特別な関係の君と僕 6
『父さん……母さん…………』
静かな空間では声が良く通る。声変わりのしていないソプラノボイスが部屋に響く。幼いとはいえ、小学生にもなればしっかり理解出来るだろう。もっと小さかったのならこんなに辛い思いをせずに済んだかもしれない。いや、それもそれで辛いかと幼い姿を瞳に写しながら思い直す。
『どうして? なんで』
ぽろぽろと零れ落ちる涙。小さな子どもにこの現実はなかなか受け入れられないのだろう。かくいう自分も、すぐに受け入れられるかといえば答えは否だ。
しかし、この年齢にもなれば不慮の事故というものも理解は出来る。頭では理解していても、心は追い付かない。逆に、隣の小さな彼は頭で理解出来ずに感情がそのまま表に出ているのだろう。そんな幼い彼に現実を教えることの出来る人間は、今この場に自分を除いては居ないのだと。理解するのに時間は要さなかった。
『和成』
名を呼ぶと涙ぐんだ表情がこちらを見上げる。教えてやらなければいけないこと、言いたいこと、様々なものが頭に浮かぶ。けれど、いくら自分のやるべきことや現状を理解していようともまだ子どもであることに変わりはない。それは、あまりにも唐突な出来事で。どんなに表に出さないように努めても、それを押し殺して対応出来る程大人ではない。
目尻に涙を溜める小さな彼を、ぎゅっと力一杯に抱き締めた。言葉は何も発さなかった。ただただ、ぎゅっと抱きしめた。それに応えるように、小さな手にもぎゅっと力が込められた。
『真ちゃん。真ちゃん、真ちゃん……!!』
父さんが。母さんが。妹ちゃんが。
状況の呑み込めない子どもが声を上げて泣く。
父さん、母さん。
状況を呑み込めた子どもは声を殺して涙を流す。
『和成、お前はオレが守ってやる』
家族を失って、周りにはもう誰も居なくなってしまった。たった二人残された子ども。出来ることなんて僅かしかなくて、それでも生きて行かなければならない。その中に選択肢は幾つもあるけれども、この幼い体を抱きしめながらこの子は自分が守っていかなくてはいけないと思った。こんなにも小さな少年を一人になんて出来ない。失った者への悲しみと、残された者を守らなければと思う使命感と。本当の兄弟のように親しかったこの少年を放っておくことは出来ないと思った。
連絡を受けた病院は悲しみの海に。涙を流したのは、この病室限り。互いに気持ちの整理を付けることが出来なかったこの場所では、ただそれだけを話した。
「…………真ちゃん」
ガチャ、という音がしてから数十秒。部屋に入ってきた彼と会うのは数時間振り。数時間前には体育館の部活動で会っている。だが、この部屋で会うのは実に一週間振りといったところだろうか。
「お帰り、和成。部活で疲れているだろう。とりあえず夕飯にするか」
そこに広がるのは、一週間前と何ら変わりはない。一週間前のままの日常だ。違うことといえば、夕飯の支度をしたのが緑間だという点だ。他は何一つ変わっていない。
変わらないまま迎え入れてくれる緑間に、高尾は胸が痛くなる。本当に真ちゃんは優しくて、この家は温かい場所なんだと強く感じる。喧嘩をして何も言わずに飛び出して、連絡が来ても無視していたような弟にどうしてこんなに良くしてくれるのか。家族だから、と一括りにしてしまえばそれまでだ。だが、これは緑間が高尾をそれだけ大切に想ってくれているという証だ。それが分かっているからこそ、くだらない考えは頭から捨てた。
なんとか頷いて見せれば、緑間はふっと笑って先に座って居ろとだけ言ってキッチンに向かう。いつもは高尾が料理を作るだけに、緑間が支度をするというのは珍しい。元々緑間は料理があまり得意ではないのだ。こうして暮らしていくうちに少しずつ出来るようになったが、高尾と比べれば全然だ。それでも料理を作っていたのは、高尾が居ないからであり、高尾がいつ帰ってきても良いように準備をしていてくれたのだろう。
「真ちゃん、ごめんなさい」
「なぜ謝るのだよ。オレはお前が帰って来てくれただけで良い」
緑間がリビングに戻って来るとまず高尾は謝った。だが、緑間は謝る必要はないと言って帰って来てくれたことに安心している。最低でも一度は帰ってくると思ってはいたが、学校で会いながらもずっと帰ってこない弟を心配していたのだ。元気にやっていると分かってはいても、何も言わずに出て行ってしまったから気になっていた。緑間からしてみれば、帰って来てくれただけでも安心した。それだけで十分で、謝って欲しいなどとは思っていない。
そんな兄の優しさに、高尾は目頭が熱くなる。これだけで泣いたりはしないものの、あまりの兄の優しさに涙が零れそうになる。どうして、こんな兄と喧嘩したまま一週間も過ごしてしまったのか。今更ながら、どんどん後悔の念が押し寄せる。
「ごめん。勝手に家出て、そのまま連絡しなくて」
「別に構わない。お前が帰って来てくれただけで十分だ」
「ううん。酷いこと言ったり、心配させたり。好き勝手やってごめんなさい」
謝罪を続ける弟に、もう謝るのは止めろとだけ口にする。緑間は謝って欲しい訳ではなく、今此処に高尾が居てくれるという事実さえあるのなら構わないのだ。変に拗れてしまったけれど、高尾の性格くらい緑間には分かっているのだ。こうして後悔していることも、そのせいで色々と悪い方向に考えてしまっているだろうことも予想で来ていた。だから、初めから怒る気なんてない。ただもう一度ちゃんと話そうと思っていただけなのだ。
「和成、もう謝るな。オレは怒ってもいないし、お前のことを嫌いになったりもしない」
分かっているのだ。一人になった高尾が何を考えていただろうかということくらい。悪い方向に考え出すと、有りもしないことまで考えてしまっているのだろうと。嫌いになったりする訳がないのだが、高尾の性格ならばその可能性も少なからず考えてしまうのではないか。その辺も全て御見通しである。
そんな緑間の発言に、高尾はやっぱり気付いていたのかと内心で思う。いつもそうなのだ。何か悩み事があったとすればすぐに気付いてどうしたのかと尋ねてくれる。緑間は高尾のことをよく見ているのだ。逆に、高尾も緑間が何か悩んでいれば気が付く。それくらいの距離に二人は居る。今では誰よりもお互いのことを分かっているだろう。おそらく本人よりも理解しているのではないだろうか。
「ところで、お前が帰ってきたら聞いてみようと思っていたことがある」
「……何?」
この間は、何を言われるのかと怖がっているのだろう。先程も言ったように怒っていたりはしないのだけれども。それでも、わざわざ前置きするだけのことがある内容ということに体が跳ねる。喧嘩をしていなければ、こんな反応も見せなかっただろうけれど生憎今は喧嘩別れして漸く再び話すところに漕ぎ付いたところだ。無理もないかとは思いながら、緑間は高尾が帰ってきたら話そうと思っていたことを切り出す。
「お前も今年で十八だ。家を出たいと言うのならオレは止めない。あの日、オレは和成を守ると天国のお前の家族に誓った。だが、お前も守られるような年ではないだろう。だから好きにすると良い」
高尾が家を出てからずっと考えていた。どうするのが良いのかと。一人でもやっていける年齢になったのだから、家を出るなら出るで構わない。高尾がそうしたいと言うならば、緑間は止めるつもりなどないのだ。寂しくはなるが、好きにさせてやりたいとおもっているから。これは高尾の人生なのだから、思うようにさせてやりたいと考えるこれは親心というやつだろう。
一方、言われた方の高尾はぽかんと緑間を見た。まるで今までその選択肢はなかったかのようだ。実際、高尾の中にはなかったのだろう。緑間だって、こんな状況にならなければ気付くのはもっと遅かった。けれど、二人がこれから進んで行く未来には、こんな選択肢も存在している。それも一つの選択肢なのか、と高尾は頭の中だけで考える。そうした場合、と頭でシュミレーションがすぐに出来るくらいには、高尾は頭の回転が早かった。
「一つ、聞いても良い?」
「何だ」
「オレが邪魔ってことはないんだよな……?」
一週間前にもした質問を繰り返す。あの時、緑間はこれをすぐに否定した。今回も同じように、そんなことがある訳ないだろうと同じ答えを出した。緑間が生きていく上で、高尾のことを邪魔だなど思ったことはない。むしろその逆で、必要だと思っている。
その気持ちをそのまま伝えてやれば、少しの間を空けてからありがとうと返ってくる。感謝されるようなことは言っていないけれど、高尾にとっては緑間のその言葉は嬉しかった。
「なら、オレはこのまま家に居る。やっぱり、オレは真ちゃんと一緒に居たいんだ」
宮地の家で過ごしている間も楽しかった。毎日色んな話をして、笑い合って。友達、というか先輩だけれど。そういう人と一緒に、ルームシェアしたならこんな感じなのかと思った。こういうのも楽しくて良いなと思ったのも事実だ。
けれど、そうして暮らしながら緑間との生活を心のどこかで比べていた。毎日楽しくて幸せで、というのはどちらも似たようなものだ。だけど、やっぱり違うのだ。相手が違うのだから違いがあるのは当然。だが、高尾の感じた違いというのはそういうことではない。二人も実の家族ではないにしろ、家族同然の存在だ。けど、おそらく普通の家族以上の何かがそこにはある。ただ家族と呼ぶ以上の気持ちが、この心の内にあると気付いてしまった。
「良いのか? まぁ、今でなくとも家を出たくなったら出ても良いが」
「良いの。オレは真ちゃんと一緒が一番なんだって、今回のことで良く分かったから」
他の誰とでもない。一人が良い訳でもない。緑間と一緒に居たい。それが、この一週間で高尾が知った己の感情だ。
どんなに喧嘩をしても、まず考えるのは緑間のこと。緑間のことばかりぐるぐる考えて、結局分かったことは自分がどれだけ緑間を好きかということだった。端から見れば一目瞭然だけど、とは一緒に居た先輩からのお言葉だ。宮地でなくとも、二人を知っている人物なら口を揃えて言うだろう。
「もう何も言わずに家出とかしないから、一緒に居させてくれませんか?」
珍しい敬語に、緑間は微笑みを溢す。わざわざ確認するようなことでもないだろう。そう思いながらも、こちらもきちんと返してやることにする。
「元々、ここはお前の家だ。オレの方こそ宜しくな」
そう、ここは元々高尾の家なのだ。一緒に暮らすとなった時、緑間の方からそうしようと提案した。互いの家で行き来が多かっただけに、どちらも自分の家と同じくらいに間取りを把握していた。それでも、住み慣れている方が良いだろうということからこうなった。
もし高尾が一緒に暮らすのを止めたいと言ったのなら、緑間は自分が出て行くつもりだった。ここは高尾の家だから、出て行くとすればそれが良いと。幸い、少しの間であれば住まわせて貰える当てもあった。その場合は住まわせて貰いながらすぐにでも家を探すつもりでいた。
とはいえ、もうそんなことを考える必要はないけれども。
「和成、思ったことは何でも話せ。それで喧嘩になったとしても、蟠りを抱える方が良くないのだよ」
「うん、分かってる」
またいつか、こんな喧嘩が勃発するかもしれない。それでも、通じ合えないより何倍も良い。心の中で思うだけでは何も伝わらないのだ。ちゃんと言葉にして、初めて通じ合える。
そんな初歩的なことは、もう十分理解した。喧嘩をしてやたらと拗れてしまったけど、本音を言い合ったことで互いの気持ちを理解し合えた。ちょっとでも不安があるのなら、言葉にしてしまった方が良い。不安なんてすぐに打ち砕くことが出来るのだから。根本にあるものは、昔から何も変わっていない。
「ねぇ、真ちゃん」
「どうした?」
「やっぱりオレは真ちゃんが好き」
そう言って笑った高尾に、緑間も微笑んで「そうか」と答える。
小さい頃は、そう言って頭を撫でてやったりしていたものだ。流石に高校生にもなってそれは出来ないな、と兄は思う。高校生にもなればやらなくなるよな、と弟は思う。ちょっとしたことで抱き着いたり、スキンシップは年齢と共に減っていった。それでも高尾は時折するけれど、昔に比べれば随分と減ったものだ。
特別な関係。二人の関係を表すならその言葉を使うことになるのだろう。家族、兄弟、という言葉だけでは表しきれない。けれど、家族や兄弟といった部類に入るのも事実だ。
いつからだろう。それが変化していると気が付いたのは。
それでも何ら変わらずに過ごしながら楽しく毎日を送っている。このままの日常が続いて行くのが互いの為であり、幸せに過ごしていく道なのだろう。
ただ、時々思うのだ。
幼い頃のように触れ合えたならと。
そして走る衝動。
越えられない線を越えてみたいと。
それでも、オレ達は何も変わらずにこの日常を繰り返す。臆病者の物語。
一緒に居られるだけで幸せだと。隣で笑っていてくれれば良いのだと。
大切な人の幸せをただ願う。それが僕の幸せ。
← →