むというのは大切なことである。この時間に己の受け持つクラスに向かう教師も多い。二人も準備をしたら教室へと向かうつもりだ。
会議室を後にし、再び職員室へ。それから階段を上って教室に。別れ際に何かあればすぐに話せと言った彼は、やはり緑間のことを良く理解してくれている友人だ。それに短く礼を述べて、教室の戸へ手を掛ける。
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